「吾輩」の猫の死
- 公開日
- 2013/06/19
- 更新日
- 2013/06/19
校長室から
2年生の国語を見に行きたいと思いながら,なかなか行けず,今日やっと見に行くことができた。見に行きたかったのは,帯授業である。
国語の帯授業では,教科書に入る前に,新聞の記事やコラムを読んで,その問いにこたえていく形式でやっている。素晴らしい取組である。生徒たちは,配られたプリントをしっかりと読み,考えている。たった10分ぐらいのものではあるが,その積み重ねが,きっと大きく成長を促すことだろうと思う。なぜなら,自分の意見をまとめる作業をおおよそ週4回,習字の時間もあるが、35週の標準時数と考えても140編もの記事に自分の考えをぶつけるのである。すると,家に帰って新聞を読んでも,大事なところを考える習慣というか,癖になってしまうからである。習慣こそ,毎日の積み重ねの賜物である。
何を根拠にそう考えたか,思ったかという,単に正答のないものに対して考え抜く力は,これから生きていく中で最も大切な事柄である。その訓練をこうした授業の中で進めることは,大事な視点である。分厚くなった教科書を横に,このことをやる勇気が大切である。
よく教科書を教える,教科書で教えるとどちらだと言われるが,もちろん教書で教えるである。教科書は用いなければならないが,万能ではない。適宜生徒にあったものを入れて,より効果のある授業を進めることは肝要なことである。それは担当している教師の専門性である。
今日の「漱石 弟子へ素顔の手紙 『吾輩』の猫の死 伝える」では,二番目に,次のような問いがあった。ここにでは「三四郎」のモデルとなった独文学者の小宮豊隆とのやりとりである。
「漱石は,猫が死んだことを伝える書簡に『三四郎の執筆で忙しく,お参りには来なくてもいい』と書きました。どういう気持ちで書き送ったと思いますか。」である。これは書簡であるので,その問いに「書いた」ではなく「書き送った」と,しっかりとした問いづくりをしているのも素晴らしい。言葉に敏感であらねばならない。
生徒たちもいろいろと書いていたが,さて,私ならと思いそのまとめる根拠を考えてみた。
小宮豊隆と漱石との関係が記されている。最初の部分で「三四郎」のモデルであり,あとの部分では,漱石を父親のように慕っていたことも考慮しなければならないだろう。
ということで,
・三四郎のモデルが実際来ることでの,執筆への影響はどうだろうか。
・「お参りには来なくてもいい」と「お参りに来なくていい」との違いはどうだろう か。
・猫の死に対して,えざわざお参りには来なくてもいいという書簡までも送る本音とは どんなものだろうか。さらに考えるなら,来なくていいものなら,伝えるだろうか。
といった視点であるように思う。これらをまとめてみるといいかな。