京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/04/01
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洛陽工業高等学校は、平成29年度末をもって閉校し、 創立132年の歴史と伝統を京都工学院高等学校へ引き継ぎます。

染織学校 ユニークな運動会

 染織学校時代の行事の中で、何といっても呼び物は秋の運動会だったそうです。運動会は「秋季陸上大運動会」として毎年創立記念式前後に行われ、学校の広報活動として重要な役割を果たしていました。
 運動場には楽団が勇壮な演奏で雰囲気を盛り上げ、接待室では来賓が茶果のもてなしを受けたそうです。また、毎年小学生が招待され高等小学校優勝競走、尋常小学校優勝競走などの種目が盛り込まれていました。
 染織学校独特の競技種目として、浸染競走、捺染競走などがあり、浸染競走は染液の中に布切れを浸して絞を染める速さを競ったり、捺染競走は二人一組になって白地の金巾に日の丸を染めて、高く掲げて場内を一周する競技でした。そのユニークさから市民の人気を集め毎年2000人を超える入場者があったと記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 学芸大会

 染織学校の学芸大会は、春季、秋季、冬季と年3回行われ、内容は学芸部主催の雄弁を競う弁論大会でした。各級からの代表者1、2名がそれぞれ思い思いの演題をひっさげて登壇、弁舌をふるっていました。審査は教員と幹事生徒によって行われ、1等から3等までの入賞者には賞品が与えられたとあります。
 演題は多岐にわたり、「大国民の品格」、「本校生徒として」、「修養の初歩」、「自立自営の目的」、「不動心」といった精神道徳に関するものから、「工業について」、「日本画と染色術」、「維新後の織物の進歩」、「嗚呼西陣」など直接専門に関するもの、その他「地球反対論」、「岩崎弥太郎」、「我国体」など様々でした。余興としては、唱歌、詩吟、手品、尺八吹奏、落語、謡曲、美文朗読、英語劇などがあり学芸会を盛り上げたようです。
 当時の講演会方式の学芸大会は雄弁術を鍛えると共に、道徳教育の一環として行われていましたが、同時に幅広い知識を身につける機会をも提供していたと当時の記録に記されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校の行事 ウサギ狩り

 染織学校の校内行事にはウサギ狩りもあったようです。当時の記録(大正4年3月)では、「生徒たちの楽しみの行事の一つにウサギ狩りがあった。毎年1月に西賀茂や岩倉あたりの山で行われていたようである。山上に網を張りめぐらしておいて、勢子になった生徒たちがふもとから、声をかけながら追い込んでいく。ウサギは山上めざして駆けのぼり網にかかる。それを生け捕りにするのである。ウサギ狩りは生徒の心身鍛錬をかねた行事として、その後の京一工時代にも引き継がれた。」とあります。
 残念ながらウサギ狩りの写真は残されておりませんでしたが、下は当時の卒業生の写真です。
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染織学校 授業風景

 当初、染織学校は入学志願者が少なかったと先日述べましたが、利点になっていたこともあります。記録によると、「ともかくも染織学校は入学志願者が少なく、校長自ら人力車に乗って生徒募集に戸別訪問したというが、そのことが逆に利点ともなっていた。生徒と教師が直に触れあう機会が多いほど、学校は豊かな人間教育の場として機能する。皮肉にも生徒数が定員に満たないことによって、当時の染織学校はいい意味で教師と生徒の関係、さらには上級生と下級生の関係がきわめて密接であった。予科1年の生徒も本科4年の生徒も、たがいに顔見知りでまるで兄弟のように親密であったという。」とあります。
 当時の卒業生の話として大正初年ごろの学園風景は、「(前略)4人くらいのクラスですと、先生と生徒が向かい合わせになって、冬ともなればストーブの周りに集まって講義を聴く。(中略)学校の先生と各学年が別れましても、生徒間のおつきあいといいますか、交際というものは非常に親密でありまして、学校内が融和されていたように思われます。」と記されており、授業含め学校全体がのどかな雰囲気だったようです。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 学校行事と校友会

 染織学校の校内行事は、すべて校友会によって企画、運営されていました。記録によれば、「校友会には学芸部、体育部、会計部があり部長は教員、幹事、理事の各委員は生徒たちの互選で選出されていた。学芸部は、(中略)年1回以上の雑誌『錦友』の発行、染織競技会の開催、懸賞図案募集、懸賞作文募集、年2回の講談大会の開催を内容としていた。
 体育部は、『各自の健康を保全し且気力を養成する』のが目的で、野球部、庭球部、蹴球部のクラブ活動、秋季陸上運動会の開催、遠足、旅行などの運営にあたった。」と記載されています。下記は当時の野球部、庭球部の貴重な写真です。
(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校 初期の試練

 当時の記録によると初期の試練と題して「初期の染織学校の深刻な悩みは慢性的な入学志願者不足だった。」と記されています。
 その詳細は、「明治27年(1894年)度から明治44年(1911年)までの卒業、終了生数と、その中に占める市内の人数について、表より19年間の推移は、生徒数は学年60人の定員を大幅に割り込んでいるばかりか、市内の生徒は相変わらず少ない。(中略)とくに機織科の生徒は西陣からの入学者が少なく、京都の染織工業の発展をめざして染織工業は創設されたのだが、実際の当業者は工業教育に大きな期待を持ってはいなかったらしい。学校教育に対する無理解と職人気質ゆえの視野の狭さが、生徒不足の原因となっていた。」と記されています。
 さらに「生徒数の不足に加えて他府県の生徒が市内の生徒数を上回っていた」ことが問題視されていたのでした。
 この対応として「校長をはじめとする教職員と京都染物同業組合理事が生徒募集に奔走」、こうした努力の結果、明治39年(1906年)ごろから効果が現れてきたと記録されています。

(洛陽工高百年史より引用)

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染織学校に皇太子殿下ご来校

 烏丸校舎に移転して2年後の大正2年(1913年)4月2日、二条離宮にご滞在中の皇太子殿下と淳宮さま、光宮さまが染織学校観覧のためご来校されました。9時15分ごろ馬の蹄の音がかすかに聞こえてきて、やがて護衛の警官を先頭にお車がゆっくりと校門にさしかかり、生徒たちが敬礼するなかを、皇太子殿下と宮さまがたは9時30分に校内にお入りになりました。
 校長の案内で2階の控室に入られ、実習工場から順次校内をご覧になり、機織実習工場では機織部の4年生が繻珍織機を運転するとともに、手織機によるリボンの製織をご覧にいれたそうです。また、色染実習工場では浸染実習、型染実習、引染実習を行い、色染の機械を運転してご覧にいれ、聯隊旗と国旗を染めてのちに校長を通じて献納したとあります。
 皇太子と宮さまがたは、それぞれを興味深くご観覧になったあと、再び控室に落ち着かれたのち、午前10時に学校を出発されました。染織学校としては光栄なことで関係者は大いに励みにしたと記録されています。
(洛陽工高百年史より引用)

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行事予定
3/18 3学期終業式,新3年教科書販売,さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/19 高校生就職ガイダンス(2年),さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/20 さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)
3/21 さくら咲かそうプロジェクト(東日本大震災被災地支援活動〜21)

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