京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/28
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『自由』『自律』『友愛』

チャレンジ体験

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 ただ今,2年生はチャレンジ体験である。ちょうど5日間の中日,慣れてきた頃であろう。多くの方々に支えられながら進めている。岡崎中学校では,希望の職種につけるように,先生方も新規開拓に余念が無い。ゆえに,京都市内全域に広がっての体験となっている。生徒たちは,岡崎中学校を背負いながらのチャレンジであることをわかっているだろうか。来年も再来年も続く後輩たちのために精一杯やって欲しい。
 この体験はいろいろな見方がある。わたしは,家庭や学校を離れて,きっちりと対応ができるかという視点でまずは見ている。なんといっても,挨拶などの基本,つまり,人としてのコミュニケーションがしっかりとできるかである。初めて接する人の判断基準はそれしかないのである。人と人との接点の大切さを感じ取って帰って来て欲しい。また,働くことへの思いや親の苦労が分かってくれればとも思う。口ではなかなか説明できないものである。親もなかなか言えないものである。そして,新しい環境で,新たな自分が発見できればと願っている。
 5日間もの間,岡崎の生徒だけでなく,多くの中学生を受け入れてくださっている皆様方には,本当に感謝の限りである。ニコニコとした笑顔で見る職場の生徒は最高である。今日行ったところでは,精一杯楽しんでくださいね,と声かけをしてくださっていた。一人一人の体験は違うが,職場の方々は,それぞれ中学生を大きな目で見てくださっていることは確かである。どうか受け入れてもらったことへの感謝だけは忘れないでいて欲しい。月曜からの登校を楽しみにしている。

避難訓練

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 先週のことになるが,21日に避難訓練を行った。阪神・淡路大震災に合わせて,地震後に火災発生という設定である。
 当日はあいにくの雨上がりで,避難は体育館となった。グランドとは勝手が違い,ちょっと時間がかかったようだ。しかし,いつもとは違う勝手で行うのもいい。現実は,同じことばかりではないからだ。それよりも,前回の反省が〜だから,今回は,この点に力を入れようとか,目的をしっかりと示してやらせるとか,担任が指導していて課題となったことをしっかりと示して学級の課題克服も大切な点であるように思う。
 わたしはいつもこの時期の避難訓練には黙祷を行う。6343名もの人々が犠牲となっているからである。人数だけではない,黙祷を行うことで,聞く体制づくりにもなると考える。わたしが一番気になることは,その時間の人数確認である。常に人数把握をして,時間時間に臨むかである。基本中の基本である。そのことを先生方も子どもたちも両者で確認することが一番大切である。
 この地域は花折断層にかかった地域である。地震が起きれば大きな被害を被ることは免れない。そんな真っ只中に暮らしていることの自覚と,こうした訓練を通して,家にいるとき,それも寝っているときなら,居間にいるときなら,風呂に入っているときなら,〜なら,〜ならとそれぞれシュミレーションを行う契機になることが大切である。あいまいな記憶で申し訳ないが,確か断層によって,どのように揺れるかの判断がつくようなことが書いてあった気がする。それに従うと,戸棚の位置やベッドの位置も決まるらしい。いろいろなことが広がる訓練でないとやっている意味は無いと思う。

徒然草から

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 先週の金曜日は,前校長稲冨先生をお送りいただきありがとうございました。
 『徒然草』の30段に「人の亡きあとばかり悲しきはなし・・・・・・」という段がある。その中で,親戚一同が49日の間,山の寺といったようなところに移って,死後の法事をこなしていくことの気ぜわしさ,さらには,49日になると,皆が帰ることばかりに気がせいて,味気ないといった中で,家族のものは,家に帰って初めて,あらためて悲しいことも多いといっている。まさにその通りである。その前段の29段「静かに思へば・・・・・・」は,過ぎた日々への恋しさは,押さえようもないものだといい,秋の夜に,身辺を整理している中に,故人の歌,絵を見つけたときは,その当時のことが思い出され,また,道具だけがそのままに残っていることが実に悲しいといっている。時々,校長室から稲冨校長の筆跡のものが出てくる。まさにその状況そのものである。
 私ごとですが,先週の18日の深夜,愛犬のサイが亡くなり,翌,19日に稲冨先生が亡くなられた。ダブルパンチを食らった感であった。サイを葬り,稲冨先生のお手伝いをし終わった金曜の午後,修学院で左京のPTA研修があったが,その辺りから,大変辛くなってきた。ほっと一息ついたあたりから,その思いは強くなった。
 稲冨先生の写真は,送る会のときの写真であった。多くの方に支えられた会であったなと思い出される。稲冨先生を介して多くの人たちと知り合えたことが何より嬉しい。そして,それは何よりの宝である。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

白鳩から

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 「白鳩」は,本校のPTA新聞である。抜粋ではあるが,稲冨先生の原稿を,ここに掲載することで,先生を偲ぶこととしたい。
○今年度に入り国内外で私たちの気持ちを暗くさせる出来事が続いています。いつも言っていることですが,こうした事件の根底には,互いの違いを認め合えないことが要因になっているような気がしてなりません。自らの考えを否定することは,自信を失わせる結果になったり,物事を進める上で躊躇(ちゅうちょ)させることになることもあると思います。しかし,自らの考えを否定するのではなく,他人(ひと)がなぜそう考えるのかということを常に考えるべきではないかと思っています。こうした考えを子どもたちにも持ってくれるよう,様々な場面で皆の耳に胼胝(たこ)ができるのではないかと思うほど話をしています。ぜひご家庭でも一つの事柄を様々な角度からお子様と話をしてほしいと願っています。とりかけこうした情報化社会になれば,メールなどで済ませることが多くなるわけで,それだからこそ会話や対話が必要だと実感しています。(H16.7.16)
○前回の「白鳩」で「許すより恕(ゆる)すを」ということを書きました。「違いを認め合う」というのは,まさに「恕す」と言う気持ちを持つことと同じではないかと思います。昨年の地生連の講演で神戸保護観察所の田中研三先生が「まずはあるがままを受容することが必要である,でも許容するということではありません。」という趣旨のことを話されました。違いを認め合うというのは相手の人の背景まで理解し,自分と違う意見や考えを理解しようと努力することだと思います。私自身も,自分と価値観の違う考えに接したとき,腹立ちを持ったり,話すことの虚しさを感じたりすることがあります。でも,その気持ちは相手の人も必ず同じ気持ちで私のことを見ているのでしょう。「恕す」というのは相手を分かろうとする努力なしには生まれないものだと思います。(H18.3.14)
○私は,本校に来て三年目になります。私はこの三年間生徒たちに「違いがあってあたりまえ,違いがあって楽しい,違いを認めあおう」と言い続けてきています。まさにそう考え,人間どうしが触れ合うのが人権を認め合うことそのものだと思っています。(H15.7.18)

偲ぶ

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 19日,前校長の稲冨哲哉先生がご逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表します。
 写真は,先生を描いた生徒作品である。
 ときどき,学校をのぞいてくださった。職員室に入ってこられると,教職員に声をかけながら,前にあるわたしの席,というより,たぶん,自分の席という思いで来られたのだろう。何かタイムスリップしたように思え,今も,ふと入ってこられるかのような気がしてならない。
 稲冨先生とは4年間,本校でご一緒させていただいた。常々,先生は,「みんな違っていい,みんな違ってあたりまえ,違うからこそ楽しいし,その違いを認め合おう」と生徒たちにも,私たち教職員にも事あるごとに言っておられた。そして,その実践として,一人の生徒を徹底的に大切にされていた。先生の後をついで,この「みんな違ってあたりまえ」という教えが理解でき,目から鱗が落ちるとは,こういうことかという思いになったことがある。それは,教職員をまとめなくてはと思ったときのことである。校長室に掛けられた先生の写真が,みんな違うのだから,大それたことを考えなくてもいい。みんな違うからこそ,学びあえるし,楽しいのだと語りかけてきた。そのとき,ふと心が落ち着くような思いになったことを覚えている。
 また,校長室で話していたとき,学校を辞めた途端,悩みがなくなったことをすごく嘆いておられたことがあった。悩みがあるときは,いろいろ大変なように思うが,悩みがないって人生と違うとも言っておられた。わたしに対する思いやりだったのかもしれないが,おそらく,悩むことで,人の痛みを感じ取られてきた先生にとって,本当の意味での教育者としての原点が,そこのあるように思う。生徒の悩み,保護者の悩み,教職員の悩みから解放されたことは,その原点が崩れ去ったことであり,そのことが,逆に辛かったのではないだろうかと思われるが,今となってはもう尋ねることもできない。
 いろいろと思い返せば切りがない。校長室の写真を見ながら,まだまだ語りかけなければならないことが多々あると思うが,そのときは,よろしくお願いしたい。

センター試験

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 大学入試センター試験が16日,17日の両日行われた。国語の問題を見たが,問題文こそ,高校生を対象とするゆえに難というより,長文に慣れるかである。また,問い方も,妥当なものであるように思う。公立高等学校の入試も同じスタイルである。
 漢字の勉強は,直接その漢字が書けることは大事だが,その漢字を他の熟語などに置き換えて使えるかといった発展が大切であり,そのためには,辞書を引いたりすることが必要である。また,内容の問い,それに,文章構成,文学的な文章では,意味を問い,気持ちを問い,情況の説明,それに叙述の仕方など,学校で学習していることとそんなに差異はない。
 ただ,試験そのものよりも,こうした長文を読み,決められた時間内に解答をつくることができるかである。そのために必要なことは,やはり,読書である。文章を読むこと自体に慣れることこそ,基本中の基本である。そして,古典,漢文と大問の4題をこなす気力である。つまり,普段,どれだけ活字に親しみ,読もうとするかである。ちょっと難解な文章でも辛抱して読み続けていけるかである。勉強は一朝一夕に力がつくものではない。ただただ,毎日の,普段にどれだけしっかりやり続けているかということだ。高校入試ももうそこだ。

みんなの思いを

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 この間の授業のまとめとして,最後に2組の生徒たちに次のような内容を尋ねた。
 「あと2か月間,自分自身がこの2組のためにどうしていくことがよりよいクラスになっていくかについて,考えていることや思ったことを具体的に書きなさい。」
という内容である。これは,能率よく掃除をやるために,分担を決めたが,分担という手段に縛られて,本来の能率よくという目的が達せられていない現状をどうするかを考えさせた結果を,クラスに返したものだ。
 多くの生徒は,「楽しくて,明るいクラス」「協力して明るく楽しくみんなが過ごせるように」「みんなで協力しあってやるときはやり,楽しむとき,おもいっきり遊ぶということをしていけばいいと思う」等があったが,もう少し具体的に書いている生徒は,「みんなで協力して,ちょっとしたイベントをしたり,けいじ物を面白くしたらいいと思う」「そうじをもう少し,てきぱきやればいいと思った」「いろんな人と(コミュニケーション)しゃべったりあそんだりして,友だちとの関係を深めて,わからないことがあれば,教えあえばいいと思います」等もあったし,個人的に「静かにする」「周りに迷惑をかけないようにしながら,自分のやるべきことはやる」といったことを書いてくれた生徒もいる。
 それぞれの段階はあるが,みんな前向きに考えてくれることが,内面化を深められたことになる。それでいいと思う。今の自分より少しでも考えることで,変わるのである。正解などない。みな正解である。ただし,道徳は特活と両輪である。自分の思ったこと,考えたことと行動がどうなのかをしっかりと担任はみなければならない。そのことが大切である。また,こうした内容を出し合って,再度,具体化し,クラスとしてどうしていくかを考えさせることもいい。いろいろな方法は,担任が一番よく知っている。何をやってもいい,クラスを良くしていくことにさえなれば,それでいいと思う。

支部授業研修

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 15日,道徳の支部授業研修を行った。多くの皆さんに参加していただき,ありがとうございました。来年度の文部科学省指定の発表を控え,どのように道徳の授業を考えるのかの道筋を示すために行ったものだ。細かく指導案を書いたつもりである。生徒の実態はやはり指導していない分,無理があったように思う。
 生徒もわたしも緊張していた面があったと思うが,後半,ちょっと慣れてきたように感じた。よく子どもたちも辛抱してくれたものだ。本当は議論をさせることで,自分の内面を変えていくことが大切である。でもそれは,よく子どもを知っている担任だからこそできる代物である。資料道徳の場合であるが,よく議論のかみ合うものであれば、それがよい資料なのである。それもA4一枚に収まるようなものでなければならない。そして,その進め方として,いつも言うことだが,議論をかみ合わせるために,基本的な読解によって,子どもたちを同じ土俵にあげ,議論する下地づくりをする。そして,活発な意見交換をさせる。そして,早く資料離れをするということである。これだけができればいいと考えている。この繰り返しをしながら,子どもの実態を見ながら,考えさせるべきことを常に担任は考えていなければならない。だから,担任が授業をすることが一番大切なのである。
 指導案を書くことはしんどいことであるが,しかし,自分の考えをまとめるためには,大変大切なことである。なかでも重要なことは,生徒の実態と問い方である。生徒の実態は,教材,つまり,何を学ばせるかっということに対しての実態でなければならない。いじめを取り上げるなら,人間関係ということを通した実態でなければならない。しかも,日頃の子どもたちの具体的な言動を通して,担任は,見方やその解釈を示さなければならない。そして,問い方は,問い方そのままを考えるということである。丁寧な問いをつくるために,子どもに発することば,そのままを書き,推敲しなければならない。いつも言うことだが,言うは易し,行うは難しである。でも,常によい授業をしたい,子どもの笑顔を見たいという思い,そのことを心に秘めながら頑張れる先生方であってもらいたいと願っている。

ロマンチシズム

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 今年もこの時期がやってきた。17日の阪神・淡路大震災である。どの新聞を見ても,特集が組まれている。15年前の5時46分であった。わたしはこの学校に来る直前であった。本当に激しい揺れを感じたが,ボーとするしかどうしようもなかった自分を思い出す。しかし,妻は飛び起き,子どもの方へ向ったのを覚えている。この規模の地震が12日,ハイチでも起き,10万人を超える人が亡くなっているとも伝えられている。
 このときのニュースを今も覚えているが,大阪や岡山の震度は言われるが,神戸だけ何も言わなかったことだ。その時,神戸辺りが大変なんだろうなと想像したことを,今も覚えている。こういう風に想像したのは,いわゆるロマンチシズムである。リアリズムなら,大阪マグニチュード○,岡山マグニチュード△,神戸はまだ入っていません,と伝えられると,その事実だけを受け止めるが,ちょっと想像を働かせると,神戸はどうなんだということになるだろう。それがロマンチシズム教育の必要性なのである。リアリズム教育では,その事実だけなのである。司馬遼太郎は,客観的な事実資料を集め,それらを並べながら小説を書いていく。徹底的な資料集めのため,彼が資料を集め出すと,日本全国のそれに関しての古書店の資料がなくなるとまでいわれるくらい,収集したのである。しかし,その資料と資料との間を埋めるのは,ロマンチシズムということになるだろう。だから,歴史というものは存在しないというのが彼の考え方,つまり,○○の歴史というように,○○には,それを研究し,書いた人の名前が入り,歴史は自分のような小説家や詩人がつくるものだと言っていた。
 リアリズム教育も必要だが,いつもいうように,想像力を養う教育,ロマンシチズム教育はもっと必要である。それが,人の痛みも分かる教育などにもつながっていくのだ。そのためにも,読書生活も必要なのだ。

ツララ

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 今朝は大変寒かったが,風がない分まだましであったように感じる。理科室前の池も氷が張っていた。この20日が大寒である。そして,節分の春へと向かう。1年中で最も寒さの厳しい時季である。この寒さに耐えるゆえ,桜の花の美しさが際立つのであるということが書かれていたのを思い出した。
 昔,といっても平安朝時代であるが,氷のことを「ツララ」と言っていた。『源氏物語』の「末摘花」に次のような歌がある。
 朝日さす 軒のたるひはとけながら などかつららのむすぼほるらむ
「日が射して軒のつららは溶けているのに、なぜあなた(末摘花)は黙ったままでわたし(源氏)にうち解けてくれないのですか」という意味である。
 この歌から,「軒のたるひ」とあるから,今でいう「ツララ」は「タルヒ」といったことがわかる。「タルヒ」は,垂氷と書く。
 末摘花の話はご存じ方も多いと思うが,鼻が垂れ下った姫君である。それを軒に垂れ下ったつららに喩えているのである。
 さて,朝から自転車の乗っていると大変指先が痛くなる。手も凍えるさまを「ツメタイ」というが,これは「爪痛い」からきている。
 ちょっと1年生のクラスでインフルエンザが流行っている。寒さとともにそちらの方にも気をつけて欲しい。

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