最新更新日:2024/09/25 | |
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ちょっといい話−18−
新聞にあった投書から「ちょっといい話」を紹介します。
『先日,近鉄の駅裏で,通りがかりの若い男性の携帯電話を借りました。若者は他人のことには無関心といいますが,こんなすてきな若者もいると思うと,うれしくなりました。 その日,公衆電話を探しましたが,見つかりませんでした。通りがかりの若者に尋ねましたが分からない,とのことでした。困っていると,道路を渡っていた若者が引き返してきて「よかったら携帯電話を使って」と言ってくれました。お言葉に甘えて借用し,電話番号も押してもらいました。電話代を払おうとしたら,「いいですよ」と行かれてしまいました。紙面を借りてお礼申し上げます。(73歳主婦)』 ※困っていたおばあさんの顔が,暖かな笑顔に変わっていく様子が目に浮かんできます。そんな素敵なことがあったことを,その時,他の誰も気がつかなかったかもしれません。その空間と時間には,きっと暖かな空気が流れていたことでしょう。日常のささやかな人と人との向き合いの中から,暖かな空気が生まれてくるのだと気づかされた「ちょっといい話」でした・・・。 (写真は「学びの共同体」研究会に参加して,宿舎から見る大海原です。) 学校評価「保護者アンケート」集計結果
平素より本校教育にご理解ご協力をいただき,誠にありがとうございます。
昨年末の12月,個人懇談会時にご協力いただきました「学校評価保護者アンケート」の集計ができましたので,お知らせいたします。 配布文書一覧にアップいたしました。またアンケートでは,たくさんの貴重なご意見をいただきました。教職員一同,しっかりと襟をただし,真摯な姿勢で教育実践に臨んでいく所存です。今後もよろしくお願い致します。 3年生は,今日からテスト前の放課後学習です。
昨日は,本校周辺にも雪が積もり,道路は凍っている状態でした。寒さが厳しくなる一方ですが,震えてばかりもいられません。
3年生は,来週の水曜日から学年末テストがあります。いよいよ中学校最後のテストです。受験に向けての勉強にも直接つながっていきます。悔いが残らぬよう,中学校の学習の総まとめをしてください。 1995.1.17 あれから16年・・・鎮魂の祈り・・・。
16年前の1月17日午前5時46分,先生はマンションの4階で就寝中に,地下から怒号のような音をきいた瞬間,今まで経験したこともない大きな揺れを感じました。そのときは,子供がまだ妻のおなかの中にいる状態でしたので,タンスや本棚が倒れてこないように必死で支えていたことを今でも鮮明に覚えています・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6434人が亡くなった1995年の阪神大震災。昨日,兵庫県内各地で追悼行事が行われました。神戸市中央区であった,市と市民団体による「1・17のつどい」で、遺族代表の小河昌江さんが涙で声を詰まらせながら「追悼のことば」を話しました。 『「感謝」には「種」があると思います。誰かに感謝の気持ちを持った時,自分の心には感謝の種がまかれ,その種はやがて育ち,花を咲かせ,実がなり,そしてまた種を作り,その種は違う誰かの心にまかれ,また花を咲かせていくのだと思います。 私は,阪神・淡路大震災で母をなくしました。すぐにかけつけた時,2階建てのアパートは見るかげもなく,がれきと土の小高い丘のようでした。道具も知恵も勇気もなく,立ちつくす私の前に現れたのは,近くの工務店の寮に住む若い男の人たちでした。 彼らは,まだまだひどい余震が続く危険な状態の中,がれきをかき分け,生き埋めになっているアパートの住人を次々に救い出してくれました。 でも,母はなかなか見つかりません。彼らは余震の合間をぬって,何度もアパートの1階にもぐり,とうとう母をみつけてくれました。 「お母さん,お母さん」,呼んでも母は答えません。でも,握った母の手はまだ温かい気もして,私は「大丈夫。大丈夫」と自分に言い聞かせ,母に迫ろうとしている死の気配をどこかへ押しやろうとしました。 救急車も呼べるはずがない状況の中,私と母は1台の乗用車に案内されました。助けて下さった工務店の方の車です。彼は,私と母を乗せ病院へ向かい,付き添ってくれました。 病院は人であふれかえり,医師たちは足早に廊下を往復し,やがてぽつんと廊下に立ちつくす私のそばで1人の医師が立ち止まり,母の手を取り,一言「何時何分」とだけ看護婦さんに告げ,また足早に去って行きました。 私は,その時はじめて母の死を現実としてつきつけられ,涙が一気に溢(あふ)れ出しました。そして,付き添って下さった工務店の方が帰られる時,私はその後ろ姿にただただ深く頭を下げ,彼の姿が廊下から見えなくなるまで見送る事しかできませんでした。 震災の光景は決して忘れる事はないでしょう。でも,それと同時にいつも思い出すのは,あの勇気ある工務店の寮生たちの行動で,私はその度に深い感謝の気持ちを覚えます。そして不思議な事に,その感謝の気持ちは薄らぐ事なく,逆に日に日に深く大きなものになっていくのです。 私は,あの震災の日,私の心に「感謝の種」がまかれたのだと思います。そして,その種は育ち,今私の心に花を咲かせているのだと思います。この花が実になり,種を作り,私もまた誰かの心にその種をまく事ができればうれしいなと思います。 最後に,震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り致します。 平成23年1月17日 小河昌江 』 ※16年前といえば,君たちはまだ生まれていませんでした。ですから,阪神大震災の恐怖や悲しみは直接は知りません。しかし,上の「追悼のことば」を聴くと,そのときの惨状が目に浮かんできます。惨状だけでなく,その中にあって人々が助け合い励ましあっている姿も目に浮かんできます。苦しみ・悲しみの経験と,助け合った絆を忘れずにいなければと思いました。 ちょっといい話−17−
人には,「喜怒哀楽」という感情があります。その中で,“怒り・哀しみ”,そして“勇気”というものを同時に感じさせてくれたお話がありましたので,ここで紹介します。「たったひとつの命だから」(ワンライフプロジェクト編)という本の中にあった実話です。
『私の友人の娘は,少し知能の発達が遅く,小学3年の時から養護学校に行きました。最初は学校が変わっても,近所の友達が遊びに来ていました。ところが,ある日,一番仲の良かった子が, 「ゴメン,もう遊べないんだ。“遊んじゃいけない”ってママに言われたから・・・。“一緒にいると馬鹿になる”って・・・。」 と,その仲の良かった友達は,平然と言ったそうです。私の友人である母親は,少し離れたところで聞いていて,次の瞬間,娘の表情を見たそうです。娘は“じゃあ,またね”と言って,ニコニコして友達に手を振ったそうです。ああ。言葉の意味がわからなかったんだな・・・と,私の友人であるその子の母は思ったそうです。もう遊べないのに,この子は友達を失ったことすら理解できないんだと,悔しくて哀しくて泣いたそうです。 言われた言葉の残酷さにボロボロに傷つき,そしてこの子はこの先どこまで社会に適応できる力を養えていけるのかと,不安が恐怖になり,不眠症が始まったそうです。・・・(略)・・・。 それから,半年が過ぎた頃,娘の養護学校の授業参観で,子ども達が作文を披露したそうです。娘はこう書いていたそうです。 「○○ちゃんが,私を馬鹿だと言った。私はそれを聞いたママがかわいそうでした。私が馬鹿だから,ママが悲しみました。私のママはきれいで優しい人です。ママを悲しませないでください」・・・。 私の友人であるその子の母は,この日を境に強い母親になることを決めました。それまでのクヨクヨしていた自分と決別し,とにかく娘を宝物だと自慢して,行くところすべてに同伴させました。 あれから12年・・・。成人式を迎えいい人たちに出会って,現在,娘はパン屋さんで働いています。友人はこう言います。「この子は知能が遅れているんじゃない,怒りという感情を持ち合わせていないのと,人よりのん気なだけなんだと。娘の焼くパンは世界一おいしいんだ!」と・・・。 人生何がきっかけで,生きる勇気を与えられるかわかりません。そのことを教えてくれた,親友の親子にいつも感謝しています・・・。』 ※人と人との関係を切っていく言葉のむごさに,怒り・腹立たしさを感じます。そして哀しみを覚えます。その逆に,偏見や差別に立ち向かい・抗う人たちの姿からは勇気をたくさんもらいます。そこでは,より豊かで確かな人と人とのつながりが生まれます。そんな関係がいたるところで生まれ,広がっていくことを切に願う「ちょっといい話」でした。 生徒会本部 朝の挨拶運動校内授業研−先生たちも学びあっています!−参観後,引き続き先生たちで熱心な研究協議が行われました。「一人ひとりが学びに参加していたか」「学び続ける子供は崩れない」等々・・・,確かな学力をつけるための「わかりやすい授業の創造」に向けて,先生たちも厳しく学び合いました。 一人残らず子供の学びの権利の実現を目指して!
3連休後半の9日(日)10日(月)に,1泊2日の日程で,熱海市で開催された「第3回学びの共同体 冬季研究会」に,本校から3名の先生方が参加しました。全国から300人を越える小・中・高・大学の先生方が参加し,「一人残らず子供の学びの権利を実現し,質の高い学びを保障する」をメインテーマに,熱心な討議が行われました。
この研究会では,ビデオで撮影した全国の小学校,中学校の授業記録をもとに,先生たちも3〜4人のグループで討議活動を行いました。1時間1時間の授業の中に,「一人ひとりにどのような学びがあったのか」を,厳しい目で点検しながら全国の先生方と学び合いました。 本校も「学びの共同体(小集団学習)」に取り組んで3年です。教室のコの字の机配置や,3〜4人の小集団でのグループ学習を取り入れていますが,その中身はどうでしょうか?学習に向かう全国の中学校の子供たちの様子をビデオで見て,その意味や目的をしっかりと踏まえた取り組み(授業)にしていかねばと改めて決意を固めました。 帰りの新幹線の中から見えた富士山は,やはり日本一にふさわしい堂々とした姿でした。そのどっしりとした雄大な姿を見て,春日丘中学校を揺ぎない「日本一の学校」にしようと誓いました。 明日1月12日(水)は,1年生で国語の研究授業と,先生たちの研究協議があります。先生たちの授業力の向上を目指して,活発な研修会が持たれます。 保健委員会からの今月のメッセージ1月は「インフルエンザの予防について」です。「うがいと手洗い」の仕方についての大切なポイントが,わかりやすくイラスト入りで紹介されています。本校でも週明けに,インフルエンザで欠席する生徒が少しずつですが出てきました。流行する前に,しっかりと「手洗い・うがい」で予防していきましょう! ちょっといい話−16−
昨晩から雪が降り,本日朝のグラウンドは,一面白い世界でした。寒さ厳しい季節になってきましたが,体調には十分に気をつけてください。
さて,1月10日(月)は「成人の日」です。その「成人の日」にまつわる「ちょっといい話」を見つけましたので紹介します。 『私が二十歳のころの話です。私には九十歳を越える祖父がいました。九十歳を越えても,眼鏡なしで新聞は読めるし,耳も遠くなく,丈夫で毎日畑仕事に精を出しているおじいちゃんでした。 私が成人式を迎えるころ,体調を崩し寝たり起きたりの繰り返しになりました。秋ごろから調子が悪く,大丈夫かなあと心配しながらの年越し,お正月でした。 そのころから,おじいちゃんの寝ているベッドの前には,カレンダーが貼ってあり,1月15日に赤丸がつけてありました。そのときは深く考えることもなく,「成人式の日に丸がついているなあ」ぐらいにしか思いませんでした。 成人式の日,振袖を着て,久しぶりに会う友達と色々話をしたり写真を撮ったり,ゆっくり時間を過ごしてから,祖父の待つ家へと向かいました。家に着くとベッドでおじいちゃんが待っていました。顔色の悪いおじいちゃんを見て,なんと声をかけたらいいかわからないままいると,おじいちゃんが和紙の巻紙を取り出しました。 そこには,「○○迎成人乃日」と習字で書かれていました。起き上がれないはずなのにとびっくりしていると,成人の日の朝,ベッドに座って書いてくれたのだと教えてくれました。傾いている一文字一文字におじいちゃんの九十二年間パワーが込められているようで,必死で書いてくれたおじいちゃんの気持ちを思ったら,うれしくて,本当に心底笑顔でおじいちゃんと写真を撮ることができました。その一週間後,おじいちゃんは亡くなりました。おじいちゃんは私の成人の日を指で数えながら生きてくれたんだなあと,今振り返っています。 おじいちゃんの「○○迎成人乃日」の掛け軸は,九年後,私の結婚式の朝に,実家の床の間に飾られました。おじいちゃんの力強い字が,私の結婚も祝ってくれているようでした。 』 ※「荒れる成人式」と,この時期テレビ等で取り上げられることがありますが,「成人の日」とは,二十歳を迎えた成人をお祝いする日ということ以上に,親をはじめ,ここまでいろいろな人に支えられこの日を迎えることができたことに,「感謝する日」であるということを考えて欲しいと思っています。 そんな大切なことに気づかせてくれた「ちょっといい話」でした。寒い日が続きますが,心がほっと温かくなるお話でした。 |
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