京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

洛陽メモリアル 映画研究部

 昭和23年(1948年)創部の映画研究部は、当時人気のあるクラブのひとつでした。昭和26年(1951年)5月当時の部員は117名、校内クラブでは最大の部員をかかえていました。映画研究部の具体的な活動内容は、過去・現在の映画を総合的に研究して、すぐれた映画を選択、生徒鑑賞にひとつの指針を与えようとするものでした。芸術作品については、校内にポスターなどを掲示、PRにつとめ学生割引券なども配布したと記録されています。こうした活動の結果「破戒」の映画鑑賞会を企画し、全校行事として昭和23年12月に開催を実現させました。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル 文芸部文芸誌「木窓」

 洛陽高文芸部の文芸誌「木窓」ですが、昭和24年(1949年)7月に創刊されたのち、第2号は昭和25年(1950年)1月15日に発行、総64頁と質・量ともに充実したものとなりました。昭和25年10月発行の第3号からは「青桐」と誌名を変更して年2回刊行で継続されることになり、傍系クラブの短歌部、俳句部の作品も掲載され洛陽の総合文芸誌となりました。発行部数150〜200部、校内のほか他校にも配布して交流を図る一方、作品の合評会も活発に行われました。同誌は昭和30年代の前半、第20号まで続きました。
(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 文芸部の発足

 文芸部も洛陽高のスタートと同時に始まっています。洛陽工高と洛南高が同居していた二部授業時代、両校ともに文芸部がありました。洛陽工高は詩・短歌、洛南は詩・創作が中心でした。それぞれ性格を異にしていたため再編成によって洛陽高校が誕生しても、文芸部が一本化するには紆余曲折がありましたが、洛陽顧問が洛南高の部員に働きかけて新しい文芸部が生まれたようです。
 昭和24年(1949年)4月から本格的な活動を開始したころの部員は15、6名でした。作品発表の場として文芸誌が発行されることになり、誌名は「木窓」と名づけられました。「木窓」は当時の学校そのものを象徴するもので、当時は物資不足で教室の窓ガラスの修復も思うにまかせず、木の板が打ち付けられておりこうした戦後の状況をとらえて命名されたと記されています。
 「木窓」創刊号は昭和24年7月1日に刊行され、謄写版印刷41ページ、発行部数は約50部でした。
(洛陽高校百年史より引用)

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洛陽メモリアル 演劇部

 昭和23年10月、総合制の洛陽高校が誕生するとその年の11月に演劇部が誕生しました。発足当時の部員は20数名でしたが、創部後まもなく旗揚げ公演として「京都市内高校演劇コンクール」(高等学校演劇連盟主催)に参加しています。部員は中庭の日本家屋2階の和室広間で練習に励み発声練習、身振り表情練習、効果器具や照明器具の製作に余念がなかったと記されています。
 演劇部は旺盛な創造精神で洛陽高時代の文化活動をリードし高校演劇コンクールには毎年参加、昭和26年(1951年)「カスリン・ニ・フウリハン」、昭和28年(1953年)「蟻部隊」、昭和30年(1955年)「おふくろ」で優秀校に選ばれています。部員の中には卒業後映画・演劇に進んだ人も多く映画監督になった大島渚氏もその一人です。(洛陽工高百年史より引用)
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洛陽メモリアル 洛陽高発足当時のクラブ

 旧制京一工時代のクラブは、校友会のなかに位置付けられていましたが、新制の洛陽高になってからは生徒会に所属し文化部と体育部が設けられました。洛陽高時代のクラブの発祥については、さまざまな系譜がありました。
 文芸部のように旧洛陽工高と旧洛南高とが合体して1つになったもの、社会科学研究会のように洛陽工高時代のクラブが発展的に拡大されたもの、バレーボール部や歌舞伎部のように旧洛南高のクラブが基礎となったものなどさまざまです。
 洛陽高発足当時にどれほどのクラブがあったかは資料不足で判然としませんが、『洛陽新聞』によると、昭和26年(1951年)5月現在で文化部39、体育部18の合計57クラブがあったと記録されています。(洛陽工高百年史より引用)

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洛陽メモリアル 校内放送「RBC」の番組

 洛陽工高の校内放送「RBC」ですが、昭和27年(1952年)には施設の改善が進められ、第2スタジオが完成、アンプも60Wのものが設置されました。昭和34年(1959年)になると、第1スタジオを拡張、第2スタジオを併合した新スタジオを設けています。放送課員も訳20名となり活発な広報活動が展開されていました。
 全関西放送劇コンクールでは、昭和30年に作品「嗚咽」、翌31年には作品「波紋」で連続入選しており、その他にもラジオ京都へ出演するなど校外活動も活発だったと記録されています。((洛陽工高百年史より引用))

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洛陽メモリアル 校内放送「RBC」の発足

 昭和24年(1949年)の夏に洛陽工高の放送設備が総工費15万円で設置されました。ホームルーム教室、講堂、職員室など58個所にスピーカが取り付けられ、新学期の9月1日より放送を開始しました。当初は生徒の技術係員3名で運営、学校からの生徒・職員への連絡が中心でした。
 昭和25年からは”RBC"というコールサインを使用、同時にプロデューサ制を採用し、本格的に校内放送の充実が図られプロデューサ6名、アナウンサー5名、技術係7名で構成され演出面、技術面ともにさまざまに研究が進んだと記録されています。(洛陽工高百年史より引用)
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行事予定
2/6 3年登校日(13:10),課題研究発表会(13:30〜)
京都市立洛陽工業高等学校
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