京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/26
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◆学校教育目標「自立・寛容・共生」 ◆教育方針〜みんなが「笑顔でこれて,笑顔ですごせて,笑顔でかえれる」学校

3月14日(水)3年生 総合的な学習 代表生徒作品2

生徒代表作品です。
「沖縄の歴史」

1、研究の動機
  自分は、親戚の人に買って貰った歴史漫画のおかげで、小学生の頃から歴史に興味を抱いていました。 中でも沖縄の土地は、400年余り薩摩藩及びアメリカの支配を受けていたと言う事実や、太平洋戦争中に日本で唯一地上戦が展開されたということもあって、そこに住む人々がどんな思いで暮らしてきたのか知りたくなったのです。

2、事前学習で分かったこと
 ・15世紀、第一尚氏によって初めて琉球が統一される。(1429年)  
 ・政権が不安定となり、第一尚氏は滅亡し、第二尚氏の時代となる。
 (1469年)
 ・薩摩藩の攻撃を受け抵抗することなく降伏する。これにより琉球王府
 は以後、清と薩摩に支配される二重外交をせざるをえなくなる。
 (1609年)                                       
 ・薩摩藩の支配を受けるようになる以前は豊かに暮らしていた。           
  琉球からの輸出品は硫黄や砥石・馬など僅かな種類しかありません
  が、清・日本・朝鮮・東南アジアなどから買い入れた商品を別の国
  に売る「中継貿易」によって巨大な利益をあげていました。
 ・1609年以後は薩摩と江戸幕府の属国も同然となり、江戸上りの費用
  と大量の年貢などによりどんどん財政難になっていった。住民も重
  い税に苦しんだ。
 ・日本で明治維新が起きると、琉球王国から琉球藩に、そして沖縄県
  へと矢継ぎ早に日本政府に無理矢理組み込まれていった。

3、民泊の方への質問
 ・戦争体験とその後について
 
4、民泊で質問をして分かったこと
 民泊で伊集さんと言う老夫婦に質問した。
 どのような戦争体験をしたのか。
 戦後の人生をどう送ったのか。
 
 ・沖縄の人々の墓は亀甲墓と言い、広くて丈夫なため戦時中は防空壕
  として使われていた。
 ・自分が亀甲墓に避難していると、すぐ近くで帝国軍人が米兵に追い
  かけられて撃ち殺 されてしまった。
 ・戦争末期、米兵が亀甲墓に近づいて来て、日本語で「でてこい」と
  呼びかけてきた。当時は米兵に捕まったら殺されると全員が信じて
  いたため誰も出て行かなかったが、最初の一人が出ていったのを皮
  切りに結局全員出ていった。
 ・驚いた事に、米兵は伊集さんを含めた多くの避難民を殺さなかった
  のである。
 ・米軍が用意した仮設テントで生活させられた。
 ・沖縄は連日の空爆と艦砲射撃と陸軍による焼き打ちで文字通りの焼け
  野原となった。
 ・凄まじい攻撃で城は元より家の一軒も残さず沖縄全土は真っ平になっ
  た。
 ・戦後、自分の家があった土地に戻ってみると、米軍の基地になってい
  たと言うのもよくあったことらしい。
 ・伊集さんはその後運送会社や酒造会社に務め、定年して今に至るらしい。

5、感想
色々調べて分かった事は、沖縄の人々は戦いをしたことがない訳では無い。しかし、「さとうきび畑」と言う唄にもあるように、戦いとは海の向こうからやってくるのであり、小さな琉球の住民には抗えない運命だったのである。
戦争で沖縄は平和の大切さを今に伝える土地となりました。伊集さん夫婦と暮らしていく中で、自分達は沢山の笑顔をもらった。沖縄の素晴らしい眺めを沢山見せてもらえた。
そんな優しい伊集さんと美しい沖縄の過去を知ることができて、とても有意義な修学旅行
になりました。
最終的に何故民泊を始めたのか聞きそびれてしまったが、民泊を訪れた客に沖縄の魅力と平和の精神を説き続けていると確信している。

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