京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/06/08
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『“てっぺん”獲りに行こうや!』〜Catch the top !〜

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「あれから9年」
 あれからもう9年が経ったのかと思います。2011年3月11日午後2時46分のことでした。この年度,校長となった私は初めての卒業証書授与式に向けて校長室で式辞を作っていました。卒業生たちは,卒業前行事で楽しみにしていたUSJに行っていました。机から何かが落ち,それを拾おうとしたとき,大きく“ユーラ・ユラーッ”としたのを感じました。はじめは『めまいがしたのかな』と思ったのですが,しばらく続くその揺れに地震であると分かりました。校長室から顔を出すと,同じようにして保健室の先生が顔を出していました。
「地震やんな?!」「はい,多分そうだと思います。」
 東北地方であんなに大ごとになっていることをその時点では全く知らなかった私は,そんな呑気な会話をしたのを覚えています。
 地震情報を得ようとTVをつけたところ,震源地であると思われる東北地方の様子が映し出されていました。TV局のオフィスでしょうか,事務机やロッカーが激しく揺れたのちに倒れる(吹っ飛ぶ)映像が映し出されました。やがて,それまで見たことのない映像を見ることになりました。とにかく広い農地にものすごい幅(量)の濁流が流れ込んでいきます。その時はそれが津波だとは分かりませんでした。津波といえば,例えばプロのサーファーが大きな波に乗りますが,そんな波が海岸に向かって襲ってくるのかと思っていたからです。海の水が田畑を飲み込んでいきます。押し寄せる海水から逃れようと疾走する自動車も見ました。しばらくして,海岸近くの町の様子が映し出されました。自動車や家や電柱などがぐちゃぐちゃになって流れる映像です。海底で地震が起こるとなぜ津波が発生するのか,未だにその科学的構造はよく理解できませんが,その恐ろしさは脳裏に焼き付けられました。
 刻々と東北地方の惨状が明らかになっていきます。海水が引いた後,建物の上に自動車や大型船が乗っかっているのを見て,どれほどの量の海水が流れ込んできたのか想像することができました。そのころになると,地震とその後の津波によって行方不明になっている人についての情報も流れ出しました。児童・生徒が教職員とともに津波にのまれた学校があることも知りました。TV画面を観ているのがつらかったです。
 何日か後,次の大惨事が明らかになってきました。地震と津波による原子力発電所の事故です。地震と津波による死者と行方不明者が18000人も以上いるのに,いつ治まるか見当もつかない放射線による被害が広がりつつあることも報道されました。
 あれから9年が経ちました。私たちは,あの大災害とそこで起こった人々の様々な行動,犠牲となった多くの人たちのこと,今も残されている課題について,決して忘れてはいけません。今の中学生は,その当時まだ小学生にもなっていません。是非とも今日,家族で当時の話をしてみてほしいと思います。

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