学校日記

修学旅行 11

公開日
2013/04/15
更新日
2013/04/15

3年

『ヌヌマチガマ』
このガマは沖縄戦当時、第32軍の第24師団(通称山部隊)第一野戦病院の分院の一つであった。地名の新城(あらぐすく)から「新城分院」と呼ばれていたが、現在は地元の呼称で「ヌヌマチガマ」と称している。
ガマの全長は500メートルもあり、ヌヌマチガマが西側出入口で、東側出入口はガラビガマである。<ガマ>は沖縄の言葉で自然洞窟のことである。

沖縄県立第二高等女学高の4年生56人が、第32軍司令部の要請を受けて、1945年3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、同月23日から沖縄本島南部の艦砲射撃が始まり、看護学習は18日間で打ち切られた。翌24日から第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕、手術場壕、新城分院、東風平分院でそれぞれ補助看護婦として傷病兵の看護に当たった。

4月下旬に5人の学徒がこのガマに派遣され、軍医・衛生兵・看護婦・地元の女子青年・朝鮮出身女性の方々と共に、1000人を越す傷病兵がひしめくガマの中で昼夜を徹して過酷な任務に就いた。学生のたちの役目は、主に、負傷兵の緊急手当や手術・包帯交換時の明かり(ろうそく)持ち、傷病兵の排泄物の始末・切断された手足の処理などであった。日を追って負傷兵の搬入が増え続け、ガラビガマ側にも病室が広がっていった。

4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は、5月末頃に首里まで侵攻。6月3日にこの分院は閉鎖された。分院撤退時に、身動きできない重傷兵約500人に毒薬の青酸カリが投与され、飲み込めない兵や薬が効かず苦しんでいる兵は、注射や銃・剣で止めを刺された。修羅場に立ち合わされた学生たちは生涯消えないトラウマを負った。

6月4日には第24師団第一野戦病院は解散となった。最後まで勤務した46人の学生たちは、鉄の暴風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれて22人が戦没した。
僅か10代半ばの年齢でかけがえのない人生を絶たれた彼女達たちの無念と悲運を、このガマで起こった味方による重傷兵毒殺の惨事と併せて、ここに、沖縄戦の事実として後世に伝え遺す。


以上は、白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。
二高女の学徒隊は、校章の白梅のマークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている

2012年6月23日
沖縄県立第二高等女学校
白梅同窓会