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最新更新日:2024/07/19 |
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修学旅行 13
3箇所のガマを出て『美ら海水族館』に向かっています。
![]() 修学旅行 12
『轟豪ガマ』『クラシンジョウガマ』『ヌヌチマガマ』3箇所のガマに分かれて見学しました。
![]() ![]() ![]() 修学旅行 11![]() ![]() このガマは沖縄戦当時、第32軍の第24師団(通称山部隊)第一野戦病院の分院の一つであった。地名の新城(あらぐすく)から「新城分院」と呼ばれていたが、現在は地元の呼称で「ヌヌマチガマ」と称している。 ガマの全長は500メートルもあり、ヌヌマチガマが西側出入口で、東側出入口はガラビガマである。<ガマ>は沖縄の言葉で自然洞窟のことである。 沖縄県立第二高等女学高の4年生56人が、第32軍司令部の要請を受けて、1945年3月6日から第24師団3486部隊の内務班生活で看護学を受講中、同月23日から沖縄本島南部の艦砲射撃が始まり、看護学習は18日間で打ち切られた。翌24日から第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕、手術場壕、新城分院、東風平分院でそれぞれ補助看護婦として傷病兵の看護に当たった。 4月下旬に5人の学徒がこのガマに派遣され、軍医・衛生兵・看護婦・地元の女子青年・朝鮮出身女性の方々と共に、1000人を越す傷病兵がひしめくガマの中で昼夜を徹して過酷な任務に就いた。学生のたちの役目は、主に、負傷兵の緊急手当や手術・包帯交換時の明かり(ろうそく)持ち、傷病兵の排泄物の始末・切断された手足の処理などであった。日を追って負傷兵の搬入が増え続け、ガラビガマ側にも病室が広がっていった。 4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は、5月末頃に首里まで侵攻。6月3日にこの分院は閉鎖された。分院撤退時に、身動きできない重傷兵約500人に毒薬の青酸カリが投与され、飲み込めない兵や薬が効かず苦しんでいる兵は、注射や銃・剣で止めを刺された。修羅場に立ち合わされた学生たちは生涯消えないトラウマを負った。 6月4日には第24師団第一野戦病院は解散となった。最後まで勤務した46人の学生たちは、鉄の暴風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれて22人が戦没した。 僅か10代半ばの年齢でかけがえのない人生を絶たれた彼女達たちの無念と悲運を、このガマで起こった味方による重傷兵毒殺の惨事と併せて、ここに、沖縄戦の事実として後世に伝え遺す。 以上は、白梅学徒たちの証言と体験記によってまとめた記録である。 二高女の学徒隊は、校章の白梅のマークから、戦後は「白梅学徒隊」と呼ばれている 2012年6月23日 沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会 修学旅行 10
『ガマ』に入ります。
『ガマ』 沖縄本島には約2000の石灰岩で形成された鍾乳洞があり、それらは沖縄方言で「ガマ」と呼ばれる。太平洋戦争の末期に起こった沖縄戦では、住民や日本兵の避難場所として、また野戦病院として利用された。現在ひめゆりの塔が建っている沖縄陸軍病院第三外科壕跡も、そうしたガマのうちの一つである。(ウィキペデアより) ![]() ![]() ![]() 修学旅行 9
千羽鶴に込めた生徒たちの平和への願が世界に届くことを祈っています。
『千羽鶴』 広島市への原子爆弾投下で被爆し、原爆症で死亡した佐々木禎子が自らの延命を祈って作ったことから、平和のシンボルにもなっている。世界中から送られてくる千羽鶴が広島平和記念公園にある原爆の子の像の周りに手向けられている。(ウィキペディアより) ![]() ![]() ![]() 修学旅行 8
平和記念公園で平和セレモニーを開催しました。
![]() ![]() ![]() 修学旅行 7
那覇の天気晴れ、最高気温24度、視界良好。
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沖縄!那覇空港到着。『めんそーれ沖縄』
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飛行機は9時15分離陸します。
![]() ![]() 修学旅行 4
伊丹空港なので飛行機があります(当然)。
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