『髭茶屋(ひげちやや)桃燈(ちようちん)町・八軒(はつけん)屋敷(やしき)町の名前』 【第31回】音羽の自然と歴史
- 公開日
- 2009/03/19
- 更新日
- 2009/03/18
音羽の自然と歴史
四ノ宮から旧東海道にそってまっすぐ東へ行くと、やがて「追分」というところに出ます。「追分」というのは、道の分かれる場所で、江戸時代はここから西へ京都まで行く道を「東海道」と呼び、南へ奈良まで行く道を「奈良街道」と呼んでいました。この「追分」のあたりを「髭茶屋(ひげちやや)(桃燈町(ちようちんちよう)・屋敷町)」と言い、さらに東側を「八(はち)軒(けん)屋敷(やしき)町(ちよう)」と呼んでいます。どうして、そんな名前がついたのでしょうか?
これには次のようなわけがありました。【写真は八軒屋敷町付近】
天正(てんしよう)年中(ねんちゆう)(1573〜1592)に豊臣秀吉が西国出兵する際にこの地を通過したとき、町の人々は、それぞれの門に「桃燈(ちようちん)」を出して送迎(そうげい)しました。それを喜んだ秀吉は、のちにこの地域の人たちに対して、「桃燈町(ちようちんちよう)」という名前を与(あた)えました。
そして、しばらく「桃燈町(ちようちんちよう)」と呼んでいたのですが、その後、秀吉が方広寺(ほうこうじ)(東山区(ひがしやまく))の大仏(だいぶつ)を造営(ぞうえい)した際、街道の付け替えが行われました。その時、新しく道をつくったために、そこに住んでいた人々を立ち退かせました。そして、立ち退きをさせられて、街道沿いに桃燈町(ちようちんちよう)から分離(ぶんり)・独立(どくりつ)したのが「髭茶屋(ひげちやや)町(ちよう)」と「八(はち)軒(けん)(屋敷(やしき))町(ちよう)」でした。
「髭(ひげ)茶(ちや)屋(や)町(ちよう)」と言う名前は、ここに髭(ひげ)づらの老人が茶店を出していたところから、名前がついたと言われています。また「八(はち)軒(けん)屋敷(やしき)町(ちよう)」というのは、移(い)転(てん)当初(とうしよ)の軒数(けんすう)が八(はち)軒(けん)であったところから、この名がついたと言われています。
このお話は、音羽小学校に通う児童のおじいさんからお聞きしていましたが、その後、古い文献(ぶんけん)にもこのことが載(の)っていて、確かな話だということがわかりましたので、ここに紹介しました。