京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/17
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健康・安全に気をつけて過ごしましょう。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 今回も『平清盛(たいらの きよもり)』について書いていきます。
 『平清盛』は,「武力」と「天皇とのつながりの力」を手に入れたことに加えて,「お金の力(経済力)」も手に入れようとしていました。

 『平清盛』は中国大陸にある「宋(そう)」という国との貿易を進めました。これを『日宋貿易(にっそうぼうえき)』といいます。
 『平清盛』は,日本で採れた金や銀などを「宋」に輸出することで,たくさんのお金を手に入れることができました。お金をいっぱい持っていたことで,「平氏(へいし)」の力はどんどん強くなっていきました。

 この『日宋貿易』は,船を使った貿易でした。しかし,当時貿易で使われていた船は,現在の船よりも転覆(てんぷく)【ひっくり返る】しやすかったので,中国大陸へ向かう時には,転覆しないように重りとして船の底に日本で採れた木材をのせて海を渡っていました。
 ちなみに,この木材は輸出品の金や銀といっしょに向こうで売ってしまいます。
 日本へ帰る際の船の重りとしては,「宋」で使われていたお金,「宋銭(そうせん)」を船の底に敷き詰めて帰ってきていました。こうして大量の「銭(お金)」が日本に入ってきました。

 当時の日本では,「銭(お金)」を使って取り引きをするよりも「絹」などの「物」で取り引きをすることの方が多かったので,「宋銭」の輸入は,「銭(お金)」を使った取り引き方法の便利さに気付くきっかけとなり,急速に日本で「銭(お金)」を使った取り引きが増えていきました。
 こうして日本が,「宋銭」を使って買い物などができる世の中になればなるほど,『日宋貿易』を進め大量の「宋銭」を持っていた『平清盛』の「お金の力(経済力)」は強くなっていきました。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 今回は,力をつけた『平氏(へいし)』と『源氏(げんじ)』について書いていきます。
 『平氏』や『源氏』は,朝廷(ちょうてい)や貴族(きぞく)の護衛(ごえい)や地方の反乱をしずめる仕事につきます。こうして,「武士」と「天皇」や「貴族』との関係がどんどん近づいていきました。

 「天皇」や「貴族」との結びつきが強くなった『平氏』や『源氏』は,天皇家や貴族同士の政治の実権をめぐる争いに参加していきます。【保元の乱・平治の乱】(社会科の教科書P.46~P.47)
 この争いの結果,勝った『平清盛(たいらの きよもり)』を中心とした『平氏』が,「貴族」である「藤原氏」にかわって政治の実権をにぎっていくことになります。

 『平清盛』は,「藤原氏」にかわって国の政治を中心となって動かしていくために力を手に入れる必要がありました。

 「戦って強い」という「武力」は2つの大きな争いで示せました。

 次に『平清盛』は,「天皇家」との「強い結びつきの力」を手に入れようとします。政治の実権をにぎってきた歴代の「蘇我氏(そがし)」や「藤原氏」が行ってきた,「天皇と自分の娘を結婚させて,生まれた子を天皇にする」ことで,「天皇のおじいちゃん」となり,天皇との結びつきを更に強いものとしました。

 2つの大きな力を手に入れたこことで,政治を動かす中心的な仕事を『平氏』の一族がおこなうようになっていきました。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 NHKの大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』で取り上げられている戦国時代の大名(だいみょう)や武将(ぶしょう)といった武芸を職業とした『武士(ぶし)』といわれる人たちについて数回に分けて書いていきます。

 今回は,『武士』が世の中の表舞台に出てきた時代について書いていきます。
 400年近く続いた平安時代(社会科の教科書P.36~P.40),都(みやこ)で『貴族』が華やかな生活をしていたころ,京都以外の土地では,力を持っていた農民が新しく田畑を開いて自分の領地(りょうち)とし,その領地を他の農民や国の役人から守るために武器を持ったのが『武士』の始まりでした。

 この『武士』たちは,領地争いに負けないために,より多くの『武士』を集めました。こうして,近くの『武士』たちと協力して周囲よりもさらに人数の多い,「大きな集団」を作っていきました。
 より「大きな集団」となった『武士』たちには,自分たちを束ねる,だれもが知っているような有名で頼れるリーダーが必要となりました。

 ここでリーダーとなったのが,社会科の教科書P.45~P49に出てくる,平清盛(たいらの きよもり)や源頼朝(みなもとの よりとも)・源義経(みなもとの よしつね)に代表される平氏(へいし)や源氏(げんじ)といわれる人たちです。
 平氏も源氏も,もともとは天皇の一族だったので,地方の『武士』たちにとっては最高の血筋を持っている「周りにいばることのできる」リーダーだったのです。

 こうして,『武士』たちは,強力なリーダーを迎え,それぞれに『武士団』を作っていきます。この後,有名な戦国時代や江戸時代など700年ほど『武士』が歴史の中心となる世の中が続いていきます。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 今回は794年に都(みやこ)が奈良の平城京(へいじょうきょう)から京都に移されて,約400年もの間続いた平安時代(へいあんじだい)の生活について書いていきます。
 しかし,平安時代と一言に行っても,約400年も続いた時代ですので,平安時代の中でも特に有名な『藤原道長(ふじわらの みちなが)』が活躍した時期の生活について見ていきます。(社会科の教科書P.37~P.40)

 この時代,『藤原道長』のような国の政治を中心となって動かしていた人たちを『貴族(きぞく)』と言いました。『貴族』は,『寝殿造(しんでんづくり)』とよばれる写真の絵の様な大きな屋敷で暮らしていました。(左側の写真)
 こんなに豪華な『寝殿造』の屋敷には,現在の家では当たり前にあるものが,なんとありませんでした。

 ⑴部屋と部屋の間に壁がない(右側の写真)
  ※カーテンのような布で仕切って部屋をつくっていたようです。
 ⑵トイレがない
  ※今でいう「おまる」を使ってトイレをしていたようです。

 しかし,ここで少し不思議なことがあります。平安時代の前,「奈良の大仏」が造られた平城京では,実はトイレがあったようなのです。それも,トイレの後に水で流す,今でいう「水洗トイレ」の形跡も見つかっています。
 では,なぜ「奈良の大仏」ができた頃より時代が進んだ平安時代になって『貴族』の屋敷である『寝殿造』からトイレが無くなってしまったのでしょうか。
 「おまるでする」より「トイレでできる」方が現代の私たちにとって自慢できるポイントなのに,平安時代の『貴族』たちは何を考えてトイレという場所を無くそうとしたのでしょうか。謎は深まるばかりです。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 奈良県の東大寺(とうだいじ)にある大仏を見たことはありますか。鹿がたくさんいる奈良公園内の東大寺というお寺にある巨大な仏像です。
 この大仏の正式な名前は『盧舎那仏坐像(るしゃなぶつ ざぞう)』といいます。高さ約16メートルもの大きさのこの仏像です。
 この巨大な仏像は,今から1300年近くも昔,当時の天皇である聖武天皇(しょうむてんのう)が造ることを決め,行基(ぎょうき)というお坊さんを中心として外国からきたと渡来人(とらいじん)と呼ばれる人々の高い技術力も使い造り上げられました。
 今では工事をする際には当たり前である,車も大きな工事用機材も無い中で,こんな大きさのものを造ったのです。
 
 そして752年に,大仏を完成させるために瞳を描きいれる『大仏開眼会(だいぶつ かいげんえ)』が東大寺で行われました。この時,大仏に瞳を描き入れたのは,大仏づくりを中心となって進めた行基でも,造ることを決めた聖武天皇でもありませんでした。そんな大事な儀式で大仏の瞳を描き入れたのは,なんと日本人ではなくインド出身の菩提僊那(ぼだいせんな)というお坊さんでした。
 
 現在では,飛行機の登場で遠くの国へ旅行する時でも「安心」で「安全」,それでいて「速く」移動することができるようになりました。しかし,奈良の大仏ができた当時の世の中は,飛行機などは無く,船で何日もかけて「危険」と隣り合わせな中で外国へと渡っていました。
 そんな時代に四方を海に囲まれた日本に様々な国の人が来ていたということに驚きを感じ,また,そんな危険な旅をしても日本に来ようと思った当時の外国の人たちの強い思いがあったからこそ,今でも日本各地に残る様々な文化財が生まれたのだと思います。

 ちなみに,『大仏開眼会』で実際に菩提僊那(ぼだいせんな)が使ったといわれている筆が奈良の正倉院(しょうそういん)で今でも大切に保管されています。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 今回は,聖徳太子(しょうとくたいし)【厩戸王(うまやとおう)】の時代から国政の中心となって活躍した蘇我氏(そがし)について書いていきます。
 蘇我氏といえば,社会科の教科書P.26にある『大化の改新』での出来事が特に有名です。

 その当時の日本は,蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)親子が天皇よりも力を持って国の中心となって政治をおこなっていました。
 そんな「蘇我氏中心の政治」を「天皇中心の政治」に戻したいと考えた,中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみの かまたり)は,蘇我氏から暴力を使って権力を奪い返しました。
 この事件以降,蘇我氏の力は衰え,中大兄皇子や中臣鎌足が目指した天皇中心の国づくりが進められていきました。
 しかし,『大化の改新』で政治が大きく変わりましたが,それまで蘇我氏が行ってきた政治の良いところは中大兄皇子たちの政治にも引き継がれていきました。

 ここで気になるのは,蘇我氏の名前です。特に入鹿(いるか)は珍しく感じます。蘇我入鹿の先祖をさかのぼっていくと,稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と特徴的な名前が並びます。
 しかし,『入鹿』に関しては,歴史の表舞台から消された名前が残っています。実は,蘇我入鹿は中大兄皇子たちに殺されてしまうまでは,本名とされる『大郎鞍作(たろうくらづくり)』と呼ばれていたそうです。
 蘇我入鹿の名前が変わってしまったのは,権力争いで負けてしまったからなのか,蘇我氏では歴代珍しい名前を付ける風習があったからなのかは,今現在では知ることは難しいです。

 歴史を学習する時には,語られることの少ない「負けた側」の視点に立って歴史的な出来事を考察することも大切になってきます。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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「お墓」の話題つながりで,弥生時代(やよいじだい)の次の時代である古墳時代(こふんじだい)について書いていきます。
 古墳(こふん)とは,「くに」をつくりあげた王や権力を持っていた豪族(ごうぞく)たちのお墓です。ちなみに,下鳥羽小学校のホームページ内の6年生の部屋の記事は3回連続でお墓の話題です。
 
 さて,古墳といえば,世界文化遺産にも登録された「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」が京都府の隣,大阪府の堺市にあります。ここには大小44基の古墳が集まっています。その中には,写真のカギ穴の様な形の大仙古墳(だいせんこふん)【仁徳天皇陵古墳(にんとくてんのうりょうこふん)】があります。この古墳は,全長486m,高さ35mにもなる日本最大の古墳です。
 しかし,世界文化遺産への登録が決まったことで日本最大の古墳の名称をどうするかで議論になりました。

⑴この古墳に埋葬されている人物が特定されていないこと。
⑵不確かな状態で天皇の名前を付けたまま登録されると,歴史的な誤解を招くのではないかということ。
 
 まだまだ解明されていない部分も多く残されていますが,ただ一つ言えるのはこの大仙古墳【仁徳天皇陵古墳】の大きさは,日本最大にとどまらず世界的に見ても大きいということです。実は,この大仙古墳【仁徳天皇陵古墳】は,エジプトの『クフ王のピラミッド』,中国の『秦の始皇帝陵』と並んで世界三大墳墓の一つに数えられています。

 世界的な大きさではないですが,京都市内のいたるところに多くの天皇陵がありますので,ぜひ一度調べてみてください。

☆6年生 脱線ばかりの歴史の部屋☆

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 本日は少し真面目に歴史の話を書いていこうと思います。
 前回,弥生時代のお墓事情について書いたので,弥生時代つながりで,写真の人物『卑弥呼(ひみこ)』がいたとされる『邪馬台国(やまとのくに/やまたいこく)』について書いていきます。

 実は,邪馬台国の場所については未だに「ここにあった」と断定されてはいません。その大きな要因としては,場所に関する記述が中国の歴史書である『三国志』の中の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にあるもののみだからだと思います。所在地に関しては,今現在,近畿地方にあったとする「畿内派」と九州地方にあったとする「九州派」の2つの論が有力視されています。

 「邪馬台国の場所」については,昔から日本国内で研究され続けてきました。古くは今から200年以上前の江戸時代に生きた新井白石(あらい はくせき)や6年生の社会でも出てくる本居宣長(もとおり のりなが)らも,「魏志倭人伝」を読み,謎につつまれた邪馬台国の場所を探し当てようとしていました。

 この「邪馬台国の場所」論争は,未だ発見されていない卑弥呼の墓の発見や「魏志倭人伝」にある「魏」とのやり取りを残した文章などが出てくることで決着するのではないでしょうか。

☆6年生 脱線だらけの歴史の部屋☆

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 G.W前後には夏日を記録する日が続き,「夏」へと季節の移り変わりを感じます。
 童心を忘れていない担任は暑くなると無性に怖い話が聞きたくなり,「真夜中」「暗闇」「お化け」「幽霊」「墓場」という言葉に敏感になってしまいます。
 さて「墓」といえば,ほのぼのとした雰囲気漂う学校のホームページに衝撃の骸骨の写真(教科書P.16)。実はこの写真の骸骨は,6年生で学習する約3000年から約2300年前の日本にあった縄文時代や弥生時代と言われる大昔のものです。
 よく見ると三角座りの様になっています。自然にこのような形になって墓に入ったのではなく,実は当時の人々が「あえて」この形にして墓に入れたのです。
 このように三角座りの様な形にして墓に入れることを屈葬(くっそう)と言います。
 ちなみにこの骸骨,背骨をポッキリ折られています。では,なぜ当時の人々は屈葬(くっそう)にしたのかというと,
 
 1.お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんみたいな姿にするから生まれ変わって【再生への祈り】
 2.背骨を折って死者(ゾンビ)がそこらへん歩き回るのを防ぐぜ【死者への怖れ】
 などの説があります。
 
 人はいつの時代も「死後の世界」など生きているうちには知る由もないことに対して興味・関心や恐怖を感じるのは同じだからこそ,「転生」や「ゾンビ」など今の時代でもある話との共通点が見られるのは歴史の面白いところです。

自主学習ノートへのまとめ方

今度は自主学習ノートへのまとめ方です。
「どのようにまとめたらいいのかな」と悩んでいる人はぜひ参考にしてください。

【ポイント】
1.日付,時間は必ず書こう。
2.めあて,ふり返りの内容は,赤鉛筆で【   】で囲もう。
3.大事な内容や用語は赤鉛筆や青鉛筆で書いたり,囲んだりすると見やすいよ。
  オリジナルキャラクターを登場させるのもOKですよ。

見本の左側のページは,6年生の新出漢字の練習です。このようにどんどん練習していくことができるので,休校中にしっかりと覚えていってくださいね。
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