最新更新日:2024/11/05 | |
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えんぴつを使ったよ(1年生)初めての体育(1年生)「響(ひびき)」この記念像を創られた想いが記念像の下にある銘板に綴られています。 「平和の少女像」
修二校のシンボル 「平和の少女像」
平和の少女像は,昭和37年に講堂竣工記念として,現在の体育館北側のロータリーの花壇の場所にあった池の中に建てられました。作者は,当時地蔵本町に住んでおられた彫刻家の 藤庭 賢一 氏です。 5年生の娘さんをモデルにして作られました。胸に平和の象徴である鳩を抱いている姿は,戦争を体験された藤庭氏の平和への思いが込められています。作られた当時は,毎年の卒業アルバムの表紙を飾るなど,修二校のシンボル的な存在でした。 しかし,長年の風雪により像の痛みが激しくなり,平成14年に藤庭氏のご好意により,現在のブロンズ像に改鋳されました。以前の樹脂の像は,きれいに修理して一乗寺こどもミュージアムに展示しています。 学校沿革史 修学院第二小学校の創立<2>
十月六日創立記念日
修学院第二小学校の創立記念式は4月6日でした。そのためこの日を創立記念日とすべきでしたが,まだ春休み中であるため,半年後の10月6日を創立記念日とすることが昭和34年に決められました。 まぼろしの校名 一乗寺小学校 分校名がそのまま校名になると思ったある先生が,新しいストッブウォッチに一乗寺小学校と記名したそうです。しかし一乗寺という地名は,修二校区だけをささない等の理由でまぼろしの校名となりました 学校沿革史 修学院第二小学校の創立<1>
昭和22年4月,新しい6・3三制の教育が始まりました。
このころ修学院小学校の児童数はたいへん多く,京都市内でも有数のマンモス校でした。昭和22年で1847名,26年には2028名もいました。もともと校区は南北に広いうえ,児童数もこのように増えたため,新たに分校をつくる話が持ち上がっていました。しかし,戦争が終わったばかりだったので,分校建設が実現するにはしばらく時間がかかりました。 昭和27年1月にまず,修学院第二小学校建設促進協力会が発足しました。続いて29年2月に第二修学院小学校建設協力会ができると,学校用地を探しました。用地の目途がたつと,同年の4月15日には,第一期の工事が始まりました。また,用地を得るために募金活動も行われました。そして,9月22日には木造二階建て六教室の校舎が完成しました。12月4日には竣工祝賀式とともに,1年生3学級,132人,教諭3人,作業員さん(今の管理用務員さん)1人,給食調理員さん1人で,一乗寺分校が誕生しました。 こうして,毎年1年生を迎え,少しずつ児童数がふえていきました。一度に広い用地を得ることや,校舎を建てるだけの予算がなかったからだそうです。 このころ,区画整理がはじまり,その区画整理により校地も広げられました。現在,校区内にある多くの児童公園もこの時つくられました。 そして,最初の1年生が6年生になり,全学年そろった昭和34年4月6日,京都市立修学院第二小学校が誕生しました。 当時,プールは一乗寺グランドにありました。そこで,中学校と使用する日を決めて水泳学習をしました。 その頃の先生の話 昭和29年12月4日,本校をひきあげ,1年生3学級の132名を 引き連れ,まるでひよこを守る親鳥のような心境で一乗寺分校へ来まし た。上級生のいない1年生だけの学校はじつにさびしいものでした。つぎの日,遊び道具がないということで,お母さん方が大型のゴムまりを たくさんくださいました。 給食も済んで帰るとき,3組がそれぞれ修学院小学校の校歌を声高らかに合唱してから「さよなら」をしたものです。 学校沿革史概要ホームページについて
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配布文書に「修二だより 4月号」と「わが修二校 第1号」をアップしました。下から直接ご覧になれます。
<swa:ContentLink type="doc" item="71431">修二だより4月号</swa:ContentLink> わが修二校 第1号 入学式
4月10日(月)
桜が咲き誇る中,78名の新入生をお迎えする入学式を行いました。 |
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