最新更新日:2024/04/01 | |
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洛陽高校 修学旅行の復活
戦後になって中止されたままの修学旅行は、昭和25年(1950年)10月に復活しました。旅行業者などがない時代もあって、日程計画の立案や旅館の交渉、旅費負担の問題や生徒たちの家庭の経済状況などさまざまな困難な状況の中で第1回の修学旅行が実施されています。旅行先としては、関東方面と九州方面の2案が検討され、生徒の希望により関東方面(鎌倉・東京・日光)と決まりました。日程は10月21日から24日にかけて3泊4日で旅行の費用負担ができるだけ軽くなるようにとの配慮から短縮した日程で行われたと記録されています。
旅費の積立期間も短かったため、不参加の生徒もかなりの数におよびましたが、当時の経済事情からはやむを得ない状況だったようです。不参加者は期間中、学校で製図などの授業を受けました。当時の生徒にしてみれば、東京、日光などは容易にいけない遠隔の地でしたが、きわめてハードなスケジュールだったこともあり、下見では予想もしなかったことが起きて引率した教員も戸惑ったと記録されています。(洛陽高校百年史より引用) 洛陽高校 化学工学科の新設
化学工学科は、昭和37年(1962年)4月に新設開講され定員40名をもって発足しています。洛陽高には京一工時代から工業化学科がありましたが、同科は分析化学を主体とするもので、化学機械に着眼した機器や装置の取扱いをめぐる教育は不十分でした。化学工学科は化学機械に関する工学的基礎知識を十分に習得した中堅技術者の育成を目的として誕生しました。化学工学科の実習棟は裏門周辺に建築されることになり、工事は昭和37年初めに着工、7月末に竣工しています。これをもとにさらに東西に増築されました。(洛陽工高百年史より引用)
洛陽高校 電子工業科の新設
電子工業科は、電気通信科に続いて認可申請から2年後の昭和34年(1959年)9月に市会文京委員会を通過、正式に設置の運びとなり、昭和36年(1961年)度を完成年度として施設・設備が進められました。鉄筋3階建て3教室の校舎は、昭和35年(1960年)2月に着工、5月に竣工しました。引き続いて増築工事が進められ、3階には電気磁気実験室、電子機器実験室が設けられています。
エレクトロニクスの発達に即応すべく新設された電子工業科は、昭和35年4月に開設、定員40名で出発、カリキュラムについては、普通科目58単位、工業科目50単位(3年間)普通科目と工業実科との構成比率は電気通信科とほぼ同じでした。実習内容は、製図、電気理論から電子計測、伝送理論、自動制御など時代の先端をいく科目が多く盛り込まれていたと記録されています。(洛陽工高百年史より引用) 洛陽高校 電子通信科・電子工業科の新設
昭和30年代にはいると、ラジオ・テレビの普及、マイクロ波通信網の完備、レーダーによる気象観測、さらには宇宙ロケットからの通信など電気通信技術の発達にはめざましいものがありました。電気通信、電子機器関連産業で働く中堅技術者が急速に求められるようになりましたが、電気、機械関連の技術者は全国で毎年2万人も不足していました。
現状ではわが国の工業の将来が危ういという声が高まる中で昭和32年(1957年)9月、文部省は高校の技術教育振興に着手、こうした背景のなかで、洛陽高では昭和31年10月に電気通信科、昭和32年9月に電子工業科新設の認可申請を文部省と市教育委員会に提出しました。 電子通信科の設置は3年計画で進められ、文部省と京都市から教室3室を新設、実習設備の新設のために同じく合計201万円の年額予算が昭和33年から3年間支給されました。電気通信科は昭和34年(1959年)度に開設、一学級定員40名で発足しました。 (洛陽工高百年史より引用) 洛陽高校 産業教育研究校に指定
昭和30年台になると、工業技術の発展には目をみはるものがありました。学校教育の場でも、時代に適応した新しい工業技術を教育内容に組み込んでいくことが重要なテーマになりました。このような背景から文部省では産業教育研究校の指定を制度化し、昭和31年(1956年)4月、洛陽高が指定校に選ばれました。学校では協議の結果、色染・紡織・工業化学・電気の4科で研究を進めることになり、メインテーマを「新教育課程における実験、実習の指導方法について」として、昭和31年から32年にかけて各科ごとに具体的な研究に取り組みました。
昭和33年5月14日、午前10時から洛陽高講堂で2年間の成果を問う研究発表会(市教育委員会共催、文部省後援)と公開授業が行われ、当日は文部省教科調査官が来校し講演も行われたと記録されています。(洛陽工高百年史より引用) |
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