【校長室から】目標と目的、手段と目的
- 公開日
- 2025/09/16
- 更新日
- 2025/09/25
校長室から
気温38度の酷暑。それを上回る熱気を帯びた、8月末の文化祭。
残暑というには眩しすぎる陽光が校舎を包み、講堂に、廊下に、教室に、アトリウムに、熱気が漂っていた。
講堂では1、2年生が懸命に演じる舞台劇の声が響き渡り、アトリウムでは3年生が渾身のパフォーマンスを披露する。文化系部活動の展示や研究発表、有志による模擬店、生徒会執行部が施した校内装飾。その一つひとつが、この一日のために積み重ねられてきた日々を物語っていた。
時間を積み重ねたのは、主役の生徒たちだけではない。PTA・保護者の方々、地域の人々、卒業生、教職員…。そして二十年もの間、毎朝の開錠と毎晩の施錠を欠かさず続けてきた警備用務員のYさん。
この日がYさんにとって、最後の勤務日であった。閉会式での800人からの「ありがとう」は、万感の想いを込めて、一度だけ。拍手と感謝に包まれたその瞬間に、彼の静かな歩みが、この学校の歴史の一部を確実に刻んできたことを誰もが理解した。
Yさんは、最も目立たぬところで、最も確実に、しかも根底から、学校を支えてくださった。人知れず陰ながら二十年間、ずっと高校生の活動を見守り続けた。そんな存在に感謝の気持ちを伝える感性があるということ。それは、この日に残念ながら欠席していたクラスメイトや、その他、輝ける場面で表舞台に登場する機会がなかった大切な存在に、「ありがとう、また一緒に前に進んでいこう」との想いを表現した一場面であったと確信する。
文化祭で金賞を取ることは、確かに一つの大きな目標であるのかもしれない。しかし、それは果たして、「目標」か「目的」か。目標と目的を取り違えると、時に人の努力は思いも寄らないものへと変質する。自らの、自分たちのために懸命に取り組むこと。それは間違いなく尊い活動である。自己への有形の賞や称賛は、明日への原動力となる。だが、自己への有形の報いが、とどのつまりの「目的」なのであろうか。
世界のあらゆる叡智は、こう言う。「人のパフォーマンスが最大化されるのは、他者のために、無形の価値を求めて動くときである」と。
体育祭を一ヵ月後に控えている。学校行事でもう一度熱くなろう。年度は後半に向かい、1、2年生は、それぞれまとめの時期に突入する。3年生はその先に受験が控える。大学入試では孤独な闘いに立ち向かうことになるが、そのチャレンジは個人のものに留まらぬ。学年全体が一つになり、学校全体が「チーム堀川」として受験に立ち向かう。そこで求められるのは、短期的な目標を超えた、「目的」の意識であろう。何のために学び、何のために受験に向かうのか。何のために進学し、何のために学び続けるのか。あるいは一体、何のために私たちは生きていくのか。
変化を恐れてはならない。だが、変化することそのものが目的にすり替わってはならない。あるいは、変化することへの恐れが強すぎる時、変化しないこと自体が目的化する。「動機善なりや、私心なかりしか。」動機が私心である時に、手段は目的化するように思う。文化祭の余韻の中で、こうした根源的な問いが静かに立ち上がる。
学校で学ぶことの本質は何か。短期的な目標を達成する経験は極めて重要だ。しかし、それだけが学校という装置が持つ、本源的な目的ではない。究極の目的とは、自分自身の利益や成果を超えたところにある。他者を思い、公に想いを馳せること。その先にある「恩返し」や「恩送り」こそが、人が学び続ける理由であり、未来に手を伸ばす力になるのではないか。
文化祭の余韻が薄れていく。日常を取り戻した教室、笑い声の残響。それらすべてが、あっという間に過ぎ去っていくようでいて、確かに心の奥に刻まれていく。生徒も、私たち教師も、そして長年校舎を守ってきた警備用務員のY氏も、時間をともにした証人である。
現代社会において、あらゆる場面で「手段と目的の逆転」が生じていると感じる。そんな時代に、私たちは学校を舞台として生活を続ける。文化祭の記憶が問いかける。
—目標と目的の達成に向かうことができたか。あるいは手段と目的とを、取り違えることなくやり切っただろうか。
—変化そのものを目的にしていないか。あるいは、変化しないことそのものが最大の目的と化していないだろうか。
—自己のみならず他者の利益へと、その活動・その取組は、広がりがあるだろうか。
文化祭は一つの通過点である。ここで生まれた経験や問いが、未来への歩みを形づくる。
帰って来た日常の中で問い続けよう。目標と目的とは。手段と目的とは。
船越 康平