学校日記

知ること

公開日
2013/05/24
更新日
2013/05/24

校長室から

 昨日,山科区の平成25年度憲法月間「人権啓発リーダー研修会」が区役所で行われ,参加させていただいた。「障害者の人権」というテーマで,公益社団法人京都府視覚障害者協会副会長の松永信也氏の講演であった。松永さんとは3年前,学校指導課の人権講座で講演していただいたこともあり,2度目であった。
 人権講座では,本音で話されるゆえに,大変その思いが伝わり,わかりやすく,納得できた思いがあったが,今回も何をなすべきかをはっきりと話されるので,なるほどという思いで,改めて考えさせられた。
 松永さんは,網膜色素変性症のために,40歳を前に全盲になられたということで,我々が今,そのような状況になればという思いを的確に代弁していただいたようにも思えた。例えば,本当に正直で,障害を乗り越えてといったようなかっこいい自分ではなく,ウジウジとした自分であったと話されていた。ふさぎ込む自分ではあるが,そこは人間,あきらめも出て,それを受け止めると,自然と力も湧いてきて,もう一度外を歩いてみたいと考えたとき,今までの自分が吹っ飛んだという,人間のもつ素晴らしさといっていいような思いに変化したとも言っておられた。
 ただ,年を取る,怪我をする,病気になるといった誰しも起こることの中で,たまたま視覚障害に見舞われるだけのことで,だれでも起こりうることとして,捉えていくことの重要性を訴えられた。でも,自分は,まだ視覚障害者になる前に,白い杖を持った人に積極的な声かけも出ていなかったことに対して,知る機会がなかったということを話されていた。ということは,やはり学校教育の重要性を訴えられたのだと思う。
 さて,こうした人権問題などを考えるとき,最も大切なことは,事実を知るということであり,無関心でいるということが大変な問題なのだということだ。古代ギリシャの哲学者,ソクラテスは「無知の知」,「『真の知(真の理解)』というのは,自分の『無知』を自覚することから始まる」と言った。「知っているつもり」「分かっているつもり」という中途半端な思いが,「知ること」「「理解すること」をどれだけ妨げているかということである。
 「知っているつもり」「分かっているつもり」からは,本当に知ろう,分かりたいという意識は生まれずに,知るための,分かるための行動に至らないのである。「無知の知」を自覚することは,ある意味,自己否定であり,なかなか受け入れ難いことではあるが,そのことを知ることが人として向上という点で大切なことのように思える。
 ところで,これは友人関係に当てはまらないだろうか。例えば,友だちを見るとき,○○君は〜なやつだ,と今までの染み付いた思いで見ていないだろうか。改めて,今一度真っ白にして,見てみれば,新しい○○君が見えてくるはずだ。常に友だちのいろいろなことを知る努力を,分かったつもりでなく,見て欲しい。きっと新たな友だちとなるはずだ。