地域の様子
- 公開日
- 2009/03/06
- 更新日
- 2009/03/06
学校紹介
1.土地の様子
本校は洪積層からなる桃山丘陵南東部の高台(海抜39m)に位置し,広大で幽すいな伏見桃山丘陵に隣接する。竹林に囲ま れた静寂な環境で,四季折々の景観が美しい。
校下は丘陵部と山すその平地とに分かれていて,南限に山科川が流れ,西方で宇治川に注いでいる。丘陵と宇治川の間に,JR奈良線・外環状線道路・京阪宇治線が東西にほぼ平行して走り,宇治・山科・伏見を結んでいる。
農産物のミョウガ・ウドはこの地域の特産物になっている。
2.地域のうつりかわり
[行政区域の変遷]
現在は伏見桃山町に属しているが,明治22年の町村制実施当時は,紀伊郡堀内村大字六地蔵と称した。古代のことは不詳であるが,中世は伏見九郷の一つで山村と呼ばれ,江戸時代に入ってからは紀伊郡六地蔵村と称した。延宝元年(1673)には伏見廻八ヵ村の一つとして伏見奉行所の支配地となり,幕末まで伏見町南組六地蔵(石高516石)または伏見六地蔵組(14ヵ町)と称した。
明治13年(1880)に伏見の新町・大津町・西町・見付町・中島などを編入し,明治22年(1889)に堀内村と合併する際,山科川を境界として東部は宇治郡,西部は紀伊郡と定められた。
[町名のいわれ]
校下の町名のうち前記新町・大津町などは豊臣秀吉の伏見城築城にはじまる城下町時代の町屋であったところで,いわゆる旧街道に沿っている。
それ以外の町名の大部分は武家屋敷地にちなむもので,次のように推定される。
日向(平野日向守) 和泉(藤堂和泉守) 丹後(西尾丹後守)
美濃(本多美濃守) 因幡(本多因幡守) 紅雪(岡紅雪) 根来(根来愛染)
その他,伊庭は「射場」,安芸山は(秋山),遠山はそのまま山の名からきている。
[巨幡墓と六地蔵]
本校の北東(遠山)に所在する桓武皇子伊豫親王巨幡墓は,古地図に金塚山と記されている古墳の墳上にある。この古墳は破壊が激しいが,桃山丘陵に存在する唯一の前方後円墳といわれている。
また,本校の北方約100mの地点(旧小字関山)が古代の木幡関のあったところと推定されている。古代には桃山丘陵(伏見山)の東面を木幡山と呼んでいて,そこを京と宇治を結ぶ官道が通じていた。秀吉の時代にこの道は土塁建設によって廃され八科峠を通る新道が開通された。
村名にもなった六地蔵(大善寺)は草創は明らかではないが,地蔵信仰の中心として有名な古刹である。現在もいわゆる「六地蔵めぐり」が盛大に行われている。
[伏見城築城]
伏見が史上に出てくるのは,藤原頼道の三男橘俊綱が伏見殿を建てたことからだといわれるが,豊臣秀吉の伏見城築城によって有名になったことはいうまでもない。最初は秀吉の隠居所として指月の地に計画されたが,やがて壮大な城郭として木幡山に築かれることになった。
この時秀吉の起こした大土木工事によって,洛南の地形は一変したといわれる。当時槇島の辺で直接巨椋池に流入していた宇治川を伏見へ迂回させ,南下してよどで2川(桂川・木津川)と合流させた。その築堤工事(槇島堤・淀堤)や新しい大和街道の開通によって,巨椋池は四つに分割され,木幡沼・横大路沼などが後世まで残った。
宇治川河中の砂州に大島・養斎島・与五郎島などがあり,これが現在の桃山町大島・養斎・与五郎町となっている。
[伏見城の歴史]
文祿3年(1594)着工し翌年完成した伏見城は,本丸・西の丸・名護屋丸・松ノ丸などの曲輪からなり,また学問所が建てられ,その南に御舟入があった。舟入は現在の桃山町丹後にあたる。
慶長3年(1598)秀吉は城中で没し,翌4年秀頼が大阪城に移った後,徳川家康が伏見城に入った。
慶長5年(1600)関ヶ原の前哨戦として,西軍の伏見城攻撃があり,守将鳥居元忠らは城をまくらに討死した。 (養源院などに血天井と称する伏見城の遺物が所蔵されている。)
関ヶ原戦後徳川氏によって修城された伏見城も元和5年(1619)ついに廃城となり,その建造物は御香宮をはじめ諸社寺に移建され,石垣などの廃材は淀条築城に利用された。なお,本校玄関前に復元された石垣は紅雪の土地開発により発掘されたものである。
[桃山と御陵]
廃城後の伏見山を開墾したのは,三河出身の武士西野氏一族であり,その子孫が相次いで開発に努め桃などの果樹を植えたことから,桃山の名称がつけられたといわれる。
明治天皇伏見桃山陵は古城山と呼ばれた城址の本丸跡に大正元年(1912)竣工し,昭憲皇太后桃山東陵はその東方の名護屋丸跡に大正3年(1914)竣工した。この地に御陵ができたのは桃山の地を愛されていた天皇の遺詔によるという。
[交通の発達と住宅地の開発]
旧国鉄奈良線が開通したのは明治28年(1895)で当時唯一の交通機関であった。大正2年(1913)には京阪宇治線が開通した
校下が住宅地として開発されだしたのは,昭和33年(1958)で与五郎町の宅地が京阪電車から売り出された頃からで,昭和 38年(1958)には日向に府営団地がつくられ,しだいに他の町にも住宅が建てられていった。
山科川と宇治川の改修によって,昭和40年(1965)を最後に水害もなくなり,また昭和41年には外環状線も開通して,陸上交通は著しく便利になった。
[教育機関の発達]
学制以前の六地蔵に好文堂などの私塾があったと記録にあるが,近代教育が始まったのは,明治6年(1873)御香宮門前に開校した堀内小学校からである。同校は後に桃山小学校と改称され現在地に移った。
本校は昭和43年(1968)桃山小学校東分校として設立され,翌昭和44年(1968)に桃山東小学校として独立開校した。さらに昭和53年(1978)児童数の増加に伴い山科川以南の児童を収容するため南分校を設置したが,翌54年桃山南小学校として独立開校している。
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