最新更新日:2024/10/18 | |
本日:1
昨日:58 総数:1172142 |
「夏季大会前の部活動です」
いよいよ夏の大会が明日より始まります。
「夏季大会前の部活動です」
ものすごい暑さですが、頑張ってます!!
「夏季大会前の部活動です」
いよいよ部活動の大会が始まります。最後の追い込みに入ります。
「懇談 2日目」
懇談会が2日目です。順調に進んでおります。
「懇談会が始まりました」
本日から懇談会が開始しています。4月からの学校生活や学習の様子などお話しさせていただきます。保護者の方は、お忙しい中ご来校いただきありがとうございます。懇談会は学校だけが、お話しする会ではありません。ご家庭での様子や、気になることを話題としてご提供いただければ幸いです。
「懇談会が始まりました」
3年生での懇談の話題は、進路のことになっています。生徒自身がご家庭等で保護者の方と十分に話し合って決めていきます。先生はアドバイスをすると思ってください。大切なことは、生徒自身が「自分の目標を持つ」ということではないでしょうか?
『本日より三者懇談です』
未だに大雨の被害が収まりません。朝刊各紙を見るたびに被害者数が大きく報じられ、本当に心が痛みます。心からご冥福をお祈りするとともに、ご遺族へのお見舞いを申し上げます。
本日より本校では三者懇談会がはじまります。1期を終わろうとする現時点でのお子たちの成長ぶりを共有させていただくとともに、夏季休業中での目標や、2期に向けての課題を確認させていただきたいと思います。保護者の皆様には、ご多用のところ恐縮ですがよろしくお願いします。 また、この時期はさまざまな感染症も気になるところです。以下に、保健所からの啓発内容を掲示しておきました。ご覧いただき、ご家庭でもご注意いただければ幸いです。 猛暑が続いております。ご来校の際にはお気をつけてお越しください。(よ) 「36度まで上がるそうです・・・」
すでに登校時に汗がしたたり落ちてます。衣笠中は校区が広く、30分以上かけて通ってくる生徒もいます。学校にたどり着くころには汗をびっしょりかいている生徒もいます。
本日は、予報によりますと気温が36度まで上がるそうです。教室はクーラーがかかっていますが、部活動では急激に外で激しい運動をする時に熱中症に気を付けてください。クーラーの効かせすぎに気を付けてください。 ある生徒が言ってました「熱中症予防のために、家ではクーラーをかけていません!!」いい方法ですね。 「元気がありません・・・」
大雨で気温が下がっていたのですが、元気がありません。体の中にガスがたまっています。水を多くすると体が浮き上がって泳ぐことができません。水を少なくして体のガスを抜いています。エサも少なくしています。ストレスをかけないようにロッカーの中で暗くして静かにさせています。元気になってほしいです・・・。
『全校道徳』
すさまじい大雨の驚異が日本全国を襲い、各地に恐ろしい爪痕を残しました。100名を超える方がお亡くなりになり、今も尚、行方が分からない方々もいらっしゃいます。どうお見舞いを申し上げてよいのか、言葉を失います。一日も早い救助と復旧とお祈りするばかりです。
本校では「人権教育」の一環として、本日4限目に体育館において「全校道徳」を実施いたしました。生徒会本部の生徒諸君がコーディネイトをし、我々教員がサポート役に回っての授業でした。 詳細はまたお知らせしますが、そこで以下の作文が生徒諸君に紹介されました。本当に静かに聞き入っている様子を見て、皆様にもご紹介したいと思いました。 ある中学生がコンクールに発表したものです。 「笑い」という光の使い方 「笑い」の力は周りを明るくする。しかし、その使い方を間違っている人が多い気がする。彼らが使うのは、「笑い」ではなく「嗤い」だ。「嗤い」とは、人を馬鹿にする、あざけるなどの意味が込められたワライである。そこに周りを照らす力は無い。そしてその嗤いは、相手の嫌なことであり、人権を侵害することにも繋がると思う。 「お前だっせぇ」 「その服、オバサンみたい」 これらは私が実際に言われ、嗤われた言葉だ。傷ついた。それに、「何故こんなことを言うのか」と疑問に感じた。特に後者―服装のこと―に関しては、鮮明に状況を覚えている。これを言われた後、私はその服をなかなか着られなくなった。 人に笑われる、ということ自体は大して珍しくもない。誰でも一度は失敗し、笑われたことがあるはずだ。自分から笑いを取りに行く人だっている。 では、「笑い」と「嗤い」の差はどこで生まれてくるのか。 それは、「わらう側の気持ちの違い」だと私は思っている。「わらう側」に、少しでも相手を見下す心があれば「嗤い」だ。こう考えるようになったきっかけの授業がある。 その授業は道徳。テーマは、「自分以下を求める心」というものだった。話の主人公は、自分の周りの人を否定することで自分が上にいるかのような錯覚に陥っていた。このことが「嗤い」を生む一つの原因ではないか、私はそう考えた。したがって、「嗤い」によって人権を侵害される人を減らすためには、個人ごとの心の持ちようから変えていかなければならないと思う。 でも、現代社会における「個々の意識の改革」というのはそうそう出来るものではない。というか不可能である。数百人の集まりである中学校ですらも「嗤い」が絶えないのだから・・・。 それでも私は、「嗤い」によって傷つけられる何人かの人が助かればいいと思う。悪気なく見下した自分の「嗤い」を、何人かが客観的に見直すことができればいいと思う。 ではそれをどうやって実現するのか、ということになってくる。学校内であれば、ポスターを作ったり、放送を行うのが効果的だろう。キャッチフレーズは、例えば「あなたの『わらい』、『嗤い』になっていませんか?」と、問いかけの形にしてみたり。ポスターを掲示するのは、人目につきやすい教室のドアや昇降口、放送する時間は皆が席に着いている昼食中がいいだろう。学校全体が一度、「笑い」と「嗤い」の違いについて考えられる機会を設けてみてはどうかと思う。 また、社会全体であれば、インパクトのあるポスターを街の掲示板などに貼るべきだ。そして少しでも多くの人に「人を嗤っていないだろうか」という意識をもってもらいたい。 さて、ここまで私は「嗤い」はわらう側の心によって生まれる、と書いてきた。しかし、これには注意点がある。自分が相手を見下していなくても、相手は笑われて傷つく可能性がある、という点だ。それを防ぐのは、状況、笑う内容、相手などをよく考えることだ。相手のことを知る時間があれば、そこでその人の性格を知っておくべきだ。こうすることで、「嗤い」に傷つけられる人が何人か減れば私は嬉しいのだ。それは結果的にもその人達の人権を守ることにも繋がる。 「笑い」をもつ動物の種類は、地球全体を見てもそう多くないという。その中でもヒトは、特に多様な笑い方をすると思う。社会的関係を築くためのスマイル、「面白い!」の大笑いや照れ笑い・・・。 それらは、光だ。対人関係における“光”を私達はもっているのだ。「光と影は表裏一体」などとはよく言うが、「わらい」において影の部分―「嗤い」―を見せる必要がどこにあろうか。折角手に入れた“光”を、相手を傷つける道具にしてはいけない。人権を侵害するために使ってはいけない。「わらい」はお互いを照らす光に、そして人権を守るものになるべきだ。 いかがでしょうか。もしかすると未曾有の災害の中で、ささやかでも「光」となるものがあれとすれば、それもまた「笑い」なのかもしれません。被災された方々に「笑い」が戻る日が必ず来ることを、私は生徒たちと一緒に信じたいと思います。 本校の学校目標は「みんなが笑顔できて、笑顔ですごせて、笑顔でかえれる学校」です。大事なポイントは「みんなが」という点です。最後の一人が笑顔になるまで、私たちはこの学校目標の達成に全力を尽くしたいと思います。皆様もご協力とご理解を心からお願いします。(よ) |
|