最新更新日:2020/03/27 | |
本日:1
昨日:3 総数:221287 |
お父ちゃんが直したら・・・
今日から3月,学校にとって喜びの春です。22日には,6年生が小学校の課程を修了し卒業します。二人の先生にとって,感無量の時を迎えます。
私は,この一年「校長室から」二人の先生(保護者と担任,PTAと学校)が常に子どもの学び・育ちについて理解と協力,そして信頼と切磋琢磨等が大切であることを伝えてきました。それが,子どもの調和のとれた成長につながると信じています。 しかし,二人の先生が常に,信頼し,同じ方向性で子どもたちに向かえたかというと,不十分なこともあったと思います。特に,教えることのプロである我々が,反省しなければならないこともありました。保護者の方からいただいたお言葉を真摯に受け止めていきたいと思います。 さて,今までの私の経験の中で,ある子どものことをお話します。 この子は,残念ながらことばで自分のおもいや考えをつたえることが苦手で,つい手や足が出ることがありました。担任も再三指導し,おうちにもお知らせすることもありました。私もそのような場面をみて,その子を指導することがありました。その時のことです。 「どうして,気に入らないことがあったらたたいたりけったりするの。」 「わからん。」 「自分がされたらどうや。」「いや。」 「自分がされていやなことを何でするの。」「・・・。」 私は,ふと考えて話題を変えてみました。 「君がおうちで何かいけないことをした時,おうちの人はどうする。」 「たたかはる。」「だれが。」「みんな。」「みんなって。」 「お父さん,おじいちゃん。」 この短い会話の中から,彼の今までの学びの中で「二人の先生」が十分協力できていないことに気づきました。 「お父ちゃんがたたいたり,けったりしなかったら,ぼくもけらない。」という言葉の中に,自分はたたいたりけったりするのはやめよう,しかし,自然と意に反する動きが出てしまう,ということが伝わりました。 二人の先生は,「この子にとってこれが一番よい方法だ,このことがこの子の将来のためだ。」と思って,教育(しつけ)をします。しかし,子どもが表す態度・表情・行為がその答えとなります。 校 長 藤田 弘明 マナーについて
一年中で一番寒い時期を迎え,寒波襲来で大雪の被害も出ています。今まで,雪の被害を他人事と思っていた私にとって,京北は雪の怖さ,恐ろしさを体験させるところでした。「常に自分の問題として考える」ことがいかにいい加減であったかを改めて反省しました。
さて,過日ラジオを聞いていますと,「電車の中で化粧をすることはどうか」,についての話題がでました。運転中でしたが,とても興味深く思い,聞き入ってしまいました。私としては,公共の乗り物の中で化粧をすることに賛成はできません。でも,何がいけないのか,と言われたら返答に困ります。自分の経験だけでは判断できにくい,と実感しました。 その中で,マナーという言葉がしきりに出てきました。マナーとは,態度,礼儀,礼儀作法という意味です。このことが,「電車の中の化粧」と関係があるのでしょうか。 そこで出された一つの考え方として,「電車の中で化粧する」ことは,他人に迷惑をかけることではない。だれかを傷つけるものでもない。しかし,それを公衆に見せるものでもない。見たくない人もいる。という結論でした。結局,「電車の中で化粧する」行為を誰にも迷惑をかけないから自由でよいという考えと,公共の場としてふさわしくないという社会通念上どうかという考えで,話し合いは平行線でした。 皆さんはこのことをどう思われますか。 また,ある学校で参観日に「携帯電話をマナーモードにしておいてください」「学校でガムをかむのはやめてください」「授業中の私語を慎んでください」などのお願いや掲示があったそうです。 先程の「電車の中で化粧する」ことと,参観日のことと同じように考えられないかも知れませんが,残念ながら「マナー」の低下や「マナー」が十分教えられていないことは現実です。 本校においては,参観日にそのようなお願いをすることはありません。保護者の皆様に参観のマナーがあります。 マナーは次第送りです。二人の先生から子どもたちに伝えられるものです。個性を尊重することはもちろん大切ですが,そのこととともに「マナー」の向上を目指して,よりよく生きることを伝えたいものです。 自分もみんなも大切,たれもが気持ちよい学校や社会にしていきたいです。 校 長 藤田 弘明 新年におもう
明けましておめでとうございます。平成24年が始まりました。皆様はどんなお正月をお迎えになりましたか。それぞれのご家庭で,地域で温かな雰囲気に包まれた年明けを味わっておられたことをお察しいたします。どうぞ今年も学校をご支援いただきますようよろしくお願いしたします。
新年を迎えるにあたって,「竹」についてのお話をします。 「竹」はまっすぐに上へ上へと成長します。雪などの重荷がかかってもそれに耐え,それに打ち勝つ強さがあります。そして,成長の証として,「節」を作ります。このようなことから,人々は「竹」に愛着を感じ,縁起のよい植物とされてきました。 このことを教育で考えてみると,一面,子どもたちの素直で,力強く生きていくことは「竹」をお手本して考えることができます。ただそのことより,より大切なことは,「節」があることだと思います。 「節」には,たくさんの意味がありますが,その中に,「区切りとなる箇所・段落」という意味があります。新年を迎えることは,だれにとっても新しい区切りとなり,リセットの機会なのです。つまり「節目」なのです。この節目をどうするかです。 われわれ大人以上に子どもたちは,「こんなことをがんばる」「次はこんなことができるようになりたい」というおもいを持ちます。これがやる気・意欲のきっかけになります。 新年という「節」を次のステップ・次への飛躍と考えてください。 二人の先生にお願いがあります。 今までのことを反省したり振り返ったりすることはとても大切なことですが,そのことで「この子はまた・・・」「この子は・・・だから」という決めつけやあきらめをしないでほしいのです。 子どもたちは,新しい「節」を迎え,新しい自分に挑戦します。どうか二人の先生が力を貸してください。 立派な「竹」を育てるには,土づくりはもちろん日頃の作業に手を抜くことはできません。節々でしっかり子の成長を点検できる,見守れる二人の先生であってほしいと願います。 校 長 藤田 弘明 二人の先生の本気
子どもたちにとって,学校は学びの場であるとともに,ほっとできる居場所です。しかし,自分を高めるために努力やがんばりが必要です。自分自身をなまけさせないようにコントロールする力も大切になります。
けれども,人間は楽な方に流れようとしてしまいがちです。自分を律して頑張り続けることはなかなか大人でもできにくいです。だから,二人の先生の支援が必要になります。 自分が見聞きしたことをお伝えします。 この高学年の学級では,忘れ物が多く,宿題がなかなか提出されませんでした。そのため,授業もなかなか活発なものになりませんでした。それに加えて,学習中に「しんどい」と訴えて保健室にいく子もたびたびいました。このような状態ですので,学級のまとまりに欠け,悪ふざけや人のいやがることをする子も見られました。 そこで,担任はこの様子を学級懇談において,包み隠さず保護者に伝えたのです。そのことを聞いたもうひとりの先生は,それを担任の責任・担任の力量不足と言い切ることなく,「家庭で出来ることはないか,どんな声かけをすればよいか」という話し合いになりました。「うちの子に限って」ではなく,「うちの子もあり得る」という声がでてきました。何と素晴らしいことでしょう。 また,担任は学級全員の子とのヒアリングの時間を作り,それぞれの子のおもいや考え,悩みを聞きました。初めての試みです。これによって,今まで隠れていた学級での出来事を知ることができました。子どもたちと担任との関係が近づいたのです。 これらのことを通して,学習中に「しんどい」と訴えて保健室にいく子がほとんどいなくなり,忘れ物も少なくなり,学習の雰囲気もずいぶん変わりました。少しずつ高学年としての学級集団になってきました。 この経験から,二人の先生が本気で「子どもをおもう」ことにより,子どもたちは変わることを実感しました。子どもは二人の先生を試しているかも知れません。どれだけ自分たちのことを信じてくれるかを。 二人の先生が,互いに責任転嫁なく自分が何をすればよいかを考え,実行することで道は開けます。 ただ,子どもたちは絶えず前進しています。この方法がよかったからといって,次もうまくいくとは限りません。二人の先生は,決して,子どもが悪い,子どもの「せい」にしない気持ちを常に持っていたいものです。 校 長 藤田 弘明 子育てのむずかしさ
二人の先生は,常に子どもたちに愛情を注いでいます。いっしょうけん命子育てを行っています。しかし,子どもたちが,二人の先生の思い通りに育っているか,と考えるとはなはだ疑問です。
こんな話を耳にしました。 「子育ては,愛情だけではだめです。子どもが何を求めているかを知らないといけないのです。」と。このことを聞いて,自分自身を振り返ってみました。「自分の経験や思い込みで,こうした方がよいとか,こうすべきである,という判断を子どもに押し付けてきたことがありはしなかったか。」「子どもの言い分や願いをじっくりと聞いて,それを尊重したか。」「自分の思っているレールに子どもを走らしていなかったか。」などと。 いろいろと考えてみると,自分のやってきたことに反省しきりです。 また,次のような話もありました。 「大人も子どももどちらであっても,自分を認めてほしい,よく思われたいという気持ちは一緒です。だから,自分を美化してしまったり,相手を悪くけなしたりしてしまいます。相手を低めることで,自分をよく見せたいのです。」と。 そこで,そのような言動を,子どもがしていたら・・・。もう一度子どもへの関わり方を点検・見直しをする必要があります。そのような言動は,自分のことをわかってほしいという子どもの声なのです。 この二つの話から,二人の先生はどんなことを考えますか。 二人の先生は,子どもたちの言動や態度から自分の子育てを振り返り,よりよい方向を見つける努力が必要です。そのために,二人の先生の協力・協働が始まります。 二人の先生は,人任せにしたり,人のせいにしたりしてはいけません。 校 長 藤田 弘明 二人の先生のねがいと役割
「やさしい子になってほしい,賢くなってほしい,元気でたくましく育ってほしい」というのは,二人の先生の願いです。しかし,このように二人の先生が願っていたとしても,子どもはなかなかそのとおりには育ちません。それはどうしてでしょう。その原因がわかれば・・・。
そこで,二人の先生が本当に理解し合って,協力しているのかを確かめなければならなりません。 学校の先生は,子どもに確かな学力が身に付くような手立てや支援を行っているでしょうか。わかる授業・楽しい授業に努めているでしょうか。また,学校や学級で居場所のない子どもをつくっていないでしょうか。学校(学級)は,子どもたちにとって安心・安全の場所であり,友だちと楽しく交流するところです。決して,いじめや仲間外れなどが起こらない取組が必要です。 これらのことが,学校の先生に課せられている役割です。 では,もう一人の先生(保護者)はどのようなことが大切なのでしょう。「早寝・早起き・朝ごはん」です。子どもを健康な状態で学校に通わせているでしょうか。このことは,学校の先生には出来ないのです。いくら子どもたちに「早寝・早起き・朝ごはん」が大切だと指導しても,実際にそれをするのは,もう一人の先生です。寝不足でしんどい,朝ごはんを食べてなくておなかが減っている,このような状態で能率よく学習するのは不可能です。また,眠かったり,おなかがすいていたりしたら,不機嫌になるのは当たり前です。だから,友だちとトラブルを起こしてしまうのです。また,学習の準備物・持ち物についても,もう一人の先生にお願いしなければなりません。高学年になったとしても,宿題や持ち物の忘れ物が続いているなら,声かけや励まし・点検が要ります。 もう一人の先生(保護者)の理解や協力がないと,有意義で充実した学校生活が送れないのです。もう一人の先生の応援がないと,「学習する」場に上がれないのです。 二人の先生によって,子どもたちは守られ,「生きる力」を育んでいきます。今後とも二人の先生は,子どものために,子どもを中心にすえた学習(生活)を構築していくことが重要です。 二人の先生は決して,責任のなすり合いをしてはいけません。それぞれの欠点を補うとともに,自分に何ができるかを常に考え,行動したいものです。 理解し合う,協力し合う二人の先生がいる学校(学級)が京北第一小学校でありたいです。 校 長 藤田 弘明 夏休み明け
夏休み中には,普段学校では経験できない活動がいろいろ取り組まれます。今年の夏休みは,朝学習の充実について取り組むことができました。地区別懇談会において,保護者の皆様にお願いしたところ,いろいろなご事情はあったと思いますが,学校のおもいを汲んでいただき,実施の運びとなりました。
午前8時以降から,子どもたちはそれぞれの会場(ほとんどが地域にある公民館です)に集まります。朝のあいさつの後,それぞれが今日の学習をすすめます。夏のドリル,漢字や計算プリント,今までに出来ていない課題など,です。わからなかったり,つまずいたりしたときは,担当の先生や上級生にきいて解決していました。ある程度,学習時間が過ぎると,今度は「みんな遊び」です。ゲームをしたり,体を動かしたり・・・これも上級生が中心となって,とてもスムーズに進んでいます。 この地域学習には,以前にお知らせしたようにいろいろなねらいがあります。その中で,特に重要に思うのは,地域の上級生を中心とした学習(活動)を通して,よりよい集団づくりをめざすことです。上級生は,下級生のよきお手本となる努力をしていました。下級生も上級生のいうことを素直に聞き,それに応えようとしていました。このような関係の中で,この地域に住む仲間意識や愛着ができていくと感じました。このような取組は,本来学校が主導することではないかもしれませんが,昨今人間関係が希薄になったといわれることに対して,何かアクションをしなければいけなくなったと思います。 すべての子どもたちが,この取組のおもいを次へ次へと引き継いでいくことを期待します。そして,「自分がしてもらったこと」を次のだれかにする,この気持ちと行動が途切れることのないよう二人の先生は支援していきたいものです。 蛇足になりますが,地域の行事に参加されたあるPTA役員の方のお話です。 「私たちや子どもたちが楽しんでいる時に,こうしてパトロールしていただいていたのですね。私は,今まで全然知りませんでした。PTAの役員になって初めて知りました。」 今まで,その役割をしてくださった方へのねぎらいと感謝の気持ちが伝わってきました。 校 長 藤田 弘明 温かな心にふれることで,子どもたちは成長します
7月21日〜22日恒例の6年サイクリングキャンプがありました。20日は,台風の影響で休校となりましたので,最終の確認・点検もできないままの実施でした。また,台風一過の晴天を期待していましたが,当日はあいにくの曇り空。出発の頃は,小雨が降り,肌寒ささえ感じました。
そのような中で出発式が行われ,代表のあいさつと元気な掛け声を後に,一路常照皇寺を目指しました。 常照皇寺では,神妙な態度で仏像に手を合わせたり,仏間や庭園の美しさに見とれたりしていました。 次に,塔村古墳で休憩した後,最大の難所である狭間峠を越えました。 国道162号を横切ると,次の目的地である永林寺はもう少しです。予定より少し遅れましたが,永林寺に無事到着し,昼食にしました。つかの間の休息に行程の半分を過ぎた安ど感がただよっています。おいしいお弁当を召し上がって,新しい活力がみなぎってきました。五本松・熊田・下熊田・明石・中地・栃本を経て,魚ケ淵の吊り橋で記念写真を撮り,そして,予定より早く学校に到着しました。 そのあとのも活動は続きます。 この一連のサイクリングは,京北地域ならではの取組です。子どもたちも6年生になったら,サイクリングキャンプがあると心待ちにしています。これが伝統です。 私は、今年のサイクリングで次のようなことを思いました。 先程も述べたように,小雨交じりの肌寒い天気の中での実施でしたが,誰一人として,天気に文句をいったり,いやなそぶりを見せたりすることはありませんでした。また,サイクリングの道中,特に上り坂ではしんどくなって,自転車を押している子もいましたが,その子らの口から文句はありません。 何と素晴らしいことでしょう。人間は,自分の思い通りにならなかったり,困難にぶち当たったりすると,人のせいにしたり,文句を言ったりすることはよくあります。しかし,このサイクリングではその声を耳にしなかったのです。 また,保護者の方や地域の方が至るところで,子どもたちを出迎え,応援していただきました。これも子どもたちの大きな力になったと思います。自分たちがいろいろな方に見守られていることに気づいたのでしょう。 二人の先生の力で,子どもたちに大きな思い出を作ることができました。こんな子に育ってほしいという二人の先生の同じおもいが,子どもたちに伝わったのだと確信します。 校 長 藤田 弘明 子どもは大人の鏡!
私の教え子からこんな相談を受けました。
「1歳10ヶ月になる娘が,保育所で暴行を働いている。どうしたものか。」というものでした。暴行という言葉は,穏やかではありません。じっくり話を聞いてみました。すると,娘は気に入らないことがあると,すぐに手が出てしまうらしいです。友だちが何人か被害にあっているらしいです。そのことを少しオーバーに表現しています。 そこで,教え子である父親に尋ねてみました。 「君は,娘が何か悪さをした時,どういうふうにしかるの?」すると,父親は,「つい,手が出てしまいます。」「自分ではいけないと思いながら・・・」と答えました。 私は,やっぱりと思わずにはいられません。 たった1歳10ヶ月の子どもが,体で親から学んだのが,相手をたたくということだったのです。そして,聞くところによると,たたき方も親そっくりだったそうです。 私は,この教え子とのやり取りの中で,教育のこわさを感じました。生まれた子どもは,人をたたくことがよいことか悪いことかは知りません。ただ,一番身近で一番大好きな親のすることに従います。だから,親のしていることを自分に受け入れ,取り入れていくのです。 私との会話の最後で,父親は,「ぼくが娘をたたいたことをまねしています。これから気をつけないと・・・」時には,体で教えることも大切だといっていた彼も,娘が他の友だちに手を挙げていることを聞いて,考えさせられたのでしょう。 今からでも遅くないです。ことばで諭すことに励んでもらいたいです。 このことを,学校に置き換えてみることにします。学校では,手を挙げて指導することはありませんが,一番身近な担任の身振りや言い回しなど,知らず知らずに伝わることはよくあります。友だちへの叱り方が,担任の言い方とそっくりだったという例もあります。子どもたちは担任の先生のまねをしています。 子どもたちを責める前に今一度,二人の先生が自分自身を振り返りたいものです。 子どもたちが変わった,昔より悪くなったという声を聞きますが,その原因はわれわれ大人にあります。大人自身が変わった,悪くなったということかも知れません。 二人の先生は,自分がよりよく生きる姿を子どもたちに伝えていきたいものです。 大人が「気づき,考え,行動する」こと
東日本大震災から,早三ヶ月が過ぎようとしています。人々の努力により少しずつ復興はすすんでいますが,まだまだ普段の生活に戻るには多くの時間と労力が必要です。「ライフラインが十分ではない,常に不安や恐怖を感じる」という声も聞かれます。
学校が学びの場でなく,避難所としての機能が優先にされています。また,戸外で活動できずに,体育館や廊下での体育学習や部活動も目にします。 幸い本校は,学校が学校としての本来の役割をしています。子どもたちは,素晴らしい環境の中で,しっかり学習しています。広い運動場で思いっきり体を動かすこともできます。本当にありがたいことです。しかし,この日本で,先に述べた惨状の中で生活する子どもたちもいます。 子どもたちに,「人の身になれ」「無関心ではいけない」と常に話をしていますが,実際子どもたちにとって「東日本大震災」はどのように映っているのでしよう。彼らにとって,いや私たちにとって,他人事になっているのでしょうか。 われわれ大人たちが,「自分にできること」を考えて,行動することで,子どもたちに事の大事さを伝えていかなければいけないでしょう。 われわれは,チーム日本の一員なのですから。 二人の先生にとって,この宿題はとても難解で,時間がかかります。しかし,「自分の問題として考える」子どもに育てていかないと,いつも他人任せで,すぐに責任転嫁するようになるでしょう。 どんな環境に置かれても「自分も周りも大切にできる」京北第一の子どもであってほしいものです。 |
|