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最新更新日:2025/08/01 |
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進路保護者会がありました。
定期考査の初日になる10月6日木曜日、お昼過ぎから、進路についての保護者会がありました。なかなかお出ましいただきにくい時間帯にもかかわらず、1・2年生や校下の小学校の保護者の方も含め、60人ほどの保護者の方々に来校していただきました。内容としては、近年、どんどん変化している公立高校の入学者選抜制度について具体的な中身を知っていただくというものでした。なかなか複雑な制度ですが、こうした機会を活用していただき、子どもたちが安心して進路選択をし、そこに向かって進んでいけるよう、学校も保護者も力を合わせたいものです。お世話いただいたPTAや地生連の方々、ありがとうございました。
![]() ![]() ![]() 形式美![]() ところで,わたしの専門は国語である。この広がりということを考えた時,原稿用紙の余白を思い出した。段落を変えるとき,いくマスかの空白ができる。これは文章自体の読みやすさとともに,1枚の原稿用紙を見たとき,どれだけの空白がバランスよく配置されているかが大切だと思う。わたし自身,どんな空白をつくろうかとイメージしながら原稿用紙を眺める。段落は変えればよいというものではない。この空白を調整しながら文章を考えなければならないと思う。そこで,文章というものが練れるのである。そのことで文章自体が磨かれていくのである。わたしは自分自身,原稿用紙の空白美と呼んでいるが,1枚の稿用紙全体を美しく見せようとすることは,読ませる人にも視線から読ませたいと思わせる形式美である。もちろんその形式美には,字の丁寧さも含まれる。がさがさと書いた字ではいけない。下手な字でもかまわない,丁寧に書いた字が大切なのである。わたし自身,見てくれの悪い原稿用紙を見ると,読みたいとは思わない。1枚目も読みたいと思わない原稿を,2枚目,3枚目と読み進められるだろうか。どれだけいいことが書いてあっても,読みたいと思う美を備えてなければならない。内容さえと良ければと思う人もあるかと思うが,その空白美を追求すれば,そこに入る言葉はもっと磨かれることは確実である。 このことは,何も原稿用紙の形式美だけではない。例えば,挨拶もろくにできないのに,その人にそれ相応の評価を与えるだろうか。形式美といえども,大切な美意識であると思う。 面授![]() 面授のもっとわかりやすい例は,赤ん坊の育ちである。赤ん坊はロボットによって育てられるかということだ。育てられるかもしれないが,人としては,育てられないだろう。なぜなら,赤ん坊は,母親の肌に触れ,やすらぎを覚え,母親の表情や発する言葉,身振り,手振りからいろいろな情報を得ながら人として育っていくのである。 義務教育も同様だと思う。先生と生徒が向かい合いながら,また,生徒同士がいろいろな状況を把握しながら,学び合っていくのだ。教科書の中身をそのまま伝えることは,機械でも伝えられるが,中身のある人間としての在り方など,生きたものは,人と人とが通じ合っていなければ難しいだろう。つまり,それが「面授」というものなのだ。しかし,そこには,前提がいる。それは,先生と生徒たちが,生徒たち同士が,先生同士が信頼し合うということだ。その結果が楽しいクラスであるという実感であり,楽しい職員室であるという実感をお互いが持てているかということだ。 明日から定期考査3が始まる。この結果は,生徒個々の成績だけを見るものではない。「面授」という先生と生徒,生徒同士の,先生同士のお互いの人間同士が向かい合いながら,真剣に物事を伝え合ってきたか,考え合ってきたかの結果を見るという視点もあるように思う。 背景![]() 教育基本法改正により,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国の郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与することという部分にも一致する。 わたしたちは地元京都に住んでいる。しかし,どれだけ祇園祭のことを知っているだろうか。生徒たちは,17日の山鉾巡行前後だけのように思っているが,実は,7月1日の切符入から31日の夏越祓までの1か月間行われる。鱧祭,屏風祭とも呼ばれ,くじ取らず,神輿洗い,あばれ観音,辻回し,後祭等々いろいろなことが思い浮かぶ。 こんなこともある。鉾町では,祇園祭が始まると,「ギオンマツリドスナー」という挨拶が交わされる。それに対して,鉾町以外の人は「ソウドスナー」と応えるが,鉾町の人は「アツオスナー」と応える。「祇園祭ですね」と言われて「そうですね」というのは,当然の返答である。「暑いですね」では話がかみ合わない。しかし,祇園祭は疫病退散の神事であり,暑くなければならない。鉾町の人々の暑くなって欲しいとの願いであるのかもしれない。そして,何より大事なのは,この返答により,鉾町の仲間か,そうでないかを見分けるのである。それによって,これからの話の内容が変わるのである。仲間かどうかを知って,話題を変えるということは,ある意味,文化である。そして,巡行を見るところはズバリどこかと尋ねられれば,即座に山鉾が帰る最後の新町通か室町通であると言い切る。狭い通りぎりぎりに,一文字瓦の街並みを進む姿こそが圧巻である。京都ならではの文化である。いろいろなものには背景があり,それをひっくるめての登録でなければ意味がない。ニューヨークのウォールストリートに山鉾巡行は似合うだろうか。奇抜さも一度はいいかもしれないが。 わたしたち一人一人は,独立した人間である。しかし,その背景には,家族や親せき,友だちや地域の人々,それに教職員やボランティアの方々,いろんな人があって自分があるということを常に忘れずにいて欲しい。 着実に![]() 新井白石の逸話に「一粒の米」がある。幼少の頃,父が白石に戒めのために示した話である。米びつ(お米を入れておく箱)から,1日一粒ずつの米を抜き取っても減ったとは分からないし,また,一粒入れたとしても増えたかどうかは分からない。しかし,1年,2年と続けていくと,その増減が分かってくる。学問も同じで,一日勉強したからといって,利口になるものでもないし,一日怠けてからといって,愚かになるものでもない。しかし,1年,2年と続いていけば,必ず変わってくるという話である。 勤勉という言葉に対して,努力という言葉に対して,最近は,それらを尊ぶ風潮がどこかに置き忘れられたかのようになってきているが,数日前にも書いた長嶋選手や王選手の陰の努力のように,日々こつこつとすすめることの大切さを体で体得して欲しい。「千里の道も一歩から」を実感する時がきた。 あとの半年,ちょっとの時間を大切に自分の取り組める簡単な取組を行って欲しい。例えば,家に帰る時刻を6時とする。お母さんが夕食の支度まで,まだ30分あるとしよう。手洗い,うがいをして,服を着かえて15分,あと10分間くらいで,英語の単語を5つ覚える,漢字を5つ覚えるというものでよい。ノートに昨晩のうちに明日覚える単語や漢字を5つ書いておく。それを毎日,毎日繰り返す。それもノートでないとダメである。量が分かるようにしなければならないから。きっと半年後,よくやったなと,自分で感心するだろう。そんな経験を中学校の間に持ってもらいたい。小さなことの積み重ねの大きさを実感として味わって欲しい。 |
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