グローバル
- 公開日
- 2013/06/06
- 更新日
- 2013/06/06
校長室から
今日は朝から教頭が全市教頭会総会のために不在である。朝早くから夜遅くまで学校運営のために学校を支えてもらっている。不在となるとその存在の大きさに,思いを新たにさせられた。
さて,昨日,大宅スタンダードではなく,京都,日本,世界をスタンダードにという話をした。そして,その前日の靴を揃える話もそんな話だった。世界を視野にということは,グローバル化という中では当然で,その視点が広がりこそすれ,狭まることは考えられない。そんな中で,語学力,とりわけ英語力という問題が,グローバル化の中では,大きく台頭してくる。小学校の英語科などの話も,その視点に立った話であろう。
ところで,今求められる力として,言語力が挙げられている。論理的に考え,話せる力の育成,つまり,言葉で相手に説明し切る力である。これは日本人に課せられた問題でもある。学校教育でも力を入れなければならない。私など,あうんの呼吸などと呼ばれるような,また,相手をおもんぱかるような,今までの日本人が大切してきた心中を察することが大切だと思うのだが,これなど外国では通じないことが多いだろう。おそらく,論理的に説明できる力がグローバル化では大切になってくる。とするならば,一体今の教育はどうすればいいのかという問題になってくる。
海外にホームスティなどをしている学生の問題として,英語力はあるが,相手と会話ができる文化的素養に欠けるとよく言われる。つまり,技術としての英語力だけであって,日本の文化というか,日本そのものを知らないがために,自国の説明もできないことが問題なのだということである。とするならば,グローバル化ということは,英語力とともに,自分たちの生まれ育った大宅,山科のこと,京都のこと,日本のこともしっかりと学習しなければならないということでもある。と同時に,もう一つ大切なことは,多文化共生というものの見方である。世界にはさまざまな生き方が共に存在する社会,つまり,異質への寛容さが試されるということである。これもいつも言っている,みんな違っていい,みんな違って当たり前というものの見方である。
この話は,単に世界に出るとか出ないとかという話ではない。このような世の中に,君たちは存在しているのであり,世界的な視点を持って,生きていかなければならないということなのだ。善し悪しの問題でもないし,好き嫌いの問題でもない。
ところで,私の言語研究の恩師である堀井令以知(関西外大名誉教授)先生は,この3月に亡くなられ,ご遺族の方から『言語文化の深層をたずねて』(ミネルヴァ書房)という本をいただいた。その中に,次のような一節がある。「言語学者にとって世界の諸言語を出来るだけ多く知って,グローバルな視点から人間言語の本質を探究することはいかにも大切なことである」ということで,西ヨーロッパ語の言語生活の研究をされながら,京ことばを本格的に研究なされた。京都という地域の言葉であるが,世界的視野に立った視点から,研究されたのである。