京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/26
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「ありがとう」は魔法の言葉          (お詫び訂正です。エピソード3,管長を官長としていました。管長に訂正します)

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「ありがとう」は魔法の言葉?   

 「ありがとう」については,色々な本も出版されていますし,多くの方がその大切さを言っておられます。そんなに言われている「ありがとう」は,一体どういう意味があって,魔法があるとしたら,一体どこが魔法なのでしょうか?
 結論を先に言いますと,「ありがとう」と言える人は,あるいは心の中で言っている人は,
イ どんな物事にも感謝できる人
ロ 心が本当に豊かな人
と言うことができます。
 感謝できる人は,出会う物事すべてに感謝の姿勢で臨みますし,そこでさらに「すごいなあ」「教えてもらったなあ」と学んでいます。ですから,ますます成長し心が豊かになっていきます。自分を見つめる力がますます高まっていきますので,腰も低くなっていきます。「実るほど 頭(こうべ)を垂(た)れる 稲穂(いなほ)かな」です。
 また,「ありがとう」が言える人は心が豊かですから,相手の気持ちも場の空気も読めるようになっていきます。とにかく「ありがとう」を始めていると,心も調ってきますので,上記のイ,ロになっていくのです。と多くの方たちは言われますし,私もそう思います。
 下記の1〜4のエピソードを読んでいただき,「ありがとう」について考えていただけたら幸いです。そのうち,1,2は昨年度から載せているものです。3,4を新たに付け加えました。

エピソード1
 ある会社にAさんという社員がいました。特別な技術があるわけでも特別な才能があるわけでもない人だったそうですが,1つだけ心を込めて明るい挨拶や言葉掛けをする方だったそうです。「おはようございます」「こんにちは」「ありがとうございます」 誰かが出張と言えば「ありがとうございます。ご苦労さまです」「気をつけて行って来てください」帰ってきたら「ありがとうございました。」「お疲れ様でした。ごくろうさまでした」など,とにかく会社の上司や同僚だけではなく,当然お客様には率先して言っていたそうです。時には駅まで送って行ったり出迎えたりする心の優しい人だったそうです。  そうするうちに課長さんが一人必要になりました。「誰が次の課長さんにいいだろう」という会議が開かれました。「才能の有るB君は」「いや,技術の有るCさん」「いやいや上司の覚えのいいDさん」などともめていた時,「Aさんはどうでしょう。Aさんといっしょに仕事をするとやる気が出るとみんなが言っています」という声があがりました。
調べてみるとなるほどその通りです。「確かにその通りですね」「それはいい」と満場一致でAさんが課長さんになりました。その課長さんの下では,みんなが温かい「ありがとう。よくがんばっているね」と声をかけてもらい挨拶をしてもらいます。失敗しても「これをバネにしてまたがんばろう。ドンマイ」と言ってくれるので,「今度こそは」とみんなはやる気を出して頑張る課になったそうです。
 何年かして,次の部長さんはだれにしようという会議が持たれました。その時も「Aさんの課は明るく元気でみんなが成績がいいです」「Aさんを部長に推薦します」ということで,またAさんが部長さんに推薦されました。Aさんの部が成績がよくなったお蔭で会社も黒字になってきました。そして,とうとう最後には社長さんになったというのです。お寺さんの和尚さんが,本当の話ですよと話してくれました。「ありがとう」の威力はすごいものですね。

エピソード2
 あるおばあさんが語ってくれました。「私は冬になると足がガサガサになり霜焼けができて痒くて痛くて,毎年冬は難儀しています。だから冬は嫌いなんです」「お医者さんには行かないのですか?」「いえ,毎年行っていますが一向によくなりません。本当にどうしようもありませんわ,この足は。みんなの足が羨ましいです」という事でした。
 それから数年経ちある冬の日,おばあさんに会いました。「足はどうですか?」とたずねてみました。すると「どうもないです。もうどうもなくなったんです」ということです。「霜焼けはなくなったんですか」「そうなんです。実はね」と以下のような話をしてくれました。
 冬が近づいてきたある秋の日,自分の足を出して,今年もまた霜焼けになるのだろうなあ。この足本当に困るわと思って眺めていたのです。その時,気付いたのです。口には,グルメだと言って美味しいものを食べさせた。目には,旅先や四季の変化によい風景を見せてきた。でも足はどうだろう。生まれてからこの体を黙って支え続けてきてくれたこの足に感謝した事はあったのだろうか。「ありがとう」を言ったことはあったのだろうか。と気付いたのです。 それからです。「今日も重たい体を支えてくれてありがとう」「遠くまで歩いてくれてありがとう」と毎日寝る前に感謝して撫でたりマッサージをしたり,クリームを塗って大事にしたんです。すると,あれほど頑固でお医者さんも治せなかった霜焼けが,その冬は出ませんでした。それどころかガサガサ足がツルツル足になったのです。不思議な事です。その後は,冬になってももう霜焼けにはなりません。もう大丈夫,世界一の本当に有り難い足です。

エピソード3
 妙心寺派の第26代管長さまで,花園大学の学長さまもされていた山田無文(むもん)ご老師さま(1900年〜1988年)は,たくさんの著書も残されています。確か,そのご本の中に,次のようなお話があったと記憶しているのですが。山田ご老師が,インドを旅していた時のことを綴っているお話でした。
 早朝,茶色く濁ったガンジス川でみんなが沐浴(もくよく)をしています。歯を磨いて口をすすぎ,川に入って体や頭を洗い身を清めているおびただしい人がいます。上流でも下流でも同じガンジス川の水で体を洗い,またその水で炊事もしているのです。牛もその水を飲んでいるのです。何というエネルギーでしょうか。きれいとか汚いとかそんなことをいちいち気にすることなく,聖地であるガンジス川と共に毎日の習慣がある。人々の生と死もこの川と共にある。みんなが黙々と身を清めている姿を見ながら,そんなことを考えていると,ガンジス川の対岸から朝日が昇ってきました。
 すると,沐浴をしていた人々が岸辺にあがり,みんなが直立して太陽の方を向いて手を合わせているのです。本当にたくさんのおびただしい人たちが,太陽に合掌しているのです。その時,ご老師さまは何とも言われない深い感動を覚えました。貧富の差は激しく,カースト制度も残っていて混沌としているインドです。しかし,この計り知れない人々のエネルギーとたくましさ。太陽に感謝し,ガンジス川に感謝し合掌する,どっしりと大地に根ざしたその人々の厳粛で敬虔な心(けいけんなこころ・・深くうやまって態度をつつしむさまとその心)を見たのです。その時,ご老師さまは確信を持って思ったと言うのです。このインドという国は,今は雑然とし混沌としているが,近い将来きっとすごい国になるだろう。世界をリードする国になるだろうと。ご老師さまのお話は,このようなことであったと記憶しています。
 あれから三十年,もう少し経ったでしょうか。2011年の「現代ビジネス」というデーターの中に,アメリカの医師の38%,NASAの技術者の36%はインド人。また,世界最難関といわれるハーバード大学の学生の増加率は,過去十年間で190%で,中国の164%を超えるとあります。さらに,「学生だけでなく、教授陣にもインド系は多い。たとえば、ブラジル、ロシア、インド、中国、いわゆるBRICs諸国の中で、ノーベル経済学賞を受賞しているのは、インド人のアマルティア・セン、ハーバード大学教授だけ。ハーバードビジネススクールの学長は、インド生まれのニティン・ノーリア氏だ。」(同「現代ビジネス」とあります。 
 母国語のほかに英語をスムーズに使いこなし,2けた×2けたの九九を暗算できる数学を学ぶインドの人たち。そのような毎日の一所懸命な学びの土台に,さらにどっしりと大地に根ざした感謝する心を持ったインド人が,世界で活躍しリードしている姿を,ご老師さまは三十年前にすでに見えていたのです。人間の根っこの根本のところで,感謝する心がいかに大切なことなのかを物語っていると思います。

エピソード4
 最後のエピソードです。
 「ありがとうは魔法力」(佳川奈未 よしかわなみ著)と言う本に書かれていることです。大雑把な内容は,「自分にありがとうと言います。自分の手にも足にも頭にも,目にも耳にも体の全部に,心にもありがとうと言います。体を支えてくれて足さんありがとう。聞いてくれて耳さんありがとう。悩んだり苦しんだりしているのに踏ん張ってくれている心さんありがとう・・」と言う具合です。また「今日もお家さんありがとう。安全に乗せてくれて車さんありがとう。入らしてくれて部屋さんありがとう。・・」と言う具合です。だから,始める前には「今日は出かけてきます。お家さん留守番をどうぞお願いします。車で××に行かせてもらいます。安全をどうぞよろしくお願いします。・・」とお願いをするのだと言うのです。
 この筆者は,実母にかわいがられたことがなく何も感謝できませんでしたと始めています。自殺をしようと思いつめて自分の体を傷つけていた時に,あるお寺の尼僧さんに「とにかく出会う物事すべてに声に出して,出ない時には心でありがとうを言いなさい。必ず奇跡が起きます」と教えられて,始めたのだということでした。これを始めてから「お母さん,私を生んでくれてありがとう。・・してくれてありがとう」と心から感謝できるようになった,奇跡が起きたということです。また,経済的にも裕福になってきたのだそうです。財布にもお金にも「財布さん,お金さん××してくれてありがとう」と感謝するわけですから,そうなるのだろうなあと思います。その筆者さんが,自分に感謝できると他人にも感謝できる,自分に感謝すると他人にも感謝するということも書かれています。
 私もこの本を読んで思いました。他人に感謝できにくい人は,先ず自分に感謝する言葉「ありがとう」を手や足や心や胃や心臓や脳や・・に言ったらいいと思います。宇宙の始まりから138億年の歴史を持っているこの身体です。この自然です。それだけで,そこに自分が在るだけで「ありがとうございます」と言えると思います。その次に,家とか自分の服や靴や持ち物に・・,すると,他人にも必ず感謝できるようになると思います。すると,些細なことにでも「ありがとう」と声に出して他人にもいうになります。その時には,本にも書かれていますが,自分の身の回りに奇跡と思えるような大きな良い変化が起き始めている,あるいは起きているはずだろうと思うのです。
 話は変わります。私の尊敬している和尚さんから聞いた話です。ある息子さんのところにお嫁さんが来ました。息子さんのお母さん,お嫁さんから見たら義母,つまり姑さんですが,息子を盗られたような気がして全く面白くありません。お嫁さんが来る前の息子なら,「お母さん,今日のご飯美味しかった」「お母さん,今日はうれしいことがあって,お土産を買ってきたよ」「お母さん,お母さん」だったのに,お嫁さんが来てからはそうはいきません。
 2人が仲よくしていると腹が立って腹が立ってたまりません。ストレスを全部お嫁さんにぶつけます。「こんな水臭い味噌汁,誰が飲めるの?」「これで片付けたといえるの?埃だらけごみ屋敷じゃないですか!」と人差し指でなでた指のわずかな埃を見てののしります。お嫁さんが,近所のどこよりもきれいに竹ぼうきで外掃除しても,一枚の枯葉を見つけて,「あなたは何度言ったら分かるのですか!掃除の仕方も知らないの。情けない,どんな教育を受けたの。やり直しなさい!」それでも,お嫁さんはどんなに言われても,反抗するどころか「すみませんでした。教えていただきありがとうございます」と,また用事や家事をがんばるのです
 近所でも評判になりました。「あのお嫁さん,もう直ぐ実家へ帰るで」「鬼みたいな姑さんやなあ」「よう辛抱してはるわ」 近所の少し意地悪さんが,お嫁さんの本音を引き出してやろうと考えました。「そうだ,これがいい」そして,ある日お嫁さんに会いました。近所の少し意地悪さんが言いました。「しゅうとめを おにばばあと ひとはいうなり,と近所のみんながあなたのお義母さんのことを言っていますよ。この上の句に続けて,下の句を完成させてください」少し意地悪さんは,さあ,お嫁さんは何と答えるかな,本音が出るだろうと心の中でニヤニヤしていました。
 すると,少し意地悪さんには予想もしない驚くべき下の句を,お嫁さんは答えました。お嫁さんは即座に「ほとけのこころをしらずして」と答えたのでした。「しゅうとめを おにばばあと ひとはいうなり ほとけのこころを しらずして」 近所の人は,お義母さんの本当の仏の心を知らないで鬼ばばあと言っている,という意味です。さらに言えば,仏さまの心のお義母さんが,あえて鬼に姿を変えてお嫁さんのために一所懸命に教えようとしているのに,近所ではおにばばあと言われている,という意味になります。これがまた近所の評判になりました。
 そして,姑さんの耳にも入りました。この句を聞いて,姑さんはボロボロ涙を流しました。「ごめんなさい。ごめんなさい。ひどいことを言ってきたこの姑を許しておくれ」とお嫁さんに心から謝ったそうです。が,お嫁さんは,「お義母さん,何をおっしゃっているのですか。謝ることなどありません。いつも教えていただき本当にありがたいと思っています。ありがとうございます」
 2人は近所でも評判な仲の良い嫁と姑になったというのです。
   
 四つのエピソードに共通しているのは,「ありがとう」の心の底に感謝の気持ちがあるということです。私のような者に「そんなにしていただいて,ありがとうございます」という心からの気持ちがあるということです。人間は,根っこのところで感謝する心があり,ありがとうと言葉にして感謝の心を相手に伝えていたら,必ずや道が開けていくということを,この4つのエピソードは教えてくれます。その時,新たな学びを実践もしています。実践者になって,さらに自分を豊かに成長させているという事実があうということです。そうすると,人は益々謙虚になっていきます。そして,いつの間にか「ありがとう」と言われるようになるそうです。(「ありがとうは魔法力」より)
 「ありがとう」=感謝の言葉 は,ものすごい威力のある言葉で,魔法の言葉だということです。
 最後まで読んでいただき,一緒に考えていただきました。このように長い話を最後まで読み,共に考えていただけるのは本当に有り難いこと(めったにないうれしいこと)です。どうもありがとうございました。
「園長室から」をどうぞまたのぞいてください。

「自分の心と対話をする」根っこの根っこの教育

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 「自分の心と対話をする」根っこの根っこの教育で「自尊感情と自己有用感をもつ」京都市立幼稚園の子どもたち

 「見えないものが,見えるようにする教育」こそが,全16京都市立幼稚園で最も力を入れて実践している教育です。自分の心を自分の力で育て,自信をつけたりもっとやってみたいという意欲を持ったり,様々なことに感じる感性を自ら育てていくように支援する教育を行っています。
 それは,外から見えやすいものでしょうか? いいえ,なかなか見えにくいものです。 体操のブリッジをしたり鼓笛で歩いたり,英会話や水泳などは進歩がよく見えます。でも,心の成長は外から直ぐに見えるということがなかなかできないのです。しばらく一緒にいたり付き合ったりしないと,外からちょっと見ただけでは,なかなか見えないのです。
 しょうらん幼稚園の子どもたちの心の成長について,次の3つのエピソードから考えていきましょう。これら3つのエピソードは,同じ教育を実践追求している京都市立幼稚園の16園のどこの子どもたちにも当てはまることです。

 エピソード1 「土の中で育っていたジャガイモ」
 子どもたちは,3月にジャガイモを植えました。芽が出て4月,5月に葉が茂り花も咲きました。水も少しはやって育てました。そして,6月も中旬に近づくと,葉っぱが黄色く枯れてきました。
 「ジャガイモさん枯れてきたね。どうしたのだろう?」みんなで掘ることにしました。掘り始めると「ジャガイモが出てきた」「こんなに大きい」「何個も出てくる」「ワー,すごい!」と賑やかに掘っていきました。
 「土の中でジャガイモが育っていたのだね」外からは見えなかったけれども,ジャガイモが葉っぱを大きく広げ,一生懸命に「土の中で赤ちゃんを育てていたんだね」ということが,自分で植えて世話をして掘ってみて初めてわかりました。
イチゴ,エンドウ,ジャガイモ,キュウリ,ナス,トマト,ピーマンやシシトウ,ポップコーン,ゴーヤ,ニンジン,タマネギ,ダイコンなどの野菜を,1年を通して「早く大きくなってね」「元気に育ってね」と言葉をかけ水をやり育てています。
 この毎日の園庭畑の栽培教育の中から,「どうなっているのだろう?」「どうしたのだろう?」という先生の声かけや毎日の育ちを見て,外からは見えない野菜や花の根っこや土の下で起きていることを想像する力を付けていきます。「水が欲しいのだろうか?」  「葉っぱがクターとしている。暑いんだろうなあ」見えない野菜や花の心を見るようになっていきます。
 掘ったジャガイモは,みんなが小さなお母さんお父さんになって調理して,みんなで一堂に会しカレーパーティーで楽しみます。

 エピソード2 「自分で決心してステップを上る」
 京都市立幼稚園では「自分の好きな遊び」をとても大切にし,登園後やお弁当の後などに時間も結構たっぷりと保証しています。子どもたちが夢中で遊び,みんなで遊びを発展させているような場合は,クラスで予定していた設定保育を後ろにずれ込ませていくぐらいの力を入れているのです。
 なぜでしょうか? 見ていたらとてもじれったい。「こうしたらいいよ」「このようにしなさい」つい言ってしまいたくなります。
 しかし,先生方は本人の心の動きを見ながら,チャレンジし易いような「環境作り」や「声をかける励まし」と「見守る援助」をします。本人が自分の意思で決断し次のステップを自分の力で上るようにしていきます。
 子どもたちは,自分の力で一歩ステップを上って自信をつけます。自信をつけていく自分がまた大好きになるように,遊び環境を準備したり励ましの声かけや見守りの援助を大切にしているのです。
 女の子のA子ちゃんは運動や人との関係作りが苦手です。何事にも自信がないようです。みんなの後をついて行ったり,他人の活動を見て真似をしたりして作品も仕上げています。園庭で自分の好きな遊びのドッヂボールをしている友達をずーっと見ています。次の日も次の日もA子ちゃんは見ているだけでした。
 先生が誘いました。「一緒にしよう」友達が誘いました。「一緒にしよう」「う〜ん。今はまだいい」それから何日か経ちました。A子ちゃんが「寄せて」と言いました。「いいよ」
 A子ちゃんはボールから逃げるばかりです。当たらないように,ボールも見ないで走り回っています。その逃げ回る日がまた何日か続きました。その逃げ回る中で,友達がボールに向かって手を出し受けようとする姿を見ていました。
 そして,一月近くが経ったある日のことです。A子ちゃんは,ドッヂボールでボールの正面を向いて手を出して受けようとしていました。何度も何度も手を出しますが,ボールを受け止めることができません。それでも手を出し続けました。「すごいね。A子ちゃん」先生がA子ちゃんの意欲を褒めます。そして,とうとう生まれて初めて相手の投げるボールを受けることができたのです。
 A子ちゃんの心の中を見ていきましょう。
 最初「みんな楽しそうだなあ。でも私には無理」見ているだけの日が続きます。ボールから逃げ回ってばかりいる友達を見ているうちに,「私もできそう。やってみようかなあ。でも無理。あんなに逃げ回れない」心の中で2人の自分が戦っています。対話をしています。何日か見ていると,当てられても楽しそうな友達の笑顔があります。
 「よし。私もやってみよう。寄せて」逃げ回っても当てられます。でも,「みんなの中に寄って遊べている自分が楽しいし嬉しい。自分もドッヂボールに寄ることができた」「自分の力で寄れて一緒に遊んでいる。自信がついてきたわ」「ボールに挑戦してみよう。えい」と手を出しました。何度か手を出しているうちに「ヤッター。ボールを受けられた」「お母さん。今日ね,今日ね,初めて,初めてボールを受けられたよ」
 2人の自分が心の中で対話をします。葛藤します。より高い価値を求めようとする自分と今のままでいいよという自分が対話をし葛藤します。単なるおしゃべりではありません。より高い価値へ上るか上らないかの厳しい対話です。A子ちゃんは,より高い価値を求めようとする自分が勝ち,新たな世界へ挑戦して行ったのです。
 自分が心で対話をし葛藤して,次のステップへ自分の力で進む。この事実について先生や保護者や周りの人たちが褒めて励まします。この作業を子どもたちは日々繰り返し,螺旋(らせん)階段を登っていきます。
 自ら対話をし自ら決断し実行する力は,同時に自分に大きな自信をもたらしていきます。自分で情勢や物事を見て判断し自分で決断して実行していくという,人間としての根っこの教育を日々積み重ねています。
自分が経験していることなので,相手の葛藤している心に気づくようになり見えるようになります。だから,相手が悩んだり苦しんだりしていたら,寄り添える力がついてきます。
 このような心の育ちを最大限に大切にされる幼稚園教育に包まれた生活の中で,自尊感情も自己有用感も大きく育っていきます。
 もちろん型から教えることも集団生活では沢山ありますし,翔鸞幼稚園でもしなければならないことは子どもたちに丁寧に話して実践しているところです。
 以上のように,京都市立幼稚園の教育は,好きな遊びをさせているだけだという教育ではありません。一人一人の子どもの心に寄り添い,心の揺れや成長に常に共感し励まし,参加し易い環境をさりげなく作り援助していく教育,一人一人の心を豊かに逞しく育てる教育を行っています。
 子どもたちは,自分の心と正面で向き合います。相手の心を感じ相手に共感し,お互いを認め励まし合う力を身に着けていきます。みなさまに是非ご支援いただきたいと思います。

 エピソード3 「しょうらん幼稚園が気に入った。お母さんこの幼稚園へ来たい」
 12月もあわただしく過ぎていき,2学期の終業式が数日後に迫ったある日のことです。
 「こんにちは。見学に来ました」とお母さんと男の子Bちゃんが職員室へ入ってきました。「どうぞ。こちらに座ってください」とイスをすすめました。「遊んできてもいい?」男の子が尋ねました。「いいよ。いろいろ見てきたらいいよ。ウサギやチャボやカメもいるよ」3歳児という男の子は廊下へ飛び出していきました。
 お母さんが話し始めました。「実は,この4月からある私立の幼稚園へ行っていたのですが,4ヶ月ほど経った7月中ごろには,行きにくくなったのです。幼稚園へ行こうと言うと,泣いて嫌がり行かなくなったのです。家の子はマイペースで,自分で納得して活動するタイプなのですが,そこの先生やみんなとペースが合わないようです。だんだん指摘されたりする回数が増えていったようです。そして,9月の,・・そう中旬頃からは全く行っていません。ですから,もう3ヶ月以上幼稚園へは行っていないです。その間,3つほど別の私立の幼稚園に見学へ行ってきました。でも,一緒に見学へ行っても,子どもが「どの幼稚園へも行かない。家にいる」というのです。「もうここで最後。最後にしよう」と言って翔鸞幼稚園へ連れてきました」ということでした。
 「そうですか,お母さん。よくお話をしてくれましたね。よく来てくれましたね。ここの幼稚園は,子どものペースで,子どもの心や思いに寄り添って保育をすすめます。無理強いはしません。いやなものを無理強いしても力がつきませんから。気に入ってもらえたらいいですね。子どもたちも優しいですし,きっと気に入ると思いますよ」と語りました。
 男の子は,15分以上経っているのに職員室へ戻ってきません。お母さんが「どこへ行ったのですかねえ?見に行ってもいいですか?」と廊下へ出ようとしたので,一緒に見に行くことにしました。「この職員室の隣の部屋が3歳児の部屋です」と言って,部屋の前まで行き中をのぞきました。
 お母さんは,部屋の中へ入っていきました。「ここで遊んでいたの?」「うん,ぼくな,ここが気に入った。この幼稚園が好き。この幼稚園へ来たい」クラスの子どもたちと溶け込んでおもちゃで遊んでいました。保育時間中なのですが,ちょうど子どもの好きな遊びの時間だったので,男の子は「遊んでもいい?」と言ってスーッと入って行ったようです。
 翔鸞幼稚園の子どもたちは,どのクラスの子どもたちも受け入れる力があると思っています。これは外から見ただけではわかりません。一緒に遊んだり声を交わしたりして少しづつわかってくるものです。でも,この男の子は感覚的にそのオーラーを感じ取り,自分の安心できる居場所だと分かったのでしょう。ですから,何の躊躇もなく初めての同い年の友だちのいる,先生もいる初めての部屋へ入って,遊び始めることができたのでしょう。感性の豊かな子だからオーラーを感じ取れたのだと思います。この心の豊かさは,前の幼稚園では十分生かされなかったのだろうと思いました。
 初めての友だちを当たり前のように受け入れて,何のこだわりもなく一緒に遊べるクラスの子どもたちの優しさというか,人間力というかには本当に感心します。大人ではなかなかこんな具合にはいきません。
 「3歳ぐらいの子どもって,誰でもそんなものよ」と言われる方もおられるでしょう。しかし,本当にそうでしょうか? 家でお姫様,王子様と育てられたプライドが本当に高く,わがまま一杯の3歳児のこの時期です。教育を受けていなければ,自分が王様、自分が王女様の論理には,大人なんか足元にも及ばない厳しい排除の論理もあります。「先生。誰か知らない子が勝手に入って来た」「お前誰や。勝手に入るな」と言われそうです。言わなくても,関わらないようにするかもしれません。
 でも,子どもたちは自然に「どうぞ」みたいに受け入れ,「ここな,もっと延ばそう」「こっちへ来て見て」などと一緒に溶け込んで遊んでいる。担任の先生も「いいよ」とそれをにこにこ笑顔で見守っていたのでした。
 男の子が言いました。「園長先生。明日お弁当持ってきてもいい? みんなと一緒に食べてもいい?」「いいよ。お弁当持って遊びにおいでよ」「ありがとう」とBちゃん。「Bちゃん,さようなら。また明日も来てね」とクラスの子どもたちの声を後にして,2人は帰っていきました。
 次の日,本当にお弁当を持ってきてクラスで遊び一緒にお弁当を食べました。男の子の御祖母さんも翔鸞幼稚園を気に入って,転入を全面的に応援してくれました。
 そして,3学期の初日から翔鸞幼稚園へにこにこと転入してきました。「Bちゃんは毎日幼稚園の登園が待ち遠しいようです。朝になると早く行こうよといつも言うのですよ」とお母さんが笑顔で語ってくれました。

 見えないものについて,「なぜなのか?」「どうなっているのだろう?」「どうなるのかな?」と考えたり想像したりすること。また,自分の心の中で,自問自答したり対話したり葛藤したりすること。この二つのことは,自分自身を次へのステップに上げていくためには,欠かせないことです。相手の心が見えるようになったり,人としての力をつけたりすためには,どうしても欠かせないことだと思います。
 子どもたちは,自分の力で1つステップを上って1つ自信をつけていきます。それを回りの大人や友達が,言葉や態度で励まし認めてくれる。この営みの連続が京都市立16園の幼稚園教育の本質です。そのうえ,小学校との連携交流も年間を通して行っています。ですから,子どもたちは,優しくて柳のような粘り強い心を育て,自信を持って小学校へ入学していきます。小1プロブレム(1年生で小学校へ行きにくい状態)の言葉は見当たりません。
 「自問自答や葛藤も含めた自分自身の心の対話により,より高い価値を追求していく。その中で心を育てていく」ということについて,ここまで一緒に考え学んでまいりました。ここまでくるまで長かったですね。大変お疲れ様でした。
 最後までお付き合いいただきまして,どうもありがとうございました。


育てている3つの心の力

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  しょうらん幼稚園で身につける「3つの大切な心の力」
 しょうらん(以降は,翔鸞)幼稚園では,園児が「たくましい身体」と「心豊かに」なるように教育を進めています。京都市立幼稚園16園はいつも連携し,どこの園でも重点的にこれらの力を身につけていくよう力を注いでいます。
 今回は「心豊かに」の内容となる「3つの大切な心の力」について,翔鸞幼稚園で実践していることや考えていることをお話していきたいと思います。
この3つの心の力を身につける中で,
 1つは,自分自身と語れる子ども,つまり,自分と会話ができ自問自答できる心の深さと客観性や判断力を持つ人に育てていきます。
 2つは,自分と語れるため,人との人間関係力を本当に大きく伸ばしていきます。
その結果,小学校以降さらに自信を持って自分を高めていき,自分の人生を豊かにしていきます。

 翔鸞幼稚園で身につける3つの心の力ですが,
 1つは,心が豊かな力です。
 2つは,見えないものが見えるようになる心の力です。
 3つは,一番大切なことですが感謝できる心の力です。

 私の母親は昭和2年生まれです。今も田舎で畑に出て健在です。貧乏な山奥の村に生まれ,働きづめで学歴もありません。しかし,若い頃はみんなに推されて婦人会の会長をしたり,村の記念誌に執筆を依頼されて寄稿したりしてきました。文章を読ませてもらうと,自分の経験が深い思いの中で語られ,それが事実や思い,様子などが整理されて構成されている見事な内容です。「なかなか上手に書かれていると思わん?」母親の自慢です。
 その母は,花が大好きで,チューリップやマリーゴールド,グラジオラスや百日草やダリア,鉢のランやシクラメンなど季節の花々を趣味で育て楽しんでいます。私が子どもの頃,よく母が言っていた言葉を思い出します。
 「見てみ(見てごらん),一つ一つ本当にきれいや。ほら,かわいい。こんなに小さくてもちゃんと(しっかりと)咲いている。この花は,黄色い花をがんばって咲かせている。きれいに咲いて,本当にかわいい」こうして,一つ一つの花に語りかけたり手でなでたりして慈しむのです。「お天道様はね(太陽はね),綺麗に花を咲かせているお家が好きなんだよ。花が綺麗に咲いているお家の上を通った時は,お天道様はそこで一休みして,綺麗に咲いているねと言って花を見ていかれるんだよ。お天道様,今日も照ってくださってありがとうございます。どうぞ休んでいってください」花が咲き終わると「綺麗に咲いてくれてありがとう。えらかったです。(がんばったです)今年も本当に綺麗に咲いてくれましたね。来年もまたどうぞお願いします」
 今でも,花に語りかけて世話をして感謝し,太陽に手を合わせて感謝して生活しています。春に帰った時は,赤やピンクや黄色のチューリップが庭に咲きほこっていました。
幼稚園の子どもを見ながら色々と考えていますと,何とも不思議なことですが,この母の言葉や態度の中に,幼稚園で身につけさせたいと思っている3つの心の力を考えることができると思うのです。
 1つ目の,心が豊かな力です。結論を恐れずに先に言うと,感動できる力だと思います。
 花を見て「かわいい」「綺麗に咲いたね」という語りかけなどは,まったく幼児期の子どもにとっては,当たり前のようにおこなっている場面です。しかし,大きくなったり大人になっても,そのような本当の感動を言葉に乗せて表現できる人がどれほどおられるでしょうか? さらに進めて,もっともっと自然や生き物や出会うもの,現象に感動できる人になれるでしょうか? 自分一人ではなかなか困難なことだろうと思うのです。
 やはり教育的な援助が必要だろうと思います。
 もっと感動できる子になってもらうために,先ず,先生や大人や周りの人が,出会う自然や人,出会うことに本当に感動し子どもに語りかけるということです。「今日は本当にむしむしと暑いね。でも,この桜の木の下に来てごらん。スーとした風が吹いてきて涼しいよ。気持ちいい」「育ててきたトマトが日照りでクターとしているね。水を欲しがっている。水をあげようね」感じたことをたくさん語りたいですね。
 次に,子どもが自ら選択して出会った時の感動的な言葉や態度を,認めることが大切です。「ダンゴムシを自分で見つけてね,お父さんお母さん子どもの3人家族なの」「そうか,そんな風に思ったんだ,すごいね。3匹は確かに仲がいいね」と心から認めていくことです。
 このように,子どもを取り巻く感動と,子どもが自由な心の中で自ら見つけた感動を思いっきり認めていくということ,この2つのことが必要だろうと思うのです。
 2つ目の,見えない物が見える心の力です。これも結論から言うと,相手の心に成り切ろうとする力だと思います。気持ちを共感できるということです。
「黄色い花をがんばって咲かせたね。かわいい」 普通に読めば「何だ。当たり前のことで,何が相手の心に?」「がんばったというありきたりの言葉だけじゃあないの?」ともとれるかもしれません。しかし,この花の球根は,現実には,山の冬が5ヶ月以上も氷点下5度も10度も続く寒さの中で,それも雪に覆われた畑の中でじっと辛抱して春を待ち,雪解けと共に力を振り絞って畑の上に芽を出してきた。そして,小さいけれど黄色い花を咲かせている,と考えたらどうでしょうか?「(厳しい冬だったね。乗り切って)がんばって咲かせたね。本当にかわいい」という言葉には,厳しい環境の中で長い時間踏ん張ったね。辛かったね。えらかったね。本当にがんばったね。という球根の気持ちになって共感して出てきた言葉だと考えられます。花としみじみと語っている様子を横で見ていると,花と気持ちが通じ合っていると思えるのです。
 相手の心に成りきろう,共感できる心の力が身につけられるためには,どうしたらよいのでしょうか?
 「そんなことは簡単です」と言われそうです。そうです。好きになることが1番です。好きなら,その心の中まで考えるからです。恋人同士を考えたらよく分かります。相手の心の中を一生懸命に見ようと考えています。
 では,そんなに好きになれない場合はどうしましょうか? 
これも結論から言いますと,見えないところを想像させるということです。見えないけれど「どうなのだろう,どうなっているのだろう」と先生や大人が意識し,子どもとの会話の中で想像させていくことです。また,子どもの感動した言葉に「見えないところのことを感じ取ったから感動したのだよ。どうなっているのかな?・・のはなぜだろう?」と見えないところを想像させることが大切だろうと思います。
 例えば,氷山を見て「おおきいなあ」「何か動物がいるよ」と見えるものにばかりに意識を向けるのではなく,「あの氷の海に沈んでいるところはどうなっているのだろう?」「こんな寒いところで風邪を引かないのかなあ?」と目に見えないところに目を向けさせるのです。「チューリップが真っ赤に咲いたね。花びらが何枚かな?数えてみましょう」と目に見えるところばかりを意識させるのではなくて,「夜になると花はどうなるのだろうね?開いたままなのかなあ?」「チューリップさんは,土の中ではどんな風になっているのだろうね?」「秋にみんなで植えたよね。冬の間,どうしていたのだろう?何を考えていたのだろうね?」などと見えないところをいつも意識して,語りかけるということが大切だろうと思います。答えは簡単に言わない方が,子どもに問題意識を持たせられると思います。
 国語では行間を読むと言います。文字の底に流れている様子や心,言葉の裏に隠れている気持ちなどを豊かに想像することが国語の学習では大切です。「見えないものや見えないことを見えるようにする」ということは,教育の大きな役割ですし,教育そのものだろうと思います。
 3つ目の,感謝できる心の力です。3つの中で1番大切だと思います。実はすでにお話ししてきた2つの心の力と重なっているのです。上の2つの力を身につけていく途中であれば、この感謝できるということはできると思っています。
感謝するということは,「あなたのおかげさまです。おかげさまで今生きています。教えてもらっています。育ててもらっています」など,相手の存在や働きかけを温かく肯定的に捉えて,それを自分に返してもらっていると感じられた時,「あなたのおかげさまです。わたしはこのようにプラスとなっています。ありがとうございます」ということです。
 「綺麗に咲いてくれて(私を楽しませてくれて,癒してくれて)ありがとうございます」「お天道様,照ってくれて(お陰さまでチューリップも芽を出せました。冬の寒さを終えて春を迎えられました)ありがとうございます。どうぞ,綺麗に咲かせていただいたチューリップを見ていってください。家の庭で一休みしていってください」という気持ちでチューリップや太陽に感謝をしているのです。
 私は若い頃,山へよく登っていました。ある野宿をした日のことです。朝の3時ぐらいから寒くて寒くてガタガタ震えて眠るどころではありません。日の出まで何と長いのでしょうか。時計ばかり見ていますが,1分や5分の経つのが長いこと長いこと。
まだかな,まだかな? 永遠に続くのかなあと。そして,山の端から太陽が顔を見せました。光が何条にもなって降り注ぎました。見る見る光に包まれました。その時,温かさがテントと私とを包みました。思わず太陽を見て合掌し,「ありがとうございます。温かい。助かりました。助けてもらいました」と感謝したことがあります。雪のない時でさえこんな感じなのです。雪山だったらどんなだろうと思います。
 大相撲が少し人気を取り戻してきたそうです。相撲道というのだそうです。礼に始まって礼で終わるのです。心の中で「お願いします」と相手を尊重してお辞儀をします。戦い,勝ち負けが決まります。勝っても負けても,「ヤッター,勝ったー」「悔しい,残念」などと気持ちをむき出しには出しません。心の中では勝って嬉しいし,負けて悔しいのです。でも,何事も変わらなかったかのように,心の中で「ありがとうございました」と相手にお辞儀をします。あなたが相手をしてくれたから正々堂々と戦えました。ありがとうございました。そういうことなのです。買った負けた,お金になったならなかったの,もっとはるか先にまで道は続いているのです。だから相撲道なのです。日本の伝統的なものは,道という言葉がついていなくても,この道の精神があると思います。
 出会うものや出会うことは,私に色々なことを教えてくれている,心を癒してくれている,というものの見方をしていく,簡単に言うと生かされている自分のこの命ということを自覚していくことです。この大人の思いや言葉で,子どももそうなっていくのでしょう。
 以上,3つの心の力について皆さまと一緒に考えてきました。子どもが自分の人生を豊かにしていけるために,また私自身がもっと豊かな人生を歩むために,この老母の生き様を見習っていきたいと思っているところです。
 翔鸞幼稚園では,京都市立幼稚園はみんなそうですが,心ばかりを進めてはいません。形から入らなければならないことも多いです。「狭い歩道は一列で歩きます。車の通行の邪魔になり危ないからです」「市バスや電車にはサッサと乗り,中では静かにします。他のお客さんも乗っているからです」「先生や誰かが話をしている時は口を閉じます。そして聞きます」しなけれならないことは,何度も何度も丁寧に話したり振り返らせたり,そのあとフォローしたりして身につけさせるようにしています。
 今回も最後まで一緒に読んでいただき,そして最後まで一緒に考えていただきました。誠にありがとうございました。こころより御礼申し上げます。
 次回は,自分の心と会話ができる子を育てるについて,一緒に勉強していきたいと思います。

あなたもわたしも138億歳

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 あなたは138億歳。わたしも138億歳。幼稚園にいるチャボも桜の木も138億歳ですよ,と言われたとしたら?そんなばかな! まじめな話ですか?
 本当ならまったくすごいことです。奇跡的なことだと思います。もしそうなら,一つ一つどの命も,長い長いとてつもなく長い年月を経て今ここにある。どの命も138億年の命を,多くの敵から奇跡的に逃げ延び引き継ぎ,今ここに存在している。わたしたち普通の人間には考えられないほど貴重で,かけがえのない命だということです。
 もしそうなら,仏教の言葉にある,一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)。生きとし生けるものには,すべて仏となる素質がある。すべては,かけがえのない命であり,深く尊厳する存在であるのだということが,すっきりとわかるのではないでしょうか?
 さて,一緒に考えてみたいと思います。自分,私ですが生んでくださったお母さん。そのまたお母さんの,そのまたお母さん。ひいおばあちゃんです。ひいおばあちゃんのそのまたお母さんの,そのまたお母さんの・・とどんどんさかのぼって行きます。どんどん,どんどんさかのぼっていくと,何と人類の最初までさかのぼります。一体何千人いや何万人,それ以上になるかもわかりません。人類の最初までさかのぼります。
 そこからです。そのまたお母さんの・・とどんどんさかのぼっていきます。ダーウインさんの進化論で考えてみますと,人類の前の哺乳類になります。そこをさかのぼって,哺乳類の最初まで行きました。
 まだまだ行きます。そのお母さんの,そのまたお母さんの・・とさかのぼると,爬虫類までさかのぼっていきます。
さらに,両生類,魚類,無脊椎動物(背骨のない動物) ,アメーバーのような単細胞生物までもさかのぼっていくのです。そして,もっとさかのぼって藻のようなもの,さらに,どんどんさかのぼっていくと,生命の元になると言われているアミノ酸のようなものになるのでしょうか。ここまでくると,生き物なのか物なのかわからなくなります。
 そこで,うーん,何かおかしいぞ,などとややこしいことを考えないで,さらにどんどんさかのぼっていくのです。すると,驚くことですが,約46億年前に誕生されたと言われている地球や太陽の誕生までさかのぼることになります。その時点では,私たちのご先祖さんは,ただのガスだったかもしれません。 へー,ただのガスがわたし? 思わず,自分の体を見てしまいます。さらに,もっともっとどんどんさかのぼっていきます。すると,先日,137億年前から138億年前に新たな宇宙の起源が発表され,天文学者の間で話題となっているところの,138億年前のビッグバン(宇宙の始まりの爆発)までさかのぼることになります。
 ここまでさかのぼると,一体全体,何千何万人の,そして何千何万匹の,さらに何千何万個の,もっともっと多いと思いますが,自分のご先祖さんの始まりは,138億年前のビッグバンだったということになります。そこからただの一度も切れることなく,ここに生きている自分にまでつながってきている。一度でも途中で切れていない。だから,自分もあなたも,この世の中に存在している。今いる幼稚園のチャボも桜の木も同じように138年を引き継いで生きてきて,ここにいるということが言えると思います。途中で一度でも切れたら,もうここには存在しないのです。
 そう考えてみますと,わたしの心や体は今この瞬間を生きているのですが,その命は138億年がんばって続いてきている。わたしだけの心と体ではないですね。ずーとがんばってわたしを支えてきている心と体に,どうもありがとうございますと自然と感謝の気持ちがわいてきます。
一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)生きとし生けるものには,すべて仏となる素質があるということ。すべては,本当にかけがえのない命であり,深く尊厳する存在であるのだということが,はっきりとわかるのではないかと思うのです。
 みんな138億年続いている命を持ってきたと言えます。ご先祖さんのノウハウやたくさんの生きていく知恵の遺伝子を受け継いできている,かけがえのない命です。もう,ここに生きているということが軌跡としか言いようがありません。生きているものはすべて宇宙そのものだと思うのです。
 蛇足ですが,あと一歩進めて,道ばたに転がっている石ころはどうでしょう? 道ばたに転がっているちっぽけな石ころも,138億年の時を形を変えながら生きてきている存在してきたのだと考えられます。そう考えていきますと,森羅万象一切衆生悉有仏性(しんらばんしょう いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) (宇宙に存在するすべてのもの, 生きとし生きるものすべてのものには仏になる素質,可能性があるということ,かけがえのない命であり存在だということ)ではないかと思うのです。
 最後まで読んでいただきまして,貴重な時間をとりました。ありがとうございました。


どうして,挨拶,挨拶ってやかましく言うの?

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 なぜ? 挨拶・挨拶って言われるのでしょうか?
 
 幼稚園でも小学校や中学校でも高校でも「おはようございます」「ありがとう」と挨拶や感謝の言葉が言えるようにしましょう。といいます。なぜ,挨拶挨拶,ありがとうが言えるように,というのでしょうか? 誰のために言うのでしょうか? 挨拶しても返ってこないことも多いし自分から言うことはあほらしい時もありますよね。
 挨拶や感謝の言葉は,「私はあなたの敵ではありません。味方ですよ」という心を言葉に乗せて相手に伝えているものと言えるのではないでしょうか。丁寧な人は挨拶のとき頭を下げてお辞儀もします。相手に頭を垂れ地面や自分のおへそを見ます。昔で言えば相手が敵なら「面〜(メーン)」と刀で頭を砕かれることでしょう。でも,頭を下げて「おはようございます」「こんにちは」「私はあなたの敵ではありませんよ。友達になりたいですよ」という態度の人に「メーン」とは普通いかないでしょう。挨拶をしてくれる人は悪い気はしない相手ですし,お辞儀までしていたら隙だらけの無防備状態の人だからです。そんなところに「メーン」などと卑怯なことはしないということが昔から日本人の人の道だったからです。
 では,外国の人はどうですか?「おはよう」「こんにちは」とのんびりと頭を下げてお辞儀をしているうちに,荷物や財布を盗られてしまうという国もあるのじゃないですか?
確かにあるかもしれませんね。盗られないように警戒の目で見るよりも,欧米の映画シーンに見られるように「はーい」とか少し微笑むとか,これも挨拶だとしたら,こんなことが自然にできた方が感じがいいですよね。そのほうが友達にもなれると思います。
 では,挨拶は相手との紛争を避けるもので折り合いをつけるところに,その意味があるのでしょうか?
 毎朝通用門でお母さんやおうちの人と一緒に登園した子ども達を迎えます。「おはようございます」と大きな声で挨拶をします。子ども達もおはようございますと挨拶を返してくれます。在園児やお父さんお母さん方にも「おはようございます」と言うので50回以上は自分から言っていると思います。すると心の中に不思議な感じが沸き起こってきます。「今日は朝からいまいち調子が悪いなあ。疲れたのかなあ,・・」という日でも,自分の挨拶の回数が増えていく度に心が元気になっていくのです。
みんなを迎えた頃にはすっかり元気一杯百杯になっています。
なぜなのでしょう?
 みんなに元気を与えたつもりで実はみんなからパワーをもらっていたのだということです。
 ある和尚さんがおっしゃいました。「挨拶をしたり他人に優しくしたり,ありがとうと感謝の言葉を言ったり掃除や片づけ整頓をしたりした後は,何か心がスッキリとしませんか? するでしょ。なぜだと思いますか? 私たちの体には毎日埃や垢がたまりますね。だからお風呂に入りシャワーをかかるとスッキリしますね。実はね,心にも毎日毎日垢がたまっていくのです。硬い殻になるまで垢がたまったら容易には取れませんよ。頑固一徹になって他人の話も聞けなくなります。素直に他人の話が聞けないのでいつまでも成長できなくて益々意固地で頑固になっていくのです。さあその心の垢をあなたはどのようにしてとりますか?」「えっ?そうなったら大変なことです。どうしたら心の垢がとれるのですか?」「挨拶をしたり他人に優しくしたりありがとうを言ったり,掃除や片づけや整頓をしたりした後は,何か心がスッキリとするでしょう。心がスッキリしたというときは、心にシャワーがかかって少し垢が取れているからなのですよ」ということでした。
 この3月19日に14名の子ども達が卒園していきました。修了式で担任の先生が一人一人の名前を呼びました。一人一人の修了児が遊戯室一杯に思いっきり響く大きな声で「はい」と返事をしました。そして修了証書を厳かに堂々と受け取りました。来賓で来られていた地域の方が会われる度に,「幼稚園の修了式は良かった。あの建物に響く見事な返事で式がビシッと引き締まった。これが教育ということを見せてもらった」と褒めてくれます。
 自分からの元気な挨拶や優しい行いや掃除も片付けも大きな声での返事も,実は言ったり行った本人が一番気持ちがいいのです。自分の心にシャワーをかけているのです。さらに一つ一つの自信もついていきます。そのオーラーが付録みたいに周りにも気持ちの良いシャワーをかけているのです。
 このように考えていくと挨拶も返事もいろいろな行いも,全部が全部自分のためになっていたのです。結果的に自分のためにやっていたのです。「挨拶したり掃除したり大きな声で返事したりなんてあほらしい」どころか,自分が一番の「宝物をつかんでいた」ということになるのです。
 友達づくりも人との関係の中で自分に自信をつけるのも元気で明るい挨拶からです。お互いにみんなでがんばりましょうね。

豊かな心を育てる

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 豊かな心とは,どんな心のことなのでしょう? どうして幼稚園でも小学校でも中学校でも「豊かな心を育てましょう」と言うのでしょう? また,どうしたら豊かな心が持てるようになるのでしょうか?

 「気持ちいい風」「森のいいにおい。緑がまぶしいね」「あなたは声が優しいね」「(友達が竹馬に)乗れた,乗れた。よかったー」などなど自然や人や物事に共感したり,その良さや伸びに共感して語ったり言葉にできる人は,物事を肯定的に見る見方ですが,そういう肯定的に物事を見る心を豊かな心というのではないかと思うのです。
 年長組が京都水族館へ行った時のことです。入り口を入ったとたん「ウワー,見て,大きいよ」「オオサンショウウオって書いてある。すごいなー」「先生,この魚・・」「こっちへ来てー」年長組の一人一人が勝手に大きな声で心で感じたことを言葉に出して叫んでいるのです。たちまちホールは子ども達の叫び声の貸切り状態になりました。先生方は「もっと静かに」と周りを見ながら抑えるのに精一杯です。さらに中へ進んで行きました。「ワー,こんな魚がいるー」「こっちこっち」「すごいのを見つけたよ」「きれいな色,みんなこっちへ来て」新しい水槽へ進んでもこの興奮状態は止まりません。とにかく水族館を一周する間,子ども達の気持ちは高まったままです。その横をよその園の園児さんが2列で通っていきました。水槽を見ながら整然と,それも声を立てないで歩いていきました。「えらい違い」と思って隣の先生を見ると,同じように思ったのでしょう。こちらを見て言いました。「えらい違いですね。何で翔鸞の子ども達はこんなにテンションが高いのでしょう。もう恥ずかしい」
 悪く言えば興奮しすぎで乗り過ぎ。でもよく言えば,感じる心が豊かで見るものがすべて素直に心に入ってくるから,感動し言葉になって表出していると言えるのです。「こんなに喜んでくれるなんて,満員バスに乗ってここまで来た甲斐がありましたね」と先生方と語ったのでした。
 こういう子ども達の感動した表情や言葉の表出は,京都御苑へ遠足に行った時も,梅小路機関車館へ行った時もやはり同じように年少組から年長組の子ども達までどの子にも感じていることです。これは,きっと自然や人や物事など何に対してでも好意的に感じるしなやかな素直な心が育ってきているからだと思います。ですから,何をしても、何を見たり聞いたり触ったりしても楽しくてうれしいのでしょう。
 たんぽぽ組さんが遊びに来ました。初めて幼稚園へ遊びに来た1歳何ヶ月かの子たちです。よちよちと園庭で歩いている子を在園の年中や年長の女の子が当たり前のようにいつの間にか手を繋いで一緒に歩きいろいろと語って教えています。初めての幼稚園に来られて表情も緊張していたお母さんが,その姿を見てニコニコしています。そして語ってくれました。「いろいろな教育相談や遊べる施設へ行っていますが,園の子ども達にこんなに優しくしてもらえたのは初めてです。とても優しい安心できる良い幼稚園ですね。いっぺんに好きになりました」
 どうしたら,このように素直に物事を受け入れ優しくできる豊かな心の子が育つのでしょうか?
 それは,乳幼児期にお家や幼稚園で物事に感動して好意的に受け入れるという物の見方考え方を学んでいるからだと言えます。子どもは何でも大人の真似をします。真似して学ぶのです,真似ぶ学ぶということです。
 子育てに当てはめてみます。大人が物事を好意的に共感的に育てた場合はどうでしょうか? 子どもが少しでもがんばれたり伸びたりしたら「ここをがんばれたね」「ここ伸びたね」「手伝ってくれてありがとう。お母さんうれしいよ」と育てていきます。そこでは,子どもは褒めて認められるために自信を積み重ね自己肯定感や自分はみんなの中で大事な存在なんだという思いを高めていきます。ますます物事に意欲的に接し感じるようになります。そのような肯定的感動的な子育てをしたお母さん(お父さんも,以下同じ)は,同時に,自分を育てることも行っています。「さわやかな感じ(わたしの周りもさわやかにしたい)」「声がやさしいなあ(いいなあ,私もあんなふうになりたい)」「竹馬に乗れてよかったね(がんばっているなあ。あこがれる。わたしもそうなりたい)」共感している時点で実は気付いていないかもしれませんが,(  )の中のような感情を持てているのです。自分が自分の古い殻を捨てて一歩も二歩も前に進んでいるのです。同時に学び成長しているのです。ですから,子どもの成長は親の成長と言われるのです。
 反対に「さわやか?・・別に」「緑?・・ふ〜ん」「声? たいしたことない」「竹馬? 乗れるのおそーい。私なんかもっと早く乗れたわ」などと感動もしないし,反対に否定的な見方や言い方をしたらどうでしょう。この時点でこの方は学ぶ心をシャットアウトしているのです。つまり自分は,上から目線でもあるかのように「別に・・」とか「たいしたことない・・」と見ていて,自然や相手から学ぶなどということは拒否しているといえます。ですから,感動もしないし真似をしようともしません。いつまで経っても最初の位置に留まったままで何年経っても「別に・・,たいしたことない」と言っているのです。
 そんな風な見方考え方で子どもに接したらどうでしょう。子どもの物の見方考え方も同じようになっていきます。何を見ても「別に」「たいしたことない」「そんなに騒ぐことと違うや」などと物事を否定的に覚めた目で見たり聞いたり捉えたりするようになります。聞いても見ても触れても感動しないということは,何も心が動いていないということです。真似しようとか学ぼうなどという気持ちやあこがれなどは薄いでしょう。ですから,否定的なものの見方をした時点で,そこからは何も学んでいないというだけではなく,もっと恐ろしいことは,何に対してでも子どもはだんだん自信ややる気や自己肯定感を失っていくということです。肯定的な感動がないわけですからその場所にとどまったままです。それに対して,周りの友達は沢山の感動でどんどん学びすくすくと前に上にと伸びていきます。周りから褒められ自分でも自覚して自信をつけ,ますます輝いていきます。否定的な見方で育てられた子どもは,自分との開きがますます大きくなっていくことや相手との違いを敏感に感じ,自分が否定的に見られる結果,自信を失い意欲も何もなくしていきます。人との関係の中で,自分を認めてもらうために,自分で自分を認めようとするために優位に立とうとしてあえて悪いことをしたり弱いものをいじめたりして,心のバランスをとろうとするのではないでしょうか。
 子どもをよくよく見ていると,その子の良さや伸びたところが見えてきます。その事実に共感して子どもに語ってください。「ここよかったね」「できるようになったね」「優しい言葉をかけていたね・・」「緑の葉っぱをよく見つけたね」「虫の小さな足まで集中して見ていたね」などです。事実を伝えるだけなのです。実はこれは子どもにとっては最高のほめ言葉です。「見てくれていたんや」とうれしくなり,自分が大人に認められている言葉になります。子どもは自信を回復し身につけていき自己肯定感や規範意識,責任感までをも高めていきます。自主性も育ちます。
 お母さんも一言言えば子どもが一つ育つのと同じように,その時点で確実に一つ育っています。
 色々な事に先ず私たち大人が感動して声に出し笑顔になり子どもに見せていきましょう。その一つの感動で私たち大人もまた一つ育っていっているのですよ。
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