なによりも国語
- 公開日
- 2013/08/20
- 更新日
- 2013/08/20
校長室から
これは,司馬遼太郎のエッセイ,対談集『十六の話』の14番目の話である。ちなみに,小学校の教科書にも掲載された「二十一世紀に生きる君たちへ」は16番目の話として載っている。
さて,この話の最後に「学校の現場は,国語建設の現場でもある。/この文章に、結論はない。筆者としては現場の先生方に,祈るような気持ちでいるだけである。」と結んでいるところが気になって,時々読み返しているという具合である。
概略としては,言語の持つ意義,とりわけ国語(日本語)についての部分は引用するが,「国語(日本語)は,日本文化二千年の所産であるだけでなく,将来,子供たちが生きてゆくための唯一の生活材であり,精神材であり,また人間そのものを伸びさせるための成長材でもある。」とある。そして,国語力の育成には,家庭と学校,そして,読書と交友であり,その養う基本として,いかなる場合でも「文章語にして語れ」と言っている。
国語を生活材,精神材,成長材としてとらえていく視点は,義務教育で子どもの育成に関わるところからいえば,きっちりとした生活材としての役割を担った言語活動を行っているかである。そして,精神材,成長材としてつなげていくためにも,きっちりとした言語指導,つまり,ここでいう「文章語にして語れ」という,きっちりとした文,文章を意識させることで,語る内容を深めるということにつながっていくことだと思っている。よく言われる単語で生活することを許してはいないかということであろう。お茶,お金,腹減ったなども,今の自分の体の状態を説明して,お茶を要求することであり,使用目的を明らかにして,お金を要求することで,自分の思いや考えを深めることになっていき,より一層の国語力が備わると考えられるからであろう。そして,司馬遼太郎もその視点としての重要度の順として,家庭と学校を,読書と交友をという順で挙げているのだと思う。青少年の健全育成のための社会総がかり取り組み,などというフレーズをよく使うが,この健全育成の中に,きっちりとした言語活動を営むことも含めなければならいだろう。家庭も単語生活を許してはいけないし,学校もそうであるし,社会全体としてもそうである。
しっかりとした国語の育成が,精神材,成長材となるとするならば,青少年の健全育成の基盤としての生活材としての国語の存在を今一度しっかりと認識しなければならないと考える。時折,こうして読み返しては,私たちの生活そのもののを支える国語を顧みるのである。