修学院小学校の歴史
- 公開日
- 2010/06/28
- 更新日
- 2010/06/28
学校紹介
【修学院小学校の歴史】
明治6年(1873)5月一乗寺尋常小学校創立(今の一乗寺集会所に1階建)
・学科(修身・国語・算術・体操)
・教員2名,児童108名,学級2
明治8年(1875)8月修学院尋常小学校創立(離宮の中の高い石垣の下に2階建) ・学科(修身・国語・算術・体操・裁縫)
・教員2名,児童87名,学級2
明治9年(1876)3月 高野尋常小学校創立(上高野)
・教員2名,児童75名,学級1
明治41年(1908)4月 松ヶ崎村格知小学校に併合(松ヶ崎橋西詰)
・松ヶ崎村と修学院村との共同
・一乗寺と高野に分校を設置(修学院はなくなる)
【修学院小学校の始まり】
大正5年(1916)
4月 協議のもと組合を解散し,格知小学校から修学院村立修学院尋常小学校を新設することになった。新校舎建設中のため,当分下記の4箇所に分かれて授業を行う。
1 元格知校…修学院区の1〜4年と5・6年
2 修学院区集会所…付設の実務女学校
3 元一乗寺分校…一乗寺区1〜4年
4 元高野分校…1〜4年
入学式・始業式挙行 校長(大森留二:前「格知小学校」校長)訓導(山本市太 郎・北大路末吉郎・岡田八重子・小瀬勝治郎・松室とめ・田中すて・柏村 芳・ 中西きよう)
※この年の11月に新校舎の落成式が行われた。そのため,修学院小学校の創立記念日は,11月2日とされているが,実際には4月から「修学院村立修学院尋常小学校」として,校長1名,先生8名で授業は進められていた。
【修学院という名はどこから…?】
昭和6年4月京都市に編入されて,左京区修学院となるまでは,修学院村(修学寺村とも言う)・一乗寺村・上高野村と呼んでいた。叡山三千坊と言って,この周辺には多くのお寺があった。「修学院」もその中の1つで,平安時代に勝算(僧)によって開かれた。
そのお寺は赤山禅院より西にあって,上高野に行く檜峠の南がその跡だそうです。このお寺は500年ぐらい続きましたが,その後なくなりました。「つれづれ草」という本を書いた吉田兼好法師がしばらく住んでいたということです。
大正5年(1916)4月1日 修学院村立修学院尋常小学校 入学式・始業式
4月16日 春季遠足 1・2年…動物園 3・4年…大原
5・6年…滋賀,大津,石山 手芸科…嵐山
4月20日 身体検査(仙石学校医)
5月24日 3年生以上大文字登山。大津でスミス氏の宙返り飛行を見る。
6月 7日 新築校舎の上棟式。
6月23日 元格知小学校にいた4学級を新築校舎に移す。
7月 6日 一乗寺と高野分校の児童を新築校舎に移す。
8月26日 新築校舎の受け渡し修了。
9月15日 修学院区集会所より手芸科教室を新築校舎に移す。
11月2日 新築校舎落成式挙行
・午後,余興として展覧会・運動会・相撲を行う。
大正6年(1917)1月20日 4年生以上 うさぎ狩
2月 2日 3年生以上 比叡山登山(雪)
特に大正8年は大雪。
大正9年(1920) 校歌ができる。(作詞:種山郁子,作曲:西川五郎)
大正11年(1922)講堂の建設工事が始まる。小林正直氏の寄贈。4月に話があり,9月に工事が始まり,翌年2月9日に完成した。
昭和6年(1931) 京都市立尋常高等小学校という名前になる。
昭和16年(1941)4月1日 京都市立修学院国民学校という名前になる。
昭和20年(1945)頃 太平洋戦争で学校は,三菱重工の工場になったため,一乗寺地区(北山御坊・集会所)山端地区(聖光幼稚園・集会所)高野地区(宝童寺・三宅八幡・集会所)に分散して学習した。9月に学校に帰ってきたが,校舎は荒れ果てていた。机や教科書はなく,ノートも買えなかった。
昭和22年(1947)京都市立修学院小学校という名前になる。
昭和34年(1959)修学院小学校より独立して,修学院第二小学校ができる。
昭和38年(1963)プールができる。
昭和51年(1976)修学院小学校より独立して,上高野小学校ができる。
【音羽川の氾濫】
・昭和10年6月29日 前夜より降り続いた豪雨のため,高野川の橋が落ち,流失家屋40数戸,半壊戸数40余戸。音羽川の氾濫で,流砂が講堂に押し寄せる。高さ1mぐらい,運動場にも砂がたまり,保護者が砂のけをしてくれた。
・昭和47年9月16日 夕方7時頃から台風20号による暴風雨のため,音羽川が氾濫し多量の土砂を含む鉄砲水により多大の被害を出した。死者1名,全壊家屋4戸,半壊家屋3戸,床上浸水155戸,床下浸水277戸であり,浸水家屋の多くは,約10センチ〜150センチの土砂に埋められた。修学院小学校の校舎の中も土砂で埋まった。