最新更新日:2024/09/30 | |
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修学旅行 その20
先生も元気です。
本日のホームページUPはこれにて終了。明日をお楽しみに。 修学旅行 その19
みんな元気です。伊江島の景色に感動。
修学旅行 その18
標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で知られています。
修学旅行 その17
ホームスティ先の方から歓迎されて、各ホームスティのお家に分かれていきました。
修学旅行 その16
伊江村への入村式。
修学旅行 その15
伊江島到着。
修学旅行 その14
フェリーにて。
伊江島 「島中央から少し東にずれたところにある標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で親しまれている。産業は主に農業、漁業から成り立っている。本部港からもフェリーで30分あまりということもあり、「日帰り可能な離島」としての人気も高い。また、戦争に関する施設・史跡もあることから県内外からの修学旅行の需要も多い。 川平、東江前、東江上、西江前、西江上、阿良(あら)、真謝(まじゃ)、西崎の8つの集落からなる。定期便のフェリーが発着する港がある川平周辺が、島の中心部になっている。島の北西部には在日米軍の伊江島補助飛行場があるなど基地の島でもある。一時は島の面積の約半分が米軍基地であったが、島民による基地返還闘争が継続的に行われ、5度にわたり部分的な返還がなされた。」 修学旅行 その13
フェリーに乗船して、いざ伊江島へ。沖縄本島のみなさんいってきます。
修学旅行 その12
本部港到着。
修学旅行 その11
『道の駅かでな』から嘉手納基地を見ると…。
「嘉手納飛行場の面積は1,997ヘクタール(東京国際(羽田)空港の約2倍)で嘉手納町、沖縄市、北谷町の1市2町にまたがっています。 同飛行場は、昭和18年9月旧日本陸軍航空本部が北飛行場(現在の読谷補助飛行場)に引き続き建設を開始し、19年9月には旧日本軍の中飛行場として開設されました。その後、昭和20年4月、沖縄本島に上陸した米軍はただちに同飛行場を占領し、本土攻略のための前進基地として整備拡張を行い、同年6月には大型爆撃機が離発着できる全長2,250mの滑走路を完成させ、B−26やB−29等大型爆撃機の主力基地として使用してきました。 昭和25年6月、朝鮮戦争勃発以降、逐年基地機能が拡大強化され、昭和42年5月頃には4,000m級の2本の滑走路が完成するなど、極東における米軍の最重要基地となっています。 居住地区には、基地司令部、兵舎、通信施設、家族住宅、病院等があるほか、幼稚園、小・中・高校、図書館、野球場、ゴルフ場、映画館、カミサリー(スーパーマーケットのようなもの)、ボーリング場等の教養娯楽施設も完備されているほか、9,000人以上の家族が生活しています。 嘉手納基地と連動する嘉手納弾薬庫地区は、面積が2,884ヘクタールで、嘉手納町、沖縄市、うるま市、読谷村、恩納村の2市1町2村にまたがる広大な森林地域にあります。この地域は、リュウキュウマツなどの群落に加えてリュウキュウケナガネズミ等の貴重な動植物が生息しているほか、本島中頭郡地区において水源が豊富なところで長田川、平山川、与那原川、比謝川があり貴重な水資源涵養林地域となっているところです。 この施設は、復帰の際に嘉手納、波平、知花の各弾薬庫や比謝川サイト等9施設を統合したものであり、空軍、海兵隊、海軍、陸軍の各種兵器の貯蔵庫として、また、極東地域への弾薬類の統合貯蔵補給地区として、きわめて重要な役割を果たしています。 弾薬貯蔵地域は立入りも厳重にチェックされ、特定の場所以外は禁煙とされており、弾薬庫群のほか整備工場、実験室、事務所等があり、弾薬の再生、組立、貯蔵施設管理がおこなわれています。また陸軍貯油施設として嘉手納タンクファームがあります。米軍は昭和20年から27年にかけて、これらの施設間の、嘉手納町、北谷町、那覇市、具志川市にタンクファームを建設し、昭和27年から28年にかけて、これらの施設間のパイプラインを敷設して連結しました。 嘉手納町は第二次大戦前、北谷村(現北谷町)の一行政区でありましたが、米軍嘉手納基地の構築によって村域が分断されたため、昭和23年12月4日人口3,879人をもって分村しました。そのため残されたわずか2.58平方キロメートルの狭あいな地域に13,700人余の町民がひしめきあった生活を余儀なくされており、生活環境をはじめ、都市基盤の整備や産業の振興をすすめる上で大きな制約となっています。」 「〒904-0202 沖縄県嘉手納町字屋良1026番地3 学習展示室」より |
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