最新更新日:2024/09/27 | |
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FOUNTAIN(校長室だより)No.11
京都市立桂坂小学校 山本 泉
親にとってみればいうまでもありませんが,学校にとっても「いじめ」の問題は大変深刻な課題です。 児童・生徒の「いじめ」によるとみられる自殺がなかなか後を絶ちません。本当に痛ましいことです。「いじめ」というのは結構身近にありながら,なかなか伝わってきません。なぜなら,「いじめ」に加担している者も,それが悪いことだと分かっているので,そのことを悟られないよう隠そうとするからです。また,いじめられている子もさらに状況が悪化することを恐れて,なかなか第三者に言おうとしないことが多いそうです。 そういったことから学校が見落としている「いじめ」もきっとあると思います。学校側が「いじめ」に加担したり「いじめ」を拡大させたりするようなことや,「いじめ」の存在を知っていて放置するなどということは言語道断ですが,指導していてもなかなか無くならないというのも正直なところではないかと思います。子どもも自分がいじめられないために「いじめ」に加担したりすることもあるようで,複雑な人間関係に悩んでいる子も少なくないと聞きます。子ども達にとって,自分と同じ立場であり,何でも相談できる仲間同士であるはずが,自分に牙をむく同級生達。いじめられている子にとっては,自分の生きる場所がないような思いに駆られるのも無理はありません。 学校ももちろん「いじめゼロ」に向けて全力を尽くしますが,やはり助けになるのは何といっても親であり家族だと思います。自分のことを受け止めて親身になってくれる,自分の居場所がある,存在価値を認めてもらえる,そんな家族の存在です。私も親の一人として,子どもが安心して話せるような,何でも相談できるような,そんな家族関係を持ち続けていたいと思っています。もちろん学校があてにならないわけではありません。相談していただければ必ず全力で動きます。 しかし,それでもいつ我が子が被害者に…?親として多くの不安がおしよせてきます。また,被害者にならないためにも,加害者をつくらないことを考えなくてはなりません。 親の立場で言わせていただくなら,私たちはまず,外でつらいことがあっても,ここに帰ってくればホッとできる,そんな家庭であり家族であり続けたいものです。 さて,「いじめ」に関わることだけではなく,「子育て」については多くのことを考えなければなりません。 「子育て」について考えることはいろいろあっても,なかなか思うようにはいかず,実際の「親の関わり方」は難しいものです。客観的には,「親としてこうあるべきだ。」と思っていても,我が子への関わり方では「そうはしていない。」こともあるのではないでしょうか? −親の関わり方の法則−(思春期の入り口の子ども達) ・自発性の法則 親の手助けの回数と,子どもの自発性は反比例する。 ・失敗は成功の母の法則 失敗するチャンスがなければ成功もありえない。 ・マイナスの法則 あらゆるものが与えられて欲しいものがないのは, 欲しいものに飢えている状態より悪い。 ・非行化の法則 子どもが非行化する原因を,親は,子どもの友達に求める。 子ども本人が「友達」そのものであるという認識はめったになされない。 ・原因追究に関する考察 平均的な親は,子どもの問題の原因が学校にあると考える。 平均的な先生は,子どもの問題の原因が親にあると考える。 知的であると自認する人は,子どもの問題の原因が社会にあると考える。 …だれも,子どもの問題の原因が自分にあると考えない。 上記は,以前ある研修会で使われた資料の引用です。保護者の皆様はどんな感想をもたれるでしょうか。 〜少年老い易く学成り難し,一寸の光陰軽んずべからず。〜 月日は,あっという間にながれていきます。みんなでしっかり子ども達を育てていきたいと思います。どうぞ,よろしくお願いいたします。 FOUNTAIN(校長室だより)No.10
京都市立桂坂小学校 山本 泉
明けましておめでとうございます。 今年も,桂坂小学校の子ども達のために,教職員が一丸となって取り組んでいく所存です。 保護者の皆様,地域の皆様には温かいご支援を賜りますようお願いいたします。 さて前回の[FOUNTAIN]で描き始めました「子育てと体育」についての続きです。子どもの運動能力の向上について話を進めましょう。 昔から「努力に勝る天才なし。」などとよく言われます。一生懸命努力すれば,やがて天賦の才能を持った人をも凌駕するという意味ですが,これが口で言うほど容易ではありません。前回の「校長室だより」で,努力を積み重ねて,できなかったことができるようになることも「学習」の一つであり,このことは運動能力についても同じであると述べました。 ところが,この「努力」という言葉は「苦しい・辛い・しんどい」というイメージがあり,そのことが私たちの敬遠する最も大きな理由になります。しかし,本来「体育」というものはむしろ「苦しい」ではなく「楽しい」イメージのものでなくてはなりません。言い換えれば,この「楽しい」営みを通じてこそ子どもの身体能力を高めることができるということです。 それでは,具体的に何をすればよいのでしょうか?答えは簡単です。まずは遊ぶことです。子どもにとって勉強より何より,体を動かして遊ぶことが大切なのです。私たちが子どもの頃を思い出してみてください。毎日,学校から帰ったら,カバンを放ったらかして遊びに行きませんでしたか? 遊びを通して思いっきり体を動かし,頭を使って遊びが楽しくなる工夫をする。この繰り返しで,子どもは頭も体も成長していくものです。え!あなたは子どもの頃から,家に帰ってもずっと勉強ばかりしていたんですか?… だから,そんなふうになってしまったんです。(失礼) 冗談はさておき,発達年齢に応じた遊びこそ,運動能力の向上につながるものです。また,遊びもスポーツもすべて競争が基本です。この競争を直視することは,子どもの時代にも必要なものです。何故なら,競争に勝つことが「努力する」ためのモチベーションを高めることのひとつには違いないからです。 ただし,教科としての「体育」では,「他の子より足が遅い」とか「友達は泳げるのにウチの子は」などと,他人と比較するような競争は基本的にはしません。1ヶ月前,半年前,1年前と比較して,つまり「自分と競争」して「速くなった」「泳げるようになった」「できるようになった」というように,子ども自身の運動能力の改善を自覚すること,そしてそのことを周りの人間が高く評価することこそが大切なこととされています。 さて,遊びも,昔と今とでは随分変わってきました。コンピューターゲームなどに興じ,外へ出て体を動かす遊びをすることが少なくなってきています。(コンピューターゲームも頭を使うものですから,全面的に否定するものではありませんが…。)環境の変化により,子ども達の遊ぶ場所がなくなってきているのも事実でしょう。 従って,子どもの運動能力を高めるために,月謝を払っても体育の家庭教師を付けるということも,決して間違ったことではないと思います。しかし,できることなら,まずは親が子どもと一緒に遊ぶことを通して,子どもの運動能力を引き出してやることが望ましいと思います。(自分はできていなかったと反省していますが…。) 当然,子ども同士がやるような遊びを,親子でやろうということではありません。目的は,子どもの運動能力を高めることですから,遊びの内容も自ずとスポーツに関連したことになります。○○歳の子だとどんなスポーツ関連の遊びがいいのか?などと難しく考える必要はありません。遊びの感覚でスポーツを楽しむこと,スポーツ感覚で遊びを楽しむことが,運動能力を高めることになるのですから…。 何よりも,親子でやってみて一緒に楽しめることが大事です。そんな遊びを,そんなスポーツを探してみてはいかがでしょうか。楽しいから続けられるし,続けていれば上手くなる,上手くなってうれしければ苦しい練習すら苦にならない。遊びで始めたことがいつのまにかスポーツにつながっていた…。こうした好循環をつくることです。親が子どもと一緒に遊ぶ感覚で体を動かし,運動として,スポーツとして自分自身が楽しむ。その姿を「言葉ではなく自らの姿勢で子どもに伝える」ことが子どもの運動能力の向上につながっていくと思います。 人権啓発懇談会のごあいさつ
先週の12月7日(火)8日(水)授業参観及び懇談会ご苦労様でした。参観は全クラスで延べ500名以上の参加でした。お忙しいところご苦労様でした。懇談会は,残念ながら寂しい人数でしたが,少人数ながら保護者のおもいをお聞きすることができて有意義な時間が持つことができました。懇談会に参加されなかった保護者の方にも学校の取組を知っていただくために,懇談会での学校長のあいさつを,ここに掲載いたします。
皆さんこんにちは。校長の山本です。本日は,年末のお忙しい中,授業参観並びに懇談会へのご参加,大変ありがとうございます。 今回は,例年行っていますように,12月が人権月間であることにちなんで,人権教育に関わる授業参観並びに懇談会を設定いたしました。 人権問題の解決を,子どもたちの将来にとって重要な課題ととらえ,学校における人権教育の取組をより確かなものにするために,保護者の皆様に授業をご参観いただき,一緒に考えていただくことをねらいとしています。 さて,1948年に国連総会において世界人権宣言が採択され,その後今日にいたるまで,人権保障のための国際的努力が重ねられてきました。そして,「人権の世紀」と呼ばれる現在,このような努力をめぐる国境を越えた連携がますます重要になってきています。わが国も「児童の権利に関する条約」をはじめ人権関連の諸条約を締結し,人権に関する様々な施策を講じてきました。 また,教育の場においても,教育基本法に基づき,人権教育に関わる取組が進められてきました。そして,このような人権尊重社会の実現を目指す施策や教育の推進は,確かに一定の成果をあげてきました。 しかしながら,「人権教育・啓発に関する基本計画」でも指摘されているように,生命・身体の安全に関わる事象や不当な差別など,今日においても様々な人権問題が生じています。特に,次の世代を担う子ども達に関しては,各種の調査結果に示されているように,いじめや暴力そして虐待など人権に関わる問題が後を絶たない現状にあります。 基本計画の中では,さまざまな人権問題が生じている背景として,一つには人々に中に見られる,人間一人ひとりの個性を無視して同じことを強要する傾向や,古い慣習によるいわれなき差別意識などが要因であるといわれています。 また,一つには,社会の急激な変化などと共に,人権尊重の理念についての正しい理解や,これを実践する態度が未だ国民の中に十分に定着していないことも,人権問題が生じている要因の一つとして挙げています。このため,基本計画の中では「すべての人々の人権が尊重され,一人一人が大切にされる,平和で豊かな社会を実現するためには,国民一人一人の人権意識の向上が大切であり,そのために行われる人権教育・啓発の重要性については,これをどんなに強調してもし過ぎることはない。」として人権教育の重要性をうたっています。そして学校教育においては,決して知識・理解にとどまることなく,人権感覚を十分に身につけるよう人権教育を推進することが求められてきました。 このことを受けて,桂坂小学校では人権教育に関わる分野についての指導を,年間を通じて計画的に推進するように位置づけ,それぞれの内容について重点的に指導を行っています。 本日の授業では,やまゆり学級は生活指導を,1年生では健康教育,2年生では男女平等教育,3年生は外国人教育,4年生はエイズ教育,5年生は環境問題に関わる指導,そして6年生は同和問題に関わる指導ということで,指導事例をご参観いただきました。 取組のほんの一端に過ぎませんが,本日の授業について,あるいは,それぞれの学級や学年の日常生活における人権にかかわる問題等々,忌憚のないご意見がいただければと存じます。 FOUNTAIN(校長室だより)No.9
京都市立桂坂小学校 山本 泉
西京西支部大文字駅伝予選会が終わりました。お陰さまで,本校は昨年に引き続いて支部内ダントツで予選を通過しました。子どもたちの日ごろの頑張りの成果だと思います。すでに子どもたちは本大会に向けて,より一層力の入った練習を始めているところです。 ところで,近年は陸上競技のみならず,いろいろなスポーツの練習を早くから始めるところが増えています。 以前に,テレビのニューストピックで家庭教師のことを伝えていたのを思い出しました。それも一般の教科学習ではなく,体育の家庭教師の話でした。最近,月に3〜5万円も月謝を払って,体育の家庭教師を子どもに付けている家庭が増えているということでした。 言われてみれば,確かに「体育」は子育てにおける一つの大事な要素です。しかし,昔は一般的にさほど重視されていないように思えるものでした。そこで今回は,子育てにおける「体育」の意義を考えながら,私自身の子育ての反省も交えて,子どもの運動能力の向上をテーマに「体育」について述べてみたいと思います。 人間には,あらゆる能力において個人差があります。このことは人生において,誰もが何度も感じることです。そして,ほとんどの人が,自分にできないことができる人を「うらやましい」と思い,その中で多くの人(一部の人?)は,努力して自分もできるようになろうとします。そして,努力を積み重ね,できなかったことが少しずつできるようになります。こういったことも「学習」の一つです。 言うまでもなく,このことは運動能力にも当てはまります。野球が上手くなりたいから野球の練習をする。サッカーが上手くなりたいからサッカーの練習をする。陸上競技,バレーボール,テニス,…etc 誰でも考えることです。ところが,同じことをしても他の人と違い,すぐにできるようになる人がいます。そういう人をよく「運動神経がいい」などといいますが,正しくは「運動能力または身体能力が高い」というべきでしょう。多くの人は,これを生まれつきの能力と思っているようですが,必ずしも先天的なものだけではなく,むしろ後天的な要素が大きいといわれます。適切な時期に必要な能力を養っておくことが大切だというのです。「少しくらい運動ができたって,大人になれば何の役にもたたないよ。」などという声も聞かれますが,健康面・安全面からも運動はよくできるに越したことはないでしょう。 さて,子どもには,成長期だからこそ育むべき身体能力があります。それは,上手・下手,器用・不器用などという言葉で表わされる「巧みさ」です。巧みさは,脳・神経系の発達が著しい成長期に働きかけを行うと大きく伸びるといわれます。走る・跳ぶ・投げる・蹴る・転がる,といった「動きの巧みさ」を養っておけば,いろいろなスポーツにつなげることができます。 私事ですが,我が家には3人の息子がいます。(もう大人ですが…)3人とも運動が嫌いではないし,運動全般的には苦手ではないようです。ところが,3人そろって球技はあまり得意な方ではないと言います。これが,どうやら親である私の責任なようなのです。 私が子どもの頃は,小学校低学年くらいから毎日のように草野球をして遊んでいました。草野球といってもいつもそんなに人数がそろうわけではありませんし,広い場所があるわけでもないので,キャッチボールに毛が生えた程度でしたが,それでも今から思えば随分ボール感覚が養われたような気がします。お陰で,どんな球技も苦手だとは思いませんでした。 しかし,我が子らにはそういった環境がありませんでした。ならば,せめて休日にキャッチボールの相手ぐらいしてやればよかったと,今更ながら思います。つまり,適切な時期に必要な能力を身につけてやれなかった。そのために球技が苦手になってしまったということです。昔から,知育・徳育・体育というのが,子どもが育むべき三大要素といわれます。単に「運動が苦手な子もいて当たり前。」という一言で片付けられるほど,「体育」は軽視されるべきものではないと思います。(次号に続く) FOUNTAIN(校長室だより)No.8
京都市立桂坂小学校 山本 泉
前回は,「しかる教育とほめる教育」についてのお話で「しかる教育」について書きました。 今回は,「ほめる教育」について考えてみたいと思います。前回,「しかる」ということは「子どもをより良い方向に導く方法・手段」と述べましたが,「ほめる」ということも,やはり同じでなくてはなりません。それでは,どんな風に「ほめる」ことを「ほめる教育」と言うのでしょうか。 【ほめる教育】 [なし遂げた結果以上に努力しようとした意欲をほめる] 子どもが努力して良い結果が出た場合,親だったら大抵ほめると思います。しかし,良い結果が出なかった場合はどうでしょうか。まさか冷たく「残念」の一言でその努力を切り捨ててしまうことはないでしょうが,優しく慰めるにしても,なかなかうまく声かけがしにくいものではないでしょうか。 でも,そういう風に場合によって変えようとすることではなく,結果如何にかかわらず,やろうとした意欲をほめることが大切だということです。 [子どものいいところを見つけ出すよう心がける] ほめて育てるためには,常に子どもの「いいところ」を見つける努力が必要です。いいところが無い?そんなことは絶対ありません。いいところばっかり?それもちょっと危ないですが…。 例えば子どもが悪いこと(間違ったこと)をした場合,普通は「しかる」言葉を使ってしまいます。しかし「ほめる教育」ではそんな時でも決して「しかる」言葉を使わないといいます。一連の子どもの行為の中で,よかった所を沢山見つけ出してほめてやるのです。そして最後に「良くなかった所はどこだった?」と尋ね,自分の口から悪かったところを言わせるようにすると,子どもが今度からしないようにしようと心に刻むことができるそうです。 [うわべだけでなく,心からほめる] 親が子どもをほめる時,自分の価値観に照らし合わせて,その規準を満たした場合について高く評価してほめるということが普通だと思いますが,多くの場合その価値観が子どもとの間でズレがあり,子どもがほめてほしいと思っている絶好のタイミングをはずしてしまうことがあるようです。ですから,いつも(忙しい時でも)子どもに対してアンテナを向けておくことや,自分の価値観を超えてほめることも大切なことだといわれます。 しかし,自分の価値観に合わないことをほめるときには注意が必要です。うわべだけでほめると,子どもは必ず察知します。ほめるときには,どんな場合でも本気でほめないと教育効果がマイナスになることもあるということです。 [言葉でほめるだけでは足りないときもある] 大人でも子どもでもほめられるとうれしいものです。そして,またほめられるよう努力しようという意欲も湧いてきます。しかし,子どもの場合それだけでは足りないこともあります。親が子どものしたことを「すばらしい」と思っていることがすでに子どもに伝わっているときなどは,今さら言葉に出してその思いを台無しにするよりも,抱きしめたり頭をなでたり(子どもの年齢にもよりますが),場合によっては黙って肩をポンと叩いたりするだけの方が感動が大きく伝わることもあるということです。 さて,「ほめる教育」というものはこれだけではありませんが,少しは共感していただけることがあったでしょうか?「親のほめ言葉は子どもの心の栄養」などといいます。何にしても一番大事なことは親が子どものことを本当に誇りに思っていることだと思います。 人間は,その人が何を持っているかで価値が決まるわけではありません。その人が,その人であるというありのままの状態で認められ,愛されることがその人の価値であるということです。親に愛され,自分の存在に誇りを持つことにより自分自身を愛し大切にする。そして,自分を愛し大切にできるからこそ,人をも愛し大切にすることができるようになるのだと思います。 FOUNTAIN(校長室だより)No.7
京都市立桂坂小学校 山本 泉
子育て,あるいは教育の場においては,子どもを「しかる」「ほめる」はつきものです。子育てに関する書籍などによく,「しかる」ことと「ほめる」こと,どちらが教育にとってよいのかというような内容の記載があります。このことについては諸説があり,そのうちのどの理論が正しいのかということは一概にはいえないようです。 従って,これから述べる内容も,一つの考え方として受け止めていただければと思います。以前,ある研修会で「しかる教育とほめる教育」というテーマで研修が進められたことを思い出しました。その内容について少しお話したいと思います。 −しかる教育とほめる教育− 最近の教育現場では,「しかる」ことより「ほめる」ことのほうが,子どもを伸ばす良い教育だとされるのが主流なようです。確かに我々は,子どもに限らず人から良く言われたい(ほめられたい)もので,そのことが励みになり,さらに努力して長所を伸ばすようなことが多々あります。 しかし,ほめられてばかりいては間違ったことを直したり,欠点を克服したりすることはできないようにも思えます。つまり,しかることとほめることはどちらも教育にとって必要なことであって,如何にうまく「しかる」か,如何にうまく「ほめる」かが大事だということになります。 なんだ,そんなの当たり前じゃないか!とは思われるかもしれません。しかし,実際には多くの人はこの両方をうまく使いこなせるほど器用ではないようです。うまく「しかる」,うまく「ほめる」という両方に精通するということは結構むずかしいことだといえます。そこで,せめてどちらかだけでも…,という消極的な考えからではありませんが,「しかる教育」か「ほめる教育」どちらか一方でも,うまく使いこなせれば十分に教育効果が得られるはずだということで,それぞれのあり方について研究が進められています。 【しかる教育】−子どもを伸ばす心くばり,とは− ・どちらが「しかる」でしょうか? ア.声をあらだてて欠点をとがめる。とがめ,いましめる。 イ.いかる。腹を立てる。 広辞苑ではアが「しかる」で,イは「怒る」の意味だそうですが,イにも「しかる」という意訳が載っていて,実は言葉の意味の上では,「しかる」も「怒る」も共通するところがあるということです。(関西弁では,子どもは「叱られた」ことを「怒られた」と言いますね)つまり,どちらも相手に対して,自分の感情をぶつけていく行為には違いがないわけです。(一般に,感情的な行為が「怒る」で,冷静な行為が「しかる」という考え方もありますが,必ずしも当てはまらないそうです。) さて,「しかる」ということを教育用語として一般に定義すると,「子どもの行為や考えをより望ましいものへと改める大人による評価活動,支援活動」ということになるそうですが,端的に言えば「子どもをより良い方向に導く方法・手段」ということですから,そのねらいは「ほめる」ということと同じだということになります。「しかる教育」とは,つまるところやはりその「しかり方」が大切だということです。では,私たち大人はどんなことに注意して,どんな風に「しかる」とよいのでしょうか…。 [ここに注意して] ア.しかったら必ずフォローし,決してしかりっぱなしにしない。 イ.子どもの心をしかるのではなく,行為をしかる。人格を否定するようなしかり方は絶対にしない。 ウ.ついでのようなしかり方はせず,そのことにのみ本気でしかる。 エ.さわやかにしかる。いつまでも長々としからない。 オ.あれこれとまとめてしかったりせず,一つの事だけしかる。また,過去のことを持ち出してしかったり しない。 カ.自分が目撃した行為以外のことでしかる場合は,事実を確認してからしかる。 以上の通りですが,これはあくまでも原則的なことですから,どんな場面でも,また誰に対しても通用するということではありません。しかし,できるだけ上記のことに注意しつつ,個に応じてしかること,そして,しかられた子が納得することは大切だと思います。また,いつも声を荒げてしかるのではなく,時には黙って子どもの目を見つめるだけで「しかる」効果があることもあります。 それでは次に,何をしかるべきなのかを考えてみましょう。何でもかんでもしかるのではなく,これにもいくつか注意しておくことがあると思います。 [これをしかる] ア.自分や他人の身に危険があるような行為をしたとき。 イ.人の体の欠陥をばかにしたり,人を差別するような言動をとったりしたとき。 ウ.自分より弱者に対して暴力をふるったとき。 エ.人の邪魔をしたり,自分のわがままを相手に押しつけたりするなど,自己中心的な言動をとったとき。 オ.自分の行為をごまかしたり,人をおとしいれたりするような嘘をついたとき。 これらもやはり一例に過ぎませんが,学校では同じことをしたのにある先生にはしかられてある先生にはしかられなかった,ということができるだけ起こらないよう努めています。(そうなっていないことがあれば,お詫びしなければなりませんが…。)それぞれのご家庭でも,親として,あるいは家族として「これだけは絶対に許さない」ということを前もって決めておき,子どもにもそのことを話しておくことが大切だと思います。また,同じことをしているのに,日によってしかられたりしかられなかったり,その時の気分でしかられたりでは子どもが不信感を持ち,そのうちまともに受け止めなくなります。兄弟・姉妹と比較するような言葉もしかるときには禁句です。 しかられたことを,子どもが素直に受け入れることができるような,そして,今度からしないように気をつけようと思うような,そんなしかり方ができればいいですね。 次回は,「ほめる教育」について考えてみたいと思います。 FOUNTAIN(校長室だより)No.6
京都市立桂坂小学校 山本 泉
夏休みが終わり,学校が始まりました。 今年は,例年になく猛暑日が続き,本来ならまだ夏休みが続いていてしかるべきかもしれませんが,全市で授業日数が決められている以上いつまでも夏休みというわけにもいかず,本校も始業しました。子ども達の体調管理に留意しながら進めてまいりたいと思います。 ―――・・―――・・―――・・―――・・―――・・―――・・―――・・――― 近頃よく,「今の学校の先生は大変やね,子どもが悪いことをしたり逆らったりしても,うっかり叩いたりしたら『体罰だ!』とか言うて,すぐに怒ってくる親がいて…。自分らが子どもの頃はしょっちゅう先生に叩かれたもんや。けど,親は『悪いことしたら叩かれて当たり前や。』と言うし,自分らも先生いうのは怖いもんやと思うてた。」などとおっしゃる年配の方がおられます。 確かにそういう時代がありましたし,教師もある意味やりやすかったかも知れません。しかし今,学校の教師は子どもを叩いたりしません。たとえ子どもが間違ったことをしても,じっくり話を聞いて本人が納得できるまで言葉で指導します。確かに現代では,叩いたりすると『体罰』として問題になるかも知れません。しかし,今の教師が子どもを叩いたりしないのは,保護者の方から文句を言われるからとか社会的に糾弾を受けるから,とかいう理由からだけではありません。叩いたりすることが教育的効果が非常に薄いどころか,むしろマイナスであるということが分かってきたからです。 確かに,『叩かれる』という自分にとって嫌な経験を思い出すことで,同じ過ちを繰り返さないようストップをかけることができる場合もあります。しかし,それは『叩く人』がその場にいて,同じことを繰り返すとまた叩かれるということが条件で,そうでなければほとんど効果がないといいます。 「いや,そんなことはない。自分には叩かれたことで身に付いたこともある。」と思われる方もあるかも知れません。でもそれは,ほとんどが思いこみであって,実はほとんどの場合そのことについて言葉で理由を聞き,自分が納得をしたから身に付いたことであって,決して叩かれて痛かったから身に付いたわけではないはずなのです。 子どもは自尊感情を持つことによって健全に成長します。叩かれたり怒鳴られたりすることが多い環境では自尊感情が育ちにくく,卑屈になったり投げやりになったりして,場合によっては成長してからの非社会的・反社会的な行為につながったりします。 勿論,このことは学校だけのことではありません。家庭でも,友達同士の関係の中でも叩いたり蹴ったり怒鳴ったりする場面は,できるだけ無くしていかなければなりません。認められ,褒められ,自分の存在価値を高く感じられる環境を,子ども達のまわりにつくっていくことが大切であると思っています。 FOUNTAIN(校長室だより)No.5
京都市立桂坂小学校 山本 泉
夏休みに入りました。連日,猛暑日が続き熱中症で亡くなる方も出ています。私自身もですが,保護者の皆様も健康にはくれぐれもご留意ください。 さて,今回は少しブレークタイムをいただき,京都市教育委員会生涯学習部から発行されていた読み物から引用したものを掲載したいと思います。 ―――・・―――・・―――・・―――・・―――・・―――・・―――・・――― 『先日,大変暑い日でしたが,人と待ち合わせをしていて公園のベンチに座っていると,ふと目の前の親子に目がとまりました。4,5歳くらいの男の子とお母さんが何だかとても楽しそうなのです。何気なく二人の会話に耳を傾けていると,どうやら,アリの行列を見つけた男の子がそのことをお母さんに報告しているようです。 「お母ちゃん!ほら見て,見て!アリがいっぱい並んでいくで…,どこ行くのかなぁ?」 と不思議そうに言ったので,一緒になってアリの行列の行く先を追っかけていったようです。向こうの方で 「あれあれぇ,こんなところに入っていくで…。」 「きっと,アリのおうちがあるのやね。」 「中はどんなになっているんかなぁ?」 とお母さんとの会話がはずんでいました。とても,ほほえましい光景でした。 そして,以前に出会った親子のことを思い出しました。ある日,歩道を歩いていると私の前を,同じく4,5歳くらいの女の子と,お母さんらしき女の人が歩いていました。そこへ,灌木の茂みから出てきた1匹の子ネコが,その親子に寄っていきました。 「ママ,このネコどこのネコかなぁ。お家はないのかなぁ。かわいそうやなぁ。」 と立ち止まろうとする女の子の手をひっぱり, 「そんなことどうでもええの!行くで!」 と見向きもしないお母さん。その女の子は何度も子ネコをふり返りながら,お母さんに手を引かれて行ってしまいました。 用事があって,急いでおられたのかも知れません。あるいは,お母さんはネコが好きではなかったのかも知れません。私も,そのときはあまり気に止めませんでした。でも,今回出会った親子を見て,改めて思いました。 アリの行列のことや子ネコのことなんて,大人にはどうでもいいことかも知れません。そんなひまはないと言えばそれまでです。しかし,子どもの成長には,その時期にこそ必要なことがあるはずです。育つべきときに,育つべきものを,時期を失せず育んでいくことの大切さを考えると。一見どうでもいいように見えることについて,親子でたわいもない会話を弾ませたり,目を輝かせて夢中になって親子でのひとときを過ごしたりすることも子育ての大切な部分ではないでしょうか。こうした何気ない親子のふれあいこそ,子どもの豊かな心を育むことに繋がるのではないかと改めて思いました。』 FOUNTAIN(校長室だより)No.4
京都市立桂坂小学校 山本 泉
「学校は何をするところですか?」 そんなことを聞かれたとして,それに対して一言で答えるなら,「子ども達に学力を身につけさせるところです。」ということになるでしょう。もちろん実際には一言では答えられないほどたくさんの役割を担っています。例えば,『社会性を身につけさせる』というのも大きな役割です。子どもがたくさんの人たち(あえて友達とは書きませんが)と共同で学校生活を送る中で,一人一人の違いに気付き,時には衝突し,時には協力し合い,自己主張したり我慢することもあったりしながら,大きな社会の中での自分の存在価値を学んでいくというのが学校の役割の一つです。しかしやはり一番大きな役割はというと最初に述べた「学力を身につけさせること」に違いありません。 ただ「学力」というものにもいろいろな意味があります。「学問を修める力」という狭い意味から,「生きて自らの将来を切り拓くための総合的な力」などという広い意味にも解釈されますが,小学校の段階で一番つけたい「学力」は,私は『自ら学ぶ力』だと思っています。確かに,知らないことを教えたり,経験させたりしながら「知識」を増やすことも大事なことですが,それ以上に分からないことやできないことを自分で解決する方法を見つけ,答えを探し出すことができるようになる力を身につけてほしいと思っています。 そして,そういった「学力=自ら学ぶ力」を身につける過程を『学習』と呼んでいます。 学校においては授業をはじめあらゆる教育活動の場面が「学習」ですが,それを支えて「学力」が効果的に身に付くためには家庭での学習すなわち「家庭学習」が大切であると言われます。つまり,「学ぶ力」を育てることは学校教育の重要な役割ですが,家庭の関わりがあるかないかでその育ち方が大きく違ってくるということです。家庭と学校とが協力し,同じ歩調で子どもを育てることが大切であることが言えるわけです。 しかしやはり,家庭と学校とでは自ずから役割が違ってきます。学校では学習の基礎・基本となる力をつけ,学び方を教え,主体性を育てます。また,上記でも述べたとおり友達や先生など多くの人と接し,関わり合うことで社会性を学ぶことにもなります。さらに,各家庭に対し子どものよさを生かした家庭学習の提案をするのも学校の役割です。 それでは,一般的に「家庭学習」とは家庭で何をすればよいのでしょうか。それは決して家庭で『勉強を教える』ということではありません。まず,生活のリズムを整え,決まった場所(決してテレビのある部屋ではありません)と時間で学習に集中できる環境をつくってあげることです。そして,認め,励まし,支えてあげる,子どもにとって安心していられる場所をつくるということです。そんな当たり前なことは分かっているとおっしゃるかも知れません。そうであればうれしいです。 少し話は跳びますが,京都市教育委員会から全家庭に向けて発信されたアピール文「家族の宿題」というのをご存じでしょうか。それは,下記のようなものでした。 【家族の宿題】 1.子どもの目を見て会話をしよう。 2.一緒に家事をしよう。 3.一緒に本を読もう。 4.一緒に出かけよう。 5.立ち止まって,一緒に「答え」を探そう。 近年,「すべての教育の原点」とされる家庭教育について,過保護や 過干渉,放任子育て不安の広がりやしつけへの自信喪失など,さまざまな問題点が指摘されています。このアピール文にあるように,「一緒に〜しよう」という基本姿勢で「家族の宿題」を実行された家庭から「よかった」と大きな反響がでているそうです。もし,やっていないことがあれば一度実行してみてはいかがでしょうか。 学校から各家庭に「家庭学習の手引き」という冊子が配付されています。大変参考になることが書かれていると思います。ご家庭の事情や生活状況はさまざまですが,子育てにとってヒントになることがあれば幸いです。 FOUNTAIN(校長室だより)No.3
京都市立桂坂小学校 山本 泉
この校長室だよりは,教育に携わってきたものとしてだけではなく,自分も3人の子を持つ親であるという両方の立場で勝手なことを書かせていただいています。人にはそれぞれ個性があるように,考え方も十人十色ですので「私の子育てについての考え」が必ずしも正しいわけではないと思っています。ただ,少しでも共感していただける方があればうれしいと思います。今回は,(少し大胆ですが)昔から私を悩ませている教育面に関する親と教員の意識(?)の違いについて書いてみたいと思います。 学校の教員は言うまでもなく教育のプロフェッショナルですが,自分の子どもに対しても教育者としての目で見られるかというと,必ずしもそうではないと思っています。なぜならば,我が子に関しては親としていろいろな意味で特別感情が入ってしまうからです。 しかし,学校では教育者として子ども達に対して平等に目が届くよう心がけます。もちろん,子どもの一人ひとりの個性に違いがありますから,子どもによって支援を必要とする分野や内容が違います。ですから,それをしっかり把握して,適切な指導を行おうとしています。それがプロとしての教員の仕事です。 ところが,親の我が子に対する思いは決して他の子どもと平等ではありません。我が子が不利益を被らないところでは,他の子どもの事でも親身になれる方はたくさんいらっしゃいます。しかし,我が子をそっちのけで他の子どものために尽くすということは,まずありません。 けれども,それは当り前のことで,それが親の愛情であり,だからこそわが身に替えてでも我が子を守ろうとし,子どももそれを感じて愛情につつまれて健全に成長するのだと思います。しかし,時にはその我が子に対する愛情が,教育の目を曇らせてしまうことがあります。(ここからは私自身の経験ですが…) 子どもに対する期待感から,必要以上に我が子に高レベルの課題を与えてしまったり,それが達成できないことを強く非難したりすることがあります。 また,単なる個人差にすぎないのに,他の子どもと比べてできないことがあれば落胆したりすることもあります。つまり,冷静に「教育」ができないことがあるということです。教員という仕事をしていても,こと我が子に関しては同じだと思うのは私だけではないと思います。 それなら,他人の子どもを受け持つ教員の方が,親よりしっかり子どもを見られるのかというと,残念ながら決してそうともいえません。教員は,集団の中で子どもを育てていこうとしています。ですから子ども一人ひとりに関しては,必ずしも十分に見ることができているとはいえない場合があります。また,子どもとの付き合いもそれほど長いわけではありません。(もとろん,できるだけ子ども一人ひとりをよく知ろうと努力しますが…)やはり,間違いなく親の方が我が子のことをよく知っています。ただ,我が子といえども,家で見ている姿が全てではなく,友達や教職員の前では親の知らない面も見せているだろうということを,頭の中に置いておくことも大事なことだと思います。 つまり,子育てにとって大切なことは,子どもを挟んで親と教員ができるだけ情報交換をおこない,子どもについての情報を共有すること,そして,何よりも子育てについて同じ方向を向いているということだというのが今の私の結論です。 |
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