学校日記

【校長室から】Dead Poets Society(今を生きる)

公開日
2026/02/25
更新日
2026/02/25

校長室から

校門をくぐる。

それは、ただ敷地の内側に入るという行為だけを指すのではない。外の時間から、学校の時間へと身を置き直す、小さな切り替えだ。


映画『Dead Poets Society(今を生きる)』の中で、若者たちは、日常の風景の中で「自分はどう生きるのか」を問い直す。特別な舞台が用意されるわけではない。校門をくぐり、教室で、学生寮で、何気ない通路で。日々の場面の積み重ねの中で、少しずつ成長を遂げていく。


朝、校門に立つ。

生徒が校門をくぐってくる。(厳密に言うと、堀川高校にはくぐるべき「門」が物理的にあるわけではないが、観念的に「生徒が門をくぐって」入って来るように見える。)その瞬間に立ち会い、あいさつを交わす。少し前、生徒会執行部の生徒たちが、朝のあいさつに立っていた。「おはようございます。」 声は寒風の中で確かに届く。担任、学校生活部など、複数の教員も温かく声を掛ける。その声に背中を押されるように、生徒たちは校門をくぐる。(これを「朝活」と呼ぶのだろうか。)学校の一日は、こうした静かなやりとりから開始される。一人で来る生徒、友人と並んで来る生徒、自転車を降りて一息つく生徒。歩幅も、視線も、それぞれ違う。だが、校門から敷地に入るという一点において、すべての生徒が同じ時間を共有する。人が集まり、学校の一日がスタートする。毎朝、多くの人々を迎え入れることができる喜びが、そこにはある。


校内を歩く。

ある日、トイレでスリッパを揃えている生徒を見かけた。誰に言われたわけでもない。ただ、次に使う人のために、自然と手を伸ばしていた。「いい振る舞いやなあ。他者のために動ける人は、必ず大きく成長するよ。」と声をかけると、生徒は少し照れたように笑い、何事もなかったかのように教室へ向かった。その後ろ姿は、頼もしく、また誇らしいものであった。


校門に立ち、校内を歩くと、季節の移ろいもよくわかる。

落葉の季節、校門周辺が落ち葉で溢れた時期があった。たまたま数日、管理用務員のMさんが不在の期間のことである。いつも当たり前のように保たれている美しさが、どれほどMさんの丁寧な手仕事に支えられているのかを、その時に再確認した。教員たちと一緒に、溢れる落ち葉を集めた。思っていたよりも量は多く、時間もかかった。掃いても掃いても終わらない。落ち葉は静かだが、確かに重かった。美しい校門は、誰かの「見えない時間」によって守られている。その事実が、確かな手ごたえとして残った。


堀川高校は、学校改革から四半世紀の時間を重ねている。堀川通りに面したガラス張りの校舎は、今も美しい。二十数年前、その斬新さは話題にもなった。光を取り込み、街に開かれた学校。その思想は今も続く。一方で、部分的な経年劣化もあり、補修は続く。美しさを保つために、見えないところで人知れず、ちょっとした綻びを修繕してくれている人がいる。Mさんは、植え込みへのポイ捨てのゴミも黙々と拾ってくださっている。別の日、職員室では、人知れず掃除機をかけている教員がいた。校内のごみ箱が溢れかけていると、そっと整理し、ゴミ捨て場へ運ぶ教員や生徒がいる。誰かに評価されるためにやっているのではない。だが、こうした見えない営為によって、学校は静かに支えられている。


現在、大学入試の真っただ中の期間である。同時に、進級や宿泊研修へ向けた準備が重なり、校内は慌ただしい。目に見える成果や結果に意識が向きがちな時期だからこそ、思い出したい。学校という場所は、わかりやすい数字や、「短期的にいかにも役に立ちそうなこと」ばかりで成り立っているのではないということを。映画『Dead Poets Society』の中で語られる、「今を生きる」という言葉は、非日常的な英雄的行為を求めてはいないと理解する。むしろ、日常の中で、自分の脚で立ち、他者と関わり、選び続けることを静かに促しているのではないか。


校門をくぐるということ。それは、自分ひとりで立ち向かう場所へ入るということではない。見えないところで支えてくれている人の存在に、知らず知らず触れながら、一日を開始する。今日も、生徒たちは校門をくぐる。学校という空間には、見えないところに多くの支えがある。その支えの中で、学校の時間が、明日もまた、静かに動き出す。


船越 康平