最新更新日:2024/04/01 | |
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企業見学で造船所を訪問
昨日7月13日、京都ものづくりコースの2、3年生が企業見学で、ジャパンマリンユナイテッド株式会社様を訪問、舞鶴事業所を見学させていただきました。同事業所は明治36年(1903年)11月に開設された舞鶴海軍工廠を前身としており、防衛省、海上保安庁向けの艦船や各種商船の新造・修理を行っています。
造船所内をバスで回り、鉄鋼の切断、小ブロックの組立て、小ブロックから中間ブロックの組立てや中間ブロックの運搬、塗装、艤装など貴重な製造工程を見せていただきました。 ドック内には修理の艦船や新造の商船などもありその巨大な姿に生徒たちも驚いていました。担当の方のお話では「造船はまだまだ人手に頼る工程も多く、冬は寒く夏は暑い屋外での作業もありますが、アイディア次第で大きな製造コスト削減などもできるので、やりがいのある仕事です。興味がある人はぜひチャレンジしてください」とのことでした。 見学の後、生徒からの質問にもたいへん分かりやすくご説明をしていただきました。ご多忙な中を見学させていただき、貴重な経験ができました。ご担当者の方々に御礼申し上げます。本当にありがとうございました。 剣道 近畿大会
7月11日(土),12日(日)にハンナリーズアリーナで第53回近畿高等学校剣道大会が開催されました。洛陽工業高校は,団体戦,個人戦ともに出場しました。
本大会は,京都府個人戦の優勝者である小川紘夢君と日吉ヶ丘高校の女子選手のすばらしい選手宣誓で幕をあけました。 団体戦で,洛陽工業高校は,3チームを一組とする予選リーグで2戦全勝し,決勝トーナメントにコマをすすめました。決勝トーナメント初戦は,リードを許す難しい戦いでしたが逆転で勝利。2回戦は,残念ながら和歌山東高校に敗れ,団体戦は,ベスト8でした。 また,個人戦に出場した小川紘夢君は,2回戦,3回戦を見事な突きなどで決め勝利しました。準決勝では,残念ながら敗れ,3位となりました。しかしながら,称賛されるべき3位だと思います。 剣道部は,この後,九州での玉竜旗剣道大会へ出場し,8月には和歌山インターハイに出場します。選手の大いなる活躍,成長を期待します。 染織学校の行事 ウサギ狩り
染織学校の校内行事にはウサギ狩りもあったようです。当時の記録(大正4年3月)では、「生徒たちの楽しみの行事の一つにウサギ狩りがあった。毎年1月に西賀茂や岩倉あたりの山で行われていたようである。山上に網を張りめぐらしておいて、勢子になった生徒たちがふもとから、声をかけながら追い込んでいく。ウサギは山上めざして駆けのぼり網にかかる。それを生け捕りにするのである。ウサギ狩りは生徒の心身鍛錬をかねた行事として、その後の京一工時代にも引き継がれた。」とあります。
残念ながらウサギ狩りの写真は残されておりませんでしたが、下は当時の卒業生の写真です。 染織学校 授業風景
当初、染織学校は入学志願者が少なかったと先日述べましたが、利点になっていたこともあります。記録によると、「ともかくも染織学校は入学志願者が少なく、校長自ら人力車に乗って生徒募集に戸別訪問したというが、そのことが逆に利点ともなっていた。生徒と教師が直に触れあう機会が多いほど、学校は豊かな人間教育の場として機能する。皮肉にも生徒数が定員に満たないことによって、当時の染織学校はいい意味で教師と生徒の関係、さらには上級生と下級生の関係がきわめて密接であった。予科1年の生徒も本科4年の生徒も、たがいに顔見知りでまるで兄弟のように親密であったという。」とあります。
当時の卒業生の話として大正初年ごろの学園風景は、「(前略)4人くらいのクラスですと、先生と生徒が向かい合わせになって、冬ともなればストーブの周りに集まって講義を聴く。(中略)学校の先生と各学年が別れましても、生徒間のおつきあいといいますか、交際というものは非常に親密でありまして、学校内が融和されていたように思われます。」と記されており、授業含め学校全体がのどかな雰囲気だったようです。 (洛陽工高百年史より引用) 染織学校 学校行事と校友会
染織学校の校内行事は、すべて校友会によって企画、運営されていました。記録によれば、「校友会には学芸部、体育部、会計部があり部長は教員、幹事、理事の各委員は生徒たちの互選で選出されていた。学芸部は、(中略)年1回以上の雑誌『錦友』の発行、染織競技会の開催、懸賞図案募集、懸賞作文募集、年2回の講談大会の開催を内容としていた。
体育部は、『各自の健康を保全し且気力を養成する』のが目的で、野球部、庭球部、蹴球部のクラブ活動、秋季陸上運動会の開催、遠足、旅行などの運営にあたった。」と記載されています。下記は当時の野球部、庭球部の貴重な写真です。 (洛陽工高百年史より引用) 染織学校 初期の試練
当時の記録によると初期の試練と題して「初期の染織学校の深刻な悩みは慢性的な入学志願者不足だった。」と記されています。
その詳細は、「明治27年(1894年)度から明治44年(1911年)までの卒業、終了生数と、その中に占める市内の人数について、表より19年間の推移は、生徒数は学年60人の定員を大幅に割り込んでいるばかりか、市内の生徒は相変わらず少ない。(中略)とくに機織科の生徒は西陣からの入学者が少なく、京都の染織工業の発展をめざして染織工業は創設されたのだが、実際の当業者は工業教育に大きな期待を持ってはいなかったらしい。学校教育に対する無理解と職人気質ゆえの視野の狭さが、生徒不足の原因となっていた。」と記されています。 さらに「生徒数の不足に加えて他府県の生徒が市内の生徒数を上回っていた」ことが問題視されていたのでした。 この対応として「校長をはじめとする教職員と京都染物同業組合理事が生徒募集に奔走」、こうした努力の結果、明治39年(1906年)ごろから効果が現れてきたと記録されています。 (洛陽工高百年史より引用) 染織学校に皇太子殿下ご来校
烏丸校舎に移転して2年後の大正2年(1913年)4月2日、二条離宮にご滞在中の皇太子殿下と淳宮さま、光宮さまが染織学校観覧のためご来校されました。9時15分ごろ馬の蹄の音がかすかに聞こえてきて、やがて護衛の警官を先頭にお車がゆっくりと校門にさしかかり、生徒たちが敬礼するなかを、皇太子殿下と宮さまがたは9時30分に校内にお入りになりました。
校長の案内で2階の控室に入られ、実習工場から順次校内をご覧になり、機織実習工場では機織部の4年生が繻珍織機を運転するとともに、手織機によるリボンの製織をご覧にいれたそうです。また、色染実習工場では浸染実習、型染実習、引染実習を行い、色染の機械を運転してご覧にいれ、聯隊旗と国旗を染めてのちに校長を通じて献納したとあります。 皇太子と宮さまがたは、それぞれを興味深くご観覧になったあと、再び控室に落ち着かれたのち、午前10時に学校を出発されました。染織学校としては光栄なことで関係者は大いに励みにしたと記録されています。 (洛陽工高百年史より引用) 期末考査始まる
本日7月6日、1学期の期末考査が始まりました。5日間に亘り今週末まで行われます。生徒たちは試験直前まで、ノートやプリントを見て準備に余念がありませんでした。
どの学年にとってもたいへん重要な試験です。台風が近づく可能性もあり不安定な天気が続きますが、体調管理に気をつけて日頃の成果を出し切ってほしいと思います。 ハイパー2年生 課題研究でロケット打ち上げ
昨日7月2日、ハイパーステージ2年生の課題研究で小型ロケットの製作と打ち上げ実験を行いました。ロケットは火薬式のエンジンを搭載するタイプで、2名で1機を製作、ロケット本体、パラシュート、尾翼の形状、重りなど工夫を凝らしながら作りました。
思惑通りにうまく飛行した機体もあれば本体が重くなり、十分な高度まで上がらなかったものなどそれぞれでしたが、自分たちが製作したロケットを打ち上げることができ、生徒たちは達成感が得られた様子でした。 これをステップにして、今後は来年3月の打ち上げを目指してハイブリッドロケットの製作を始めます。 山岳部 比叡山への山行
6月28日、山岳部は部員4名で比叡山(標高838m)に定例山行を行いました。叡山電鉄修学院駅に集合し、メジャールートであるきらら坂登山口を目指します。山岳部恒例の雨が降り始めましたが、京都市内が一望できる水飲対陣跡に着く頃には小雨となりました。
尾根を進み、ロープウェイをくぐり山頂近くにあるガーデンミュージアムを過ぎた奥に、四明岳三角点(838m)があります。その後つつじヶ丘に戻り、昼食を取りました。天候がよければ、大原や岩倉等京都北部の景色が見えるのですが…。 横高山を経由し大原へ下りる予定でしたが、天候不良のため南に引き返す事にしました。歩行距離を同じにするため、京都一周トレイルの東山コースに入り、修学院駅に戻りました。 |
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