京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

洛陽高校 創立70周年の様子

 洛陽高校では、明治19年(1886年)に染工講習所として創設されてから70周年を迎える昭和31年(1956年)に盛大な記念行事が行われ、記念事業として記念式典、実習室の公開、工展、懐古展が企画されました。
 昭和31年は日本経済の高度成長の途上にあり、まさに工業教育が問い直され始めていた時代でした。創立70周年は洛陽高校にとってもひとつの転換点でもあり、記念事業に戦後第1回の工展が開催されたことは印象的だったと記録されています。
 復活工展は、11月3日〜4日の2日間にわたって行われ工業各科実習工場の公開、卒業生関係会社製品、参考品の展示即売などが人気を集めました。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽高校 土俵造り

 洛陽高校では食堂に続いて土俵を造り、昭和30年(1955年)10月総工費43,000円をかけて北門横空き地に完成したと記録されています。土俵造りの着手に先立って相撲部員は夏休みを返上して土ならしを行いました。
 土俵開きは吉祥院天満宮の宮司を招いて10月15日に行われ、クラス選抜の45名による土俵開き相撲大会が開催されました。(洛陽高校百年史より引用)

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洛陽高校 食堂の建設

 洛陽高校の食堂の建設は、昭和24年(1949年)ごろから生徒から強く要望されていましたが、予算の裏付けはなく見送られていました。昭和30年になると生徒会長の選挙には必ず公約に掲げられるほど生徒たちの要望には根強いものがありました。そのころになると市内の市立高校はほとんど設備を持っており、洛陽高校でもようやく食堂建設が検討されることになりました。
 昭和32年(1957年)1月に着工、2月20日に待望の食堂が完成。敷地面積は100平方メートル、収容人員は75名で近代様式の食堂で炊事場には殺菌灯を設置するなど衛生面に留意、清潔第一を目標としていました。
(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽高校 商業課程の廃止と工業課程の拡充

 昭和28年(1953年)9月、市教育委員会は市立全高校の商業課程を2校に集約する方針を打ち出し、昭和29年度より商業課程の生徒募集を停止、昭和31年度から商業課程は廃止となりました。
 一方、当時はオートメーション化による第二次産業革命が叫ばれる中で、化学技術も転換期を迎え、こうした背景を受けて工業教育の必要性が急速に高まり、洛陽高校でも工業各科とも設備の改善が進められました。時代に対応する実習設備の充実、機械科原動機実習室と材料試験室の設置、さらには電気通信科、電子工業科、化学工学科が新設され教育環境も秩序だったものとなりました。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽高校 商業課程

 商業課程は、昭和27年ごろから設備の充実と共に年ごとに生徒数も増え、6クラス300名、教員5名となり、簿記教室も設置されて軌道に乗り始めました。志望者数は他校よりも多く、収容できない生徒は西京高校に振り分けた年もあったと記録されています。
 就職希望者のために、商業科と珠算部共催で珠算講習会も実施され、毎年夏休みを利用して10日間、日本商工会議所珠算検定1〜3級の合格を目標にして、初級から上級までの指導が行われ好評だったようです。さらに、就職に向けて校内珠算検定試験を実施、日商1級〜3級に準じた検定を行ったところ、受験者は250名を超えたと記録されています。
 この結果、洛陽高校商業課程は、各種専門科目の府下大会でも常に優位を占め、卒業生の就職状況も他校に比べ勝っていました。
(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽高校 商業課程

 洛陽高校の商業課程は昭和23年(1948年)10月、高校三原則により新設され、洛陽高校通学区域の商業科生徒が10月から洛陽高校に来るようになりました。定員は各学年1クラス40名で合計120名でしたが、発足当初は1年生36名、2年生20名、3年生30名の合計86名でした。
 元々工業学校だったため、商業教育の施設・設備はなく、再編成に伴い商業学校のタイプライターなどは、一旦西京高校に集約されたのち各校に分配されました。しかし、洛陽高校には5〜6台しか分配されず実習には不十分で、商業教育研究会を中心に施設・設備の充実のため陳情・請願が続けられました。
 この結果、昭和27年(1952年)ごろから備品も産業教育予算により少しずつ充実し始めたと記録されています。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽高校 総合制高校カリキュラム

 洛陽高が普通科・商業科・工業課程(5科)を持つ総合制高校として発足した頃は、カリキュラムの構成がきわめて困難で、また総合制ゆえの一長一短がありました。
 良い面は工業コースがあるために普通・商業の両コースの生徒でも工業教科を自由に選択して、職業能力が習得できるという点でした。
 一方、悪い面は工業コースでは実習が重視され3〜4時間の連続授業が必要でしたが、総合制ゆえに設備が制限され、実習場の収容能力に対して生徒数がはるかにオーバーしていました。
 さまざまな制約の中で、生徒の選択教科の幅を広げ新時代の教育方針に沿ったカリキュラム編成が検討され、単位履修の形が定まったのが昭和25〜26年ごろで、新しい高校教育の基礎が明確になりました。
 (洛陽工高百年史より引用)

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洛陽高校 生徒集会

 生徒集会のために、生徒会には集会部が設置され、行事の企画と運営に当たっていました。しかし、このユニークな生徒集会の時間も年を追うごとに新しい企画が少なくなり、昭和26年には実施されなくなり、昭和30年にはカリキュラムからも姿を消しました。
 図書の時間は、図書館を利用しての読書の促進でしたが、図書館の設備の関係から各ホームルームの教室で家から持参した本を読むという自習というのが実態でした。
 クラブ活動については、第1類(土曜日4時限)と第2類(放課後)に分け、第1類はカリキュラムに組み入れ、全生徒がいずれかのクラブに入らなければならないこととしました。しかし、昭和26年以降、第1類は廃止されました。(洛陽高校百年史より引用)

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洛陽高校  コース・クラスとホーム・クラス

 洛陽高校が発足して翌年の昭和24年ごろ、科別のコース・クラスとホーム・クラスとに分かれていました。1年ではむしろホーム・クラスで過ごす時間のほうが長く、所属の科を離れて学ぶ機会が多かったようです。2年生でも国語や英語などの授業はホーム・クラスに入っていました。生徒集会の時間は、広く生徒の社会性や見識を高めることが目的で、週1回これに充てられ原則的に各学年単位で行事が実施されていました。
 講演会、文化映画鑑賞、クラブ発表会(能・仕舞・狂言・日本舞踊・演劇・軽音楽)などがあり、講演会には立命館大学総長の末川博氏やプロ野球選手の中谷信夫氏(昭和13年機械科卒で南海ホークス投手)なども招かれたと記録されています。(洛陽高校百年史より引用)
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洛陽高校 ホームルーム制の実施

 京都市立洛陽高校として発足2年目の昭和24年4月頃になると、学校の指導体制もようやく軌道に乗り、生徒部の立案で科をミックスしたホームルーム制の実施、生徒集会の時間・図書の時間の新設、クラブ活動のカリキュラム組入れなどが実施されました。
 ホームルーム制の実施は、普通科・商業科・工業5科(色染・紡織・工業化学・電気・機械)と細分化された生徒が科の枠を超え、交流する機会を設けようという趣旨でスタートしました。
 ホームルームには、ペアレンツの性格を持つホームルーム・ティチャ―がおかれ、各学年に応じた学習・進学・就職のアドバイスに当たっていたと記録されています。
(洛陽高校百年史より引用)

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行事予定
12/21 HYPER STAGE冬期集中学習会
12/22 HYPER STAGE冬期集中学習会
12/26 HYPER STAGE冬期集中学習会
12/27 HYPER STAGE冬期集中学習会
京都市立洛陽工業高等学校
〒612-0884
京都市伏見区深草西出山町23
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