「学生(がくじょう) 学問する少年(少女)」
- 公開日
- 2014/06/12
- 更新日
- 2014/06/12
学校の様子
最近目にした文章に、以下のようなことが書かれていました。(以下は一部抜粋です)
「少年よ学生たれ!」上越教育大学名誉教授 新井郁男(出典:内外教育)
1889(明治22)年に刊行されたわが国初の辞書「言海」(大槻玄沢の孫大槻文彦の編纂)のページを何となくめくっていたら「学生」という項目が二つ出てきた。一つには「がく志やう(がくじょう)」、もう一つには「がくせい」とルビがふってある。前者には「学問スル少年」、後者には「学ブ人、生徒、書生」と解説されている。
(中 略)
小林秀雄は「本居宣長 補記」において、中江藤樹の「翁問答 序」にちなんで、「先生の問ひに正しく答えるとは、先生が務め隠して置いた答えを見付け出すことを出ない。……取り戻さなければならないのは、問ひの発明であって、正しい答へなどではない」と述べ、これが学問をする者の基本にある覚悟であるとしている。問いの発明というのは、研究という点からは仮説を立てるというような意味であるが、有り体にいえば疑問をもつということで、単に研究者だけでなく、学ぶ者すべてに通底する課題であろう。
(中 略)
いま内外の教育界では、テストで測定された結果を学力と捉え、その高低が悲喜こもごもを招いているが、「がくじょう」という意味での学生、すなわち「学問する少年」が育ってほしい。
わが国では、小学生を児童、中・高校生を生徒、大学生を学生と呼んでいるが、すべて学生とすべきである。というより、学習社会を目指すなら、学ぶ者すべてを学生というべきであろう。〔注:太字は私によるものです〕
いかがでしょうか。これからの時代を生きていく生徒諸君には、しっかりと「自分の問いを立てる(発明する)力」を身につけて欲しいと願います。
彼らの今後の人生において、全てに答えを得ることはやはり難しく、つらくとも長い時間をかけて、自らに「問い続けていく」力が求められます。そこではじめて「生きる力」を越えた「生き抜く力」が見えてくるのかもしれません。
生徒諸君、いや学生諸君。目の前のテストは大事です。でもその向こう側にある大切な「問い」を忘れずに、「学問する心」を育てていってくださいね。期待しています!