元い
- 公開日
- 2013/06/11
- 更新日
- 2013/06/11
校長室から
昨日,1年生を対象とした「非行防止教室」が行われた。ちょうど出張と重なり,どのような話があったのかが分からないが,メールのことも話されたということで,ちょっと思うことを書いてみる。
最近,メールのやり取りでいろいろな問題が派生している。先生方も外に出す文章については,先生同士で,また教頭が見るなどして出している。文章などというものは,自分がよいという思いで書いているから,なかなか文章修練をすることは難しいが,一番の修連は,やはり,その道の人に見ていただくということだ。自分がよいという思い込み,それが文章修練を妨げる大きな壁である。
このことは,メールでの文章も同じことだと思う。他人の目をフィルターとして,外へ出すことの妥当性をチャックしてもらうことは大事なことだ。何でもかんでも全てを外に出すものではない。それは,何事にも節度というものがあるからだ。
思ったことを書くということは素晴らしいことだ。それは日記など自分のためにという限定がつく。自分が対象なら,その文章もまた変化していく。あの時はそう思ったが,違う経験をして,次は違った考えになったということもありである。しかし,それを他人に公開するということは,そのことがまずはそこで完結されてしまうということを知らねばならない。元いはできないのである。ゆえに節度ということが必要になってくるのである。
節度ということを文章に置きかえると,整理をしていない文章とでもいえるだろう。通常文章には読まれるべき相手がいる。つまり,文章を書くということは相手意識そのものである。その相手を思い出しながら,気にかけながら文章を書き進めるゆえに,ああでもない,こうでもないと思いながら,悩みながら書くのである。そこには言葉の重みが存在するように思う。
ところが,鉛筆も持たず,消しゴムもなく,ぱたぱたとキーを打ち込み,一瞬にデリートキーで簡単に削除され,漢字がどうだったかとかという悩みもなく,どんどん出来上っていく。もはやただただ指先の思うがままにまかせていくだけしかない。すると,粗悪な,得も言われぬ文章が連なっていくだけなのである。
新しい時代の人権問題として考えなければならない情報の世界だが,人と人との直接の関わりのあるアナログを経験してのデジタルでない限り,一つのメールでコミュニケーションが取れていると勘違いする子どもがいてもしょうがないように思う。鉛筆をなめなめということはないかもしれないが,思いを巡らしながらの文章と指先から生れ出るメールで届く文章,しかも速攻に返信されなければ,内容以上に新たな課題を生むメールについて,ちょっと立ち止まって考えてみる必要はないだろうか。