京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/30
本日:count up1
昨日:44
総数:253607
文字: 大きく | 小さく | 標準 配色: 通常 | 白地 | 黒地
ハートフルマーク
入園のご相談・見学など、随時OKです。園庭開放は9時30分から15時30分まで毎日行っております!お問い合わせは461−3642までお電話ください! みんなあそびにおいでよ!翔鸞幼稚園に!!

「意欲的に発想豊かに育つ加点法主義」と「自己肯定感を痩せさせるかも・・の減点法主義」

画像1
 昨年は「はやぶさ」「なでしこ」という言葉が世界中を駆け巡りました。どちらも日本中に勇気と感動と元気をあたえてくれました。世界で最初に長さ約600mで幅約300mの小惑星「イトカワ」から砂を持ちかえった探査機「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーだったのが川口淳一郎先生です。先生は「あれできない,これできない」ではなくて,「ああすればできる,こうすればできる」という加点法の発想を大切にしてでプロジェクトチームをまとめ成功に導きました。
 先生によると,減点法と加点法の一番の違いは,失敗をカウントするか成功をカウントするかということだそうです。失敗がカウントされるなら失敗を減らすように,成功をカウントするなら成功を増やそうと努めるようになります。また,100点が上限の評価法ではそれ以上の努力は無駄と考えるようになるのだそうです。減点法では「ローリスク・ローリターン」の手堅いプロジェクトしか出てこない傾向があるのに対して,加点法では「ハイリスク・ハイリターン」ですが世界初の新しい技術をいくつも組み合せているプロジェクトが出てきて,それが「はやぶさ」に乗せられていたのだそうです。チームは「こうすればできる」という発想の人ばかりでした。というようなことをある雑誌の対談で語っておられます。加点法の考え方での実践が,世界一の探査機を開発し見事に世界一の成功にまで導いたものでした。
 「はやぶさ」のプロジェクトのような大きなお話ではなくて,ごく日常の生活の私事で,こんなことがありました。小学校高学年の時に近所のおばあさんに誉められたことを数十年も経っている今でも思い出し,私の人生でも大きな支えとなってくれたなあとこのことを見つめ直すことがよくあります。
 薄暗くなってきていたある日の夕方,荷物を背負って父と山仕事から帰って来た時に近所のおばあさんの家の前を通りました。外で片付け物をしていたおばあさんが,「こんなに暗くなるまでよく働くねえ,がんばるね,えらいなあ」と褒めてくれたのです。当時は子どもも働き手の一人で誰でも家の仕事をしていましたが,「そう言われてみればこの頃は暗くなるまでよく働いているなあ」と子ども心に納得し,そこのところを見て褒めてくれたおばあさんの一言がとてもうれしく自分の自信に繋がっていったのです。
 この二つのエピソードは,私たちにとって教育や子育てのヒントを教えてくれます。どちらにも共通するのは加点法でのあり方や声の掛け方だということです。完璧の100点満点から,一つ失敗したから1点減点して99点,二つだから2点減点で98点・・という減点法ではなくて,「できないのではなくて,どうしたらできるだろう」「よくがんばっているね」は,否定ではなくて肯定するというまさに加点法です。
 子どもの教育についても同じことが言えるのではないでしょうか。真っ白で生まれてきて,つまりゼロからの出発の赤ちゃんの頃です。「ハイハイできるようになった,すごい」「1歩あるけたね,パチパチ」「トマトもモグモグ食べたね,えらかった」などは全部加点法です。このまま進んでいくと加点法主義になり,子どもは自信をつけていき自己肯定感を高め発想力も豊かになっていくと思われます。しかし,日本の子育てや教育ではどこの時点からか多くのことが,完璧なことから少しでも外れてマイナスがあると「何でできないの」「さっきから言っているでしょ,どうしてしないの」などと,減点法主義になっていくのです。減点法主義は「ここはアカンかった」という否定ですから,いつもそのパターンで対応されていると言われる子どもはだんだんと嫌になります。また自分が否定されているという風になっていきますので,自己肯定感も低くなり「どうせ僕なんか・・」「どうせ私なんか・・」と意欲も何もなくなっていくのではないでしょうか。
 私たち大人もまだまだ未熟です。だからこそ,その子の良いところをたくさん見つけて言っていきたい,その子の1ヶ月前より・1週間前より伸びたところや良く変容してきたところを見つけて「ここがすごいな,がんばっているな」と加点法でどんどんと語っていきたいと思います。
 子どもの良さを見つけて言葉に出して言うことができるということは,その良さや変容に少しでも気付き感動できているということです。気付き感動できるということは,すごいと少しでも思っているということです。すごいと思えるということは,自分もそうなりたいというあこがれであり同時に自分もそうしよう,マネしよう,そうなりたいという学びでもあります。肯定的に気付いたり感動したりそれを口に出して言っているということは,言っている大人自身がその時点で着実に成長しているということです。
 加点法主義は子どものあらゆる可能性を成長させるだけではなくて,言っている大人自身をも成長させているということです。私自身もこのことをもう一度よく考えて味わい,自分を振り返って子どもと共に成長できる大人になっていきたいと思います。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。
辰年の昇り竜に負けないようにみんなで力を合わせて
よい年にしていきたいですね。
本年もよろしくお願い申し上げます。

画像1

今年もお世話になりました。ありがとうございました

 平成23年も残り数日となりました。年が明けると平成24年です。
 今年は東日本の大震災,台風12号の大洪水,タイの大洪水など大きな災害で犠牲になられた方々が大勢おられます。そのような困難な中で助け合い支え合う思いやりの心を学び,自分自身を見つめ直し自分に問い続けた年でもありました。
 翔鸞幼稚園でも毎日の保育や行事を進める中で,保護者の皆様や地域の皆様,そして幼稚園に関わっていただいたたくさんの方々のご支援のお陰さまで,大晦日を迎えて新しい年を迎えることができます。ここに 翔鸞幼稚園を代表いたしまして皆様方に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

魔法の言葉 「ありがとう」 その1

画像1
魔法の言葉「ありがとう」〜その1〜                       
「ありがとう」は魔法の言葉と言われます。
何かをしてもらった時やめったにないことをしてくれた時,「ありがとう」と言うのが日本での習慣です。「ありがとう」と言われたら「役に立てて良かった」と何だか気分が良くなります。そして,お互いの心が温かくなっていきますので,魔法の言葉と言われるのだと思います。
 では,世界の国で「ありがとう」はどうなっているのでしょうか。
1 アメリカやヨーロッパ,アジアの映画やドラマを見ていると「サンキュ」「メルシー」「ダンケシェーン」「シェーシェー」などとよく言っていますよね。これは日本のありがとうを意味しますので,日本と同じように使っている国が多いのではないでしょうか。
2 「ありがとう」を何かをした人のほうが言う国があります,と以前小学校の国語の教科書に出ていたことを思い出しました。例えば,何か物をもらう時,物をもらった人は当然だという態度で何もお礼の言葉を言わないのです。反対に物をあげた人のほうが「ありがとう」と言うのだそうです。私たちからしたら「ええー,そんな」となります。でも,その国では持っている人が持っていない人にあげるのは当然のことで,あげなかったら逆に「なぜあげないの!」と避難されるのです。あげた人は「もらってくれてありがとう」という意味で,あげた方が「ありがとう」というのです。
3 「ありがとう」を言わない国もあるのだそうです。ネットを調べていたら,あるアジアの国に行った日本人が,現地の人にいろいろと世話を焼いてもらう度に「ありがとう」と言ったそうです。すると,何かと世話をしてくれているその国の人が,「気分が悪いからありがとうを言わないで」と怒ったそうです。「私はあなたのために世話を焼いています。それをあなたが「ありがとう」と言うと,世話を焼いたことがありがとうで帳消しになってしまう気がする。ありがとうの一言でおこなったことが帳消しになったら気分が悪いんだ」というような意味だったと思います。だから,この国では何かをしてもらった時は「ありがとう」を言わないで,してもらいっぱなしにしておくのが普通なのかなと思います。

 日本では,自分のために何かをしてもらったら「ありがとう」と言います。でも,東京と大阪では使い方がどうも違うようです。例えば,コンビニで買い物をしたら,東京では店の人が「ありがとうございました」と言うのに対して,大阪では買い物をしたお客さんもお店の人も「ありがとうございました」と普通に言います。京都でも大阪と同じように思います。バスに乗って目的地で降りる時に,乗客も運転手さんも「ありがとうございました」と言っています。
 私は,バスの乗客になって降りる時に「ありがとうございました」と言う方ですので大阪文化に属すると思いますが,こちらの方がどうも良いように思います。「お礼としてお金を払っているのだから,さらに「ありがとう」の言葉のお礼は言わないでしょう」と東京の人なら言いそうです。お金を払ったのだから五分五分で,言わなくて当然と言ったらその通りです。
 でも,よく考えてみると,代金とは別にして「忙しい中なのに,ご苦労をかけました」「大変だけれどどうぞがんばってください」「丁寧に対応していただいて,めったにないことで有り難かったです」「安全に運転していただき目的地まで来れました。お陰様です」など相手の気持ちや自分の気持ちを全部全部汲み取っての「ありがとう」と言っているのではないでしょうか。そこではより相手との距離の近さを感じます。両者とも息づかいを感じてお互いの気持ちを大切にしています。もし神様が空の上からこの様子を見ていたとしたら,どちらに軍配をあげるでしょうか。
 この「ありがとう」からお互いに気持ちが繋がり,初めての人とでも話が弾んだり楽しい出会いが始まると思います。

魔法の言葉 「ありがとう」 その2

画像1
魔法の言葉「ありがとう」 その2
「ありがとう」をお互いがもっともっと言い合えば,喧嘩やいじめが減っていき,きっとこれまで以上のよい関係が築けると思います。
 思い出した二つのエピソードを載せたいと思います。
エピソード1
 ある会社にAさんという社員がいました。特別な技術があるわけでも特別な才能があるわけでもない人だったそうですが,1つだけ心を込めて明るい挨拶や言葉掛けをする方だったそうです。「おはようございます」「こんにちは」「ありがとうございます」 誰かが出張と言えば「ご苦労さまでございます」「気をつけて行って来てください」帰ってきたら「お疲れ様でした」「ごくろうさまでした」など,とにかく会社のお客様だけではなく上司や同僚にも言っていたそうです。時には駅まで送っていったり出迎えたりする心の優しい人だったそうです。  
 そうするうちに課長さんが一人必要になりました。「誰が次の課長さんにいいだろう」という会議が開かれました。「才能の有るB君は」「いや,技術の有るCさん」「いやいや上司の覚えのいいDさん」などもめていた時,「Aさんはどうでしょう。Aさんといっしょに仕事をするとやる気が出るとみんなが言っています」という声があがりました。「なるほど」「それはいい」と満場一致でAさんが課長さんになりました。その課長さんの下ではみんなが温かい挨拶や声をかけてもらい,失敗しても「これをバネにしてまたがんばろう。ドンマイ」と言ってくれるので,「今度こそは」とみんなはやる気を出して頑張る課になったそうです。そして,次の部長さんはだれにしよう,という会議の時も「Aさんの課は明るく元気でみんなが成績がいいです」「Aさんを部長に推薦します」ということで,またAさんが部長さんに推薦されました。Aさんの部が成績がよくなったお蔭で会社も黒字になってきました。そして,とうとう最後には社長さんになったというのです。本当の話ですが,挨拶の威力はすごいものですね。

エピソード2
 あるおばあさんが語ってくれました。「私は冬になると足がガサガサになり霜焼けができて痒くて痛くて,毎年冬は難儀しています。だから冬は嫌いなんです」「お医者さんには行かないのですか?」「いえ,毎年行っていますが一向によくなりません。本当にどうしようもありませんわ,この足は。みんなの足が羨ましいです」という事でした。
 それから数年経ちある冬の日,おばあさんに会いました。「足はどうですか?」とたずねてみました。すると「どうもないです。もうどうもなくなったんです」ということです。「霜焼けはなくなったんですか」「そうなんです。実はね」と以下のような話をしてくれました。
 冬が近づいてきたある秋の日,自分の足を出して,今年もまた霜焼けになるのだろうなあ。この足本当に困るわと思って眺めていたのです。その時,気付いたのです。口には,グルメだと言って美味しいものを食べさせた。目には,旅先や四季の変化によい風景を見せてきた。でも足はどうだろう。生まれてからこの体を黙って支え続けてきてくれたこの足に感謝した事はあったのだろうか。「ありがとう」を言ったことはあったのだろうか。と気付いたのです。 それからです。「今日も重たい体を支えてくれてありがとう」「遠くまで歩いてくれてありがとう」と毎日寝る前に感謝して撫でたりマッサージをしたり,クリームを塗って大事にしたんです。すると,あれほど頑固でお医者さんも治せなかった霜焼けが,その冬は出ませんでした。それどころかガサガサ足がツルツル足になったのです。不思議な事です。その後は,冬になってももう霜焼けにはなりません。もう大丈夫,世界一の本当に有り難い足です。
 
 二つのエピソードに共通しているのは,「ありがとう」を言う時は,二人とも同時に優しさも実践しているという事です。ということは,私たちも先ず言葉で「ありがとう」を言っていると,いつのまにか優しさの実践者になっているということです。いえ,もっと突っ込んで言うと「ありがとう」を言っている時は,すでに優しさを実践しているということなのです。

声をかけましょう

画像1
 赤ちゃんはお母さんが言っていることをよく聴いて理解しています。赤ちゃんだけではありません。何とお母さんのお腹にいる胎児も,お母さんの感情を理解しその感情に影響されて生まれてくるということはお医者さんの言葉です。お母さんがお腹をさすりながらお腹の子に「お母さんはうれしいよ。楽しみにしているよ。元気に生まれてきてね」と言うとちゃんと反応するそうです。イライラするとイライラも反応するそうです。不思議なことに「出産予定日の××日はどうしてもお母さんは大事な用事のある日なので,次の日に生まれてきてね」と一生懸命にお腹の子に語りお願いすると次の日に生まれてくるそうです。赤ちゃんは自分の意思で生まれてきますから,お母さんの言うことや思うことがよくわかっているということです。「痛くないように生まれてきてね」とお母さんがお願いしたり,お母さんが出産の途中で苦しんでいるのを側で見ていたお父さんが「お母さんをいじめないで,痛くないように生まれてきて」と語りかけたら,その後は痛みが退いて楽な出産が出来た。などなど胎児がお母さんの思いや感情を理解して反応しているという事実が調べると続々と出てきます。
 ましてや,乳児や幼児には,まるわかりです。大人が本気かそうでないか,本当に自分のことを考えてくれているのかどうかなどということは,瞬時にわかっているはずです。
 以前「植物に感情はあるか?」ということが論争になったことがあります。動物はどうでしょう? とか考えてみるといろいろ不思議なことがわかってきます。 わたしが毎週会っているお百姓さんは「毎日畑を見回り『がんばっているね。甘くなってね』と声をかけるのと見回らないのとでは,出来や甘さが全然違うよ。見回って声をかけると甘くなってよく出来る」と言いました。また,同じことをしても優しく声をかけながらやると出来がよくなるとも言います。トマトや乳牛にクラッシックやモーツアルトを聴かせると出来たトマトや搾った乳が甘くなるので,音楽を取り入れた栽培や飼育をしている人も実際にいます。植物も動物も人の思いや気持ちや音楽を受け入れる能力があるとしか説明がつきません。
 「人間じゃないと,それもそこそこ大きくならないと何もわかっていない」などという考え方が,いかに傲慢で独りよがりで宇宙の法則からかけ離れた考え方かということです。胎児も乳児も幼児も小学生もしっかりとわかっています。私たちは先ず大前提としてそこを理解しておく必要があります。
 では次に,私たち大人は,どんな態度で接しどんな声かけを子どもたちにしたら良いのでしょうか? それは,一人の独立した人として命として丁寧に優しく接することです。その子の様子をよく見て,言っていることをよく聴いて事実をそのまま言うようにしようと思って声をかけたらいいと思います。
 例えば以下のような調子です。「もぐもぐとよく噛んでたべたね」(事実)「(聴いて)えっ,一人でトイレできたの? 一人でトイレできたね(聞いた事実)よかったね。がんばったね(子どもの気持ちや思い)」「洗濯物を片付けてくれたね(事実)」「汗をかいて手伝ったね(事実)」その後に付け加えるとしたら「ありがとう」とか「お母さんうれしいよ」です。
 例えば「台所を一緒に手伝ったね。ジャガイモの皮も剥いてくれたね(事実) ありがとう。お母さんうれしいよ(付け加えの感謝の言葉)」
 子どもはエネルギーが身体の奥から温泉のように湧き出ています。ですから疲れませんし疲れてもすぐ回復します。動き回りたがります。何でも兆戦したがります。エネルギーを発散しないとイライラするのです。ひどいときは病気になるのです。テレビに子守をさせないで,絵本を読んだり体を動かして遊ばせたり手伝いをさせたりどんどん動ける環境を作って挑戦させましょう。そして子どもの様子をよく見て,子どもの声をよく聴いて出来るようになったことやその子の良さを事実を語り,声かけしてほしいと思います。そういう思いで子どもに接していたら,私たち大人はこどもからご褒美がもらえるのです。子どもからたくさんのパワーをもらえますし子どもからたくさんのことを学ばせてもらえるのです。

責任感を持たせたい

画像1
「お母さんが言っていることが聞けないの!何回言ったらわかるの!」「わかったよ。やるよ」
 しばらくして「お母さんがしてって言うからしたけれど,失敗したやないか。おかげでテレビも見れなかったし」「お母さんの責任や」と子どもがお母さんに怒り責任もお母さんと言っています。こういうことは毎日の生活の中であることではないでしょうか。
 お母さんは子どもの将来を考えて今できてほしいと「これをして」と一所懸命です。結果が良かったら「がんばってくれてありがとう」とお母さん。子どもは「まあそれほどでもないけれど」ときっと思っているでしょう,でも,結果が悪かったらどうでしょう? 子どもにしたら「お母さんがやれといったからやったのに・・,お母さんの責任や」となりますし思っています。つまり,成功は自分のおかげ,失敗はお母さんのせい,というどうしようもない裸の王様を育てていることになります。
 では,結果が良くても悪くても自分の責任だと思う子に育てるにはどうしたらよいのでしょうか? それは,自分の子育て失敗経験から言うと,自分で判断をさせ選択させるようにするということです。
 例えば,赤ちゃんの時は,「どちらがいいですか?」と言って赤い色のおもちゃと色違いの青いおもちゃを見せ子どもを抱っこしてそこまで連れて行きどちらかを選ばせるのです。二つを取ろうとすることもありますがどちらかにより興味を持って目で追います。「こちらがいいんですね」と言って渡すのです。
 話ができるようになると更に判断させる場面が増えてきます。「お母さんね,今日デパートに行くけれど一緒に行くか家でお兄ちゃんと留守番するかどうする?」「一緒に行く」「おもちゃ売り場でいつもひっくり返って「買って買って」というよね。今度の誕生日プレゼントに買ってあげようと思うので今日はおもちゃは見るだけで買わないつもりだけれど・・,誕生日プレゼントを今日にする?それともみんなでお祝いをしてもらうときにプレゼントしてほしい。どちらにする?」という具合です。お誕生日の日に「僕のプレゼントは?」と聞かれた時は「この前,先でいいって言ったでしょ」でおしまいです。どうしてもしてほしいことは2者か3者の択一にして自分で選ばせるのです。責任は選んだ自分です。失敗したら「がんばったのに残念だったね,まだまだ若いし大丈夫。今度またがんばろうね」と励ましたらいいのです。
 あるお母さんは家から外へ出るときは子どもの社会勉強の時間と思っていると,言っておられました。バスに乗るとき「バスはみんなが乗っているしルールを守って乗ってほしいと思っているの。だからそういう風に乗れる?」「乗れる」「靴のまま席はアカンのわかる?」「わかるよ。お客さんの服が汚れるし」「じゃ,出かけようか」というようにしているそうです。
 子どもは,赤ちゃんでも大人の話していることがわかります。褒められているのか叱られているのか,自分はそれが好きなのか嫌いなのかも知っています。選ぶこともできます。ましてや3歳や4歳の子どもはよくよくわかっています。「どちらですか?」「どうするのですか?」と聞いてあげてください。自分で判断させる場面をたくさん作ってほしいのです。結果は本人が決めたことで本人の成果であり責任です。
うまくいったら「よかったね」,うまくいかなかったら「今度またがんばったらいいじゃない。どうしたらよかったのかなあ?」と言ってもらったらよいと思います。
 そうすると様々な場面で,自分で判断し結果に自分が責任をとるという生き方になっていきます。良い判断をするために自分で注意深く見たり考えたり聞いたり,物事について自分から勉強して調べたりするようになっていくのではないでしょうか。


「認める」で・・いじめなくなり笑顔を取り戻した

画像1
 小学1年生の A子,B子,C子の3人がいつも一緒に帰っていました。そのA子が,B子と組んでC子をいじめていました。カバンを持たせる,「いやだ」と断ると言葉の暴力で泣かせるなどです。あるときA子のわがままな願いをC子が断ったときのことです。泥水の水溜りにわざと押し倒して服をドロドロにしました。C子は泣きながら家に帰ったので,それを見たお母さんがいじめられているとわかったのです。C子のお母さんは担任とA子のお母さんに連絡しました。A子のお母さんはA子を連れてC子の家に行き一緒に誤りました。
 A子のお母さんが職員室によって「この度はすみませんでした」と挨拶をされたので,「少しいいですか?」と時間をもらいました。お母さんはまだ30代前半ぐらいの若さなのにやつれた暗い顔をしていました。
「お母さんはお仕事ですか?」と聞くと,「ええ,朝7時半頃にもう仕事に出かけます。娘のA子は家の鍵をかけて学校へ行くのです。私と娘の2人ぐらしです」「仕事から6時とか遅いと7時頃に家に帰るのですが,A子が洗濯物を取り入れていないので,叱ったりしますが,・・それがいけないのでしょうか?」「お母さん,よくがんばっておられますね。A子ちゃんも偉いね。まだ1年生なのに,洗濯物を取り入れたり,風呂の掃除をしたり・・,がんばっていますね」「でもそんなことは1年生だから当たり前です。だから別に何も言いません。私も目一杯がんばっていますし,・・反対にさぼっている時は叱ります」ということでした。
「そうですか。A子ちゃんもお母さんも目一杯がんばっておられるのですね。お母さん,A子ちゃんを褒めてください」「えっ,褒める? なぜですか? 当たり前のことをしてもらっているので褒めるなんて・・・それに褒めるって?・・A子を褒めたことがないのでどうやったらいいかわかりません」ということです。「お母さん。とってつけたように褒めるのはだめですがね,A子ちゃんがしてくれた事実をそのまま言って,その後にお母さんは助かるわとか,ありがとうと言われるとよいですよ」「例えばね,A子ちゃん洗濯物取り入れてくれたんだね(事実)。お母さん助かったわ。ありがとう」「それでいいんですか?」「それでいいんです。してくれた事実とありがとうで最高の褒め言葉ですし,A子ちゃんを最高に認める言葉なのですよ」「わかりました。やってみます」と言うことでお母さんはお家に帰って行かれました。
 1ヶ月ほどしてA子のお母さんが職員室にまた寄ってくれました。明るいきれいな顔をしていました。思わず「お母さん,きれいになられましたね」と言ってしまいました。お母さんは「あれから先生に言われたことをやってみました。すると,次の日はもっとやっていたり,自分からお手伝いも勉強もやるようになって,いじめることもなくなったとC子ちゃんのお母さんも喜んでくれました」ということでした。「お母さん。よくがんばっておられますね。毎日朝から晩まで働いて疲れているのに・・」「いいえ,疲れていても子どもと話をしていたら疲れがなくなる感じです」ということでした。「お母さんこの調子ですよ。よくA子ちゃんを見て事実を言ってくれていますね。見ていないのにとってつけたようなお世辞や褒め言葉はだめですよ」「がんばります」ということでした。まだまだ道のりは遠く険しいですが,お母さんはコツを身につけてくれたようで若返っておられました。

家の子ばかりが最後まで後片付け,損しています。どうなんですか!

画像1
 何年か前のことです。あるお母さんが担任の先生に不満をぶっつけました。「家の子ばかりが最後まで後片付をしています。他の子の後片付まで,家の子がやっています。不公平じゃないですか」「その通りです。不公平です」「なぜ他の子にも最後までさせないのですか?」「そうしようとしているのですが・・直ぐにはできないのです。すみません」
「家の子は真面目だから先生の言われたことを最後までやるんです。みんなが中途半端で終われるところを,家の子は終われないのです。家の子は損してばかりです。本人もそう言っています」ということでした。
「お母さん,すみませんね。ご心配をかけて。指導が至らなくて申し訳ありません」「どうなんですか?先生!」憤りがなかなか治まりません。
「お母さん。片付ける力なんです。この力がお家の子は身についてきているのです。片付ける様子を見ていてください。片付ける物の大きさや順番や整理する場所など実にスムーズです。普通はああはいきません。見事じゃないですか。今日また最後まで後片付をしてくれました。ますます整理整頓する力がついています。頭の中が脳の中が益々整理されてきていますね。だから片付けることができるのですよ。お母さんは損をしたと思うかもしれませんが,私から言わせたら反対に一番得をしていると思いますよ。ようがんばっているなあ。片付ける力がすごいなあと褒めてください」ということを話しました。お母さんは「そうなのですか。片付ける力なのですか」と少し納得してくれた様子でした。
 すでに「挨拶」のところでお話したように,この片付けるという力は自分の血や肉になってどんな場面でも自分を支え大応援団となって自分を助けてくれます。
 仮にスーパーへアルバイトに行ったとしましょう。ダンボールを潰して一箇所に片付けたり,同じ製品の箱を一緒にしたり,この子だったら直ぐに段取りを飲み込んでやってのけるでしょう。言われなくてもそのあたりを掃き清めるでしょう。支店長からは「できる子だなあ。たすかるなあ」ということになります。
 よいことならどんなことでも身につけたらよいではないですか。全部が自分自身の力となって自分の人生を助ける大応援団となっていくのですから。

なぜ? 挨拶・挨拶って言われるの?

画像1
幼稚園でも小学校や中学校でも高校でも「おはようございます」「ありがとう」挨拶や感謝の言葉が言えるようにしましょう。といいます。なぜ,挨拶挨拶というのでしょうか? 誰のために言うのでしょうか? 挨拶しても返ってこないことも多いし自分から言うことはあほらしいものなのでしょうか?
 挨拶は「私はあなたの敵ではありません。味方ですよ」という言葉の印と言えるのではないでしょうか。丁寧な人は挨拶のとき頭を下げてお辞儀もします。相手に頭を垂れ地面や自分のおへそをを見ます。昔で言えば相手が敵なら「面〜(メーン)」と頭を砕かれることでしょう。でも,頭を下げて「おはようございます」「こんにちは」「私はあなたの味方です。友達になりたいです」という態度の人に「メーン」と普通はいかないと思います。挨拶をしてくれる人は悪い気はしない相手ですし,お辞儀までしていたら隙だらけの無防備状態の人だからです。そんなところに「メーン」などと卑怯なことはしないということが人の道だったからです。
 では,挨拶は相手との紛争を避けるもの折り合いをつけるところに,その意味があるのでしょうか?
 毎朝通用門でお母さんやおうちの人と一緒に登園した子ども達を迎えます。「おはようございます」と大きな声で挨拶をします。子ども達もおはようございますと挨拶を返してくれます。50人余り在園していますので,50回以上は自分から言っていると思います。すると不思議なことが心の中に沸き起こってきます。「疲れたのかなあ,今日は朝からいまいち調子が悪いなあ。・・」という日でも,自分の挨拶の回数が増えていく度に心が元気になっていくのです。口はくたびれていきますが。
みんなを迎えた頃にはすっかり元気百倍になっています。なぜなのでしょう?
 みんなに元気を与えたつもりで実はみんなからパワーをもらっていたということです。
 ある和尚さんがおっしゃいました。「挨拶をしたり他人に優しくしたり,掃除や片づけ整頓をしたりした後は,何か心がスッキリとしませんか? するでしょ。なぜだと思いますか? 私たちの体には毎日埃や垢がたまりますね。だからお風呂に入りシャワーをかかるとスッキリしますね。実はね,心にも毎日毎日垢がたまっていくのです。硬い殻になるまで垢がたまったら容易には取れませんよ。頑固一徹になって他人の話も聴けなくなりますよ。さあその垢をあなたはどのようにしてとりますか?」「えっ?」「心がスッキリしたというときは、心にシャワーがかかって少し垢が取れているのですよ」ということでした。
 自分からの元気な挨拶や優しい行いや掃除も片付けも実は自分の心にシャワーをかけていたのです。よくよく考えていくと自分のためにしていたのですね。一番得をしていたのは自分だということです。
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

幼稚園だより

学校評価

京都市立翔鸞幼稚園
〒602-8393
京都市上京区御前通今出川上ル鳥居前町671
TEL:075-461-3642
FAX:075-462-5321
E-mail: syoran-e@edu.city.kyoto.jp