学校日記

1995.1.17 あれから16年・・・鎮魂の祈り・・・。

公開日
2011/01/18
更新日
2011/01/18

学校の様子

 16年前の1月17日午前5時46分,先生はマンションの4階で就寝中に,地下から怒号のような音をきいた瞬間,今まで経験したこともない大きな揺れを感じました。そのときは,子供がまだ妻のおなかの中にいる状態でしたので,タンスや本棚が倒れてこないように必死で支えていたことを今でも鮮明に覚えています・・・。
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 6434人が亡くなった1995年の阪神大震災。昨日,兵庫県内各地で追悼行事が行われました。神戸市中央区であった,市と市民団体による「1・17のつどい」で、遺族代表の小河昌江さんが涙で声を詰まらせながら「追悼のことば」を話しました。

 『「感謝」には「種」があると思います。誰かに感謝の気持ちを持った時,自分の心には感謝の種がまかれ,その種はやがて育ち,花を咲かせ,実がなり,そしてまた種を作り,その種は違う誰かの心にまかれ,また花を咲かせていくのだと思います。
 私は,阪神・淡路大震災で母をなくしました。すぐにかけつけた時,2階建てのアパートは見るかげもなく,がれきと土の小高い丘のようでした。道具も知恵も勇気もなく,立ちつくす私の前に現れたのは,近くの工務店の寮に住む若い男の人たちでした。
 彼らは,まだまだひどい余震が続く危険な状態の中,がれきをかき分け,生き埋めになっているアパートの住人を次々に救い出してくれました。
 でも,母はなかなか見つかりません。彼らは余震の合間をぬって,何度もアパートの1階にもぐり,とうとう母をみつけてくれました。
 「お母さん,お母さん」,呼んでも母は答えません。でも,握った母の手はまだ温かい気もして,私は「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせ,母に迫ろうとしている死の気配をどこかへ押しやろうとしました。
 救急車も呼べるはずがない状況の中,私と母は1台の乗用車に案内されました。助けて下さった工務店の方の車です。彼は,私と母を乗せ病院へ向かい,付き添ってくれました。
 病院は人であふれかえり,医師たちは足早に廊下を往復し,やがてぽつんと廊下に立ちつくす私のそばで1人の医師が立ち止まり,母の手を取り,一言「何時何分」とだけ看護婦さんに告げ,また足早に去って行きました。
 私は,その時はじめて母の死を現実としてつきつけられ,涙が一気に溢(あふ)れ出しました。そして,付き添って下さった工務店の方が帰られる時,私はその後ろ姿にただただ深く頭を下げ,彼の姿が廊下から見えなくなるまで見送る事しかできませんでした。
 震災の光景は決して忘れる事はないでしょう。でも,それと同時にいつも思い出すのは,あの勇気ある工務店の寮生たちの行動で,私はその度に深い感謝の気持ちを覚えます。そして不思議な事に,その感謝の気持ちは薄らぐ事なく,逆に日に日に深く大きなものになっていくのです。
 私は,あの震災の日,私の心に「感謝の種」がまかれたのだと思います。そして,その種は育ち,今私の心に花を咲かせているのだと思います。この花が実になり,種を作り,私もまた誰かの心にその種をまく事ができればうれしいなと思います。
 最後に,震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。
                平成23年1月17日 小河昌江 』

 ※16年前といえば,君たちはまだ生まれていませんでした。ですから,阪神大震災の恐怖や悲しみは直接は知りません。しかし,上の「追悼のことば」を聴くと,そのときの惨状が目に浮かんできます。惨状だけでなく,その中にあって人々が助け合い励ましあっている姿も目に浮かんできます。苦しみ・悲しみの経験と,助け合った絆を忘れずにいなければと思いました。