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最新更新日:2024/06/14 |
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8月9日 長崎原爆の日![]() 被爆当時、看護専門学校生だったOさんは、爆心地から約1・8キロの実家で被爆。ガラス片が肩や足に刺さる大けがをしながら、被爆者の救護所になっていた国民学校に動員されました。救護所は凄惨を極めましたが、痛む足をかばって不眠不休で働き続けたそうです。 Oさんは今年、「原爆の恐ろしさを伝えるためにここまで生かされた」という強い使命感から、90歳を超えて初めて被爆者代表に応募。『平和への誓い』では、地獄絵図のようだった被爆直後の長崎を振り返り、核兵器廃絶に向けた若い世代への期待を述べられました。 『平和への誓い』は、このような内容だったそうです。 大好きだった長崎の夏が76年前から変わってしまった。 戦時下は貧しいながらも楽しい生活があった。しかし、原爆はそれさえも奪い去ってしまった。 不眠不休で救護にあたりながら、行方のわからない父のことが心配になり、早朝から道なき道を踏み越え歩き、辺りが暗くなるまで各救護所を捜しては元の救護所へ戻ったり、を繰り返した。 そして1週間後、大怪我をした父をやっと捜すことができ、 「お父さん生きていた!私、頑張って捜したよ!」 と泣いて抱きついた。 父を捜す途中に見た、忘れられないたくさんの光景がある。 両手でおなかから飛び出した内臓を抱えぼうぜんと立っている男性。 片脚で黒焦げのまま、壁に寄りかかっている人。 もう亡くなっている乳飲み子に、最後にお乳を飲ませようとする若い母親。 小さい弟をおぶった男の子が「汽車の切符を買ってください」と声を掛けてきた。「どこへ行くの?」と聞くと、お父さんは亡くなり、「お母さんを捜しに諫早か大村まで行きたい」と、私より幼い兄弟が、どこにいるか分からない母親を捜している。救護しながら、あの幼い兄弟を思い、胸が詰まった。 たくさんのこと、想いを話され、最後にこうして締めくくられました。 「私たち被爆者は命ある限り語り継ぎ、核兵器廃絶と平和を訴え続けていくことを誓います。」 90歳を越えて、なお後生へ語り継ごうとされるOさん。 それほどすさまじく、忘れてはならない現実であったことを痛感します。 |
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