学校日記

公開日
2009/11/11
更新日
2009/11/11

校長室から

 本の整理をしていたら,俵万智の『サラダ記念日』が出てきた。奥付を見ると,初版は,1987年5月8日,わたしのは,同年8月3日で,65版である。3か月でこの版の重なりである。改めて驚いた。
 こんな歌がある。
 捨てるかもしれぬ写真を何枚も真面目に撮っている九十九里
「捨てるかもしれぬ」に対して「真面目に」の対比が面白い。しかも,「まじめに」じゃなく「真面目に」である。漢字の硬さというか,ひらがなではない「真面目」一徹が感じられる。彼氏と九十九里浜で写真を撮っているのだろうか。しかし,このときの気持ちとして,「真面目に」,真剣に撮っているわたしと,いつか別れることになって,「捨てるかもしれぬ」という不安を抱えながらの真剣さ,心の揺れを感じる。しかも,その「何枚も」に今の愛情の大きさが感じられる。こんなことが欄外のメモとして残っていた。しかし,読みかえしてみると,何枚もということで,幸せであるが,何か不安である今に,その愛情を大きいものとしたい,不安を打ち消したいわたしがいるのかもしれない,という思いも過った。
 よく,歌の指導をしていると,生徒たちはよく,そんなものつくった人に聞かなわからないと言う。本当の真意はそうかもしれない。しかし,作品としての歌は,できたあとには,歌人の手を離れるのである。つまり,あとは,つくり手以上の解釈となってもいいのである。そこが文学の楽しさなのである。リアリズムを超えてロマンチシズムが韻文にはあることが韻文たる所以である。そして,この歌集にしても30年も昔のものである。若いころの思いと今とのギャップがあるはずだ。その解釈の違いが人生の齢かもしれない。そのこともまた楽しい。
 歌は記憶すべきであると思う。というのも,記憶した歌を思い出すとき,ふと以前の思いとは違った,またずっともやもやした思いでいたものが,何かを経験したり,見たりしたことで,視界がパッと広がり,ハッと思わせてくれるたり,気付かせてくれることがあるのが楽しいからである。