京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/10/02
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岡崎フェスタ 体育の部 10月11日(金)体育の部 (雨天の場合は18日に延期となります)

授業の命

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 先週の6日の金曜日,左京支部の授業研修会が行われた。この会は,保護者の皆様には,プリントでお願いしたように、教員の授業力向上を図り,生徒に確かな学力を付け,生徒の持つよさや可能性を伸ばすことを目的に行われるものである。
 岡崎中学校では,今年度は保健体育の授業を行った。保健体育の先生方には,遅くまで,これに伴う指導案等を書いてもらった。上にも書いたように,生徒の確かな学力,生徒の持つよさや可能性を伸ばす目的のためには,生徒の実態を知ることが何より大事なことである。その実態分析ができてはじめて,指導案づくりができるのである。
 わたしは国語であるので,国語でお話しするが,現行の学習指導要領の国語科では,「国語への関心・意欲・態度」「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」[言語事項]の五観点で国語の力を見取っている。一般には,この五観点は,国語の力としてどれも大事ではあるが,内容領域の「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の領域を一つ決め,「国語への関心・意欲・態度」・内容領域一観点・[言語事項]の三観点で見取ることになっている。
 例えば「書くこと」の指導を行うときでも,読むこともあり,話すことや聞くこともあるが,あえて書くことに焦点をあてて見取るのである。だから,生徒の実態といっても,国語がよくできるとか,苦手であるとかではなく,「書くこと」の実態分析をしなければならない。単元目標及び本時の指導目標を意識して,「書くこと」における課題を挙げ,その課題克服のために,どのように生徒に迫るかが授業なのである。
 本校の先生方には,年3回の校内授業研修とこの支部研修で,この生徒の実態分析を徹底してお願いし,授業に臨んでもらっている。生徒の課題を克服する授業こそ,真の授業なのである。そして,何より,本校でその実力をつけ,異動したとき,本校でつけた力を他校で波及してもらえることを常に願っている。わたしは,どこでも,だれにでも,こうした研修が行われる場所では,教科で採用された限り,教科で印象に残る教師になってくれと言っている。教科指導で勝負できる教師こそ,本当の教師だからである。

真摯に

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 昨日,四条烏丸にある産業会館8階のシルクホールで行われた「平成21年度麻薬・覚せい剤乱用防止運動京都大会」に出かけた。吹奏楽部が出演するからである。
 現在,といってもこの10年余り,第三次覚せい剤乱用期といわれ,覚せい剤事犯による検挙者が,高い水準で推移しており,その終息の兆しが見えない状態である。とりわけ,府内でも,高校生が逮捕されたり,先月も大学生が捕まったりと,若者の間での広がりが急増している。身近な友だちが使用していたり,薬物自体も身近な所にあるゆえ,手軽な存在として感じてしまう学生が多いからかとも思われる。本校でも,先月3年生を対象に「薬物乱用防止教室」を行ったが,第一は,正しい知識をしっかりと身につけることである。正しい知識を身につけること,つまり,その恐ろしさを知ることは,きっぱりと断る勇気も持つ基盤となる。さらには,そうした薬物の存在する危険な場所や場面についても考えが及ぶようになる。そして,何より,友だちとして,本当の存在を示せるかどうかである。そのためには,身を滅ぼす薬物に対して,真摯にいろいろな角度から考えられるかであり,こうした考えをもとに,行動する輪を広げていかなければならない。
 ところで,吹奏楽部であるが,本当に力を付けてきた。ホールの構造からか,むっくりした音で,素晴らしい演奏であった。「崖の上のポニョ」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」「Let’s swing」,そして,アンコールは,「Choo Choo TRAIN」であった。会場では,観客席からの手拍子や二人の掛け合いの進行に笑いが起こるなど,楽しいステージではあったが,なかなか堂々としたものであった。
 この出演には,夏に行われた左京区民ふれあい祭りに出たことがきっかけであったが,一つ一つのステージを丁寧にしっかりとこなしていくからこそ,そのあとに続くのである。そして,出演のためには,また,真摯に練習を積まなければならない。生徒たちは,こうしたことの繰り返しにより力を付けていくものであり,舞台に立つことで成長していくものだと確信した。顧問と共に,こうした舞台を提供してくださった関係各位に対して感謝するとともに,岡崎中学校を代表して,本校の素晴らしさを伝えてくれた部員にも拍手を送りたい。

左京支部授業研究会

今日午後からは、左京区の中学校の先生方全員で各教科の会場校に別れ、授業研究が行われています。先生方も、生徒たちに負けじと、真剣に勉強中です……。
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理屈なく

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 昨日の午前中,七条警察署の署長から連絡が入った。本校の教職員が動けなくて,困っておられたお年寄りを助けたということのお礼の電話であった。本人いわく,警察官と両脇を抱え,お家まで連れ帰ったということだ。当たり前のことをしたまでだと言ってしまえば,身も蓋もない。当たり前のことがなかなかできない世の中で,こうもいとも簡単に当たり前のことをしたことに,誇りを持ちたい。自然と体が動く,それが身についた人間性である。
 わたしが給食の空箱を返却に行ったとき,生徒もよく,開けたげよかといって,配膳室の戸を開けてくれる。ほんとに嬉しい限りである。どうしたらこうした生徒たちが増えていくのだろうかと考えたとき,それは,お年寄りを助けた教職員ではないが,自然と体が動くことだと思う。こうしなさい,ああしなさいという指示ではだめだ。教職員自らが動くことだ。理屈ではなく,体が動くことが必要である。自然と身についたものは,そうせざるを得ないのである。心の底からの思いが,その動きにつながるほど,心強いものはない。
 身をもって示すことが教職員の姿勢だと思う。朝校門に立っていて,挨拶を交わすが,なかなか挨拶が交わせない生徒もいる。おはようと挨拶をしなければならないことは誰しも分かっているはずだ。挨拶など不要だなどと思う生徒は,ほぼいないだろう。ならどうするかといえば,こちらから挨拶をし続けることだと思う。根負けせずにし続けることだと思う。教育とは,一日や二日で結果ができるものではない。根負けしないことだ。以前にも書いたことだが,くどくど説明することではなく,モデルを示すこと,つまり,モデリングなのである。そんな教職員が増えていくことが信頼を寄せられる学校の一つの姿であろうと思う。

共にある

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 昨日,京都市は「インフルエンザ流行発生警報」を出し,大きな流行が発生する危険性が高いと判断しました。一人ひとりがその予防に努めることが大切です。その第一は,手洗いとうがいです。手洗いは石鹸で,手の甲から指の間,親指,手の平,指先,手首としっかり20〜30秒ほど洗い,清潔なタオル等で水を十分に拭き取ってください。学校にも消毒用のアルコールが設置されていますが,アルコールの場合も,手洗いと同じ要領で十分に擦り込んでください。うがいもできるだけ喉をあけて,しっかりとしてください。また,十分に栄養をとり,規則正しい生活を心がけ,よく睡眠をとることです。また,飛沫感染も大きなポイントとなっていますので,咳,くしゃみなどもハンカチなどで押さえるなどの対策も必要です。そして,何よりお子たちの様子をよく見ていただき,適切な処置をとっていただきますよう,よろしくお願いします。
 インフルエンザの影響で延びていた生徒会の選挙が今日行われる。いつも思うことだが,もちろん候補者は,政策を訴えているのだから,そういった政策を実行していく責任があることは確かである。しかし,選ぶ側の責任もあることを忘れずにいて欲しい。とりわけ政策を支持して,投票をするわけだから,選んだ人は,その政策実行を手助けしていかなければならないと思う。選ばれた生徒会役員だけでできるわけでもなし,それらの生徒会役員を先頭に,皆が力を合わせることが,この岡崎中学校をよくすることなのである。共にあることが大切なのである。
 わたしは,大それたことを考えなくてもいいと思っている。なにか特別なことをすることが選挙公約のように思われているが,日常のことでもいいので,続けていける何かをすることがまずは必要だと思う。例えば,今の図書委員会は毎日,昼休み図書室を開けてくれたことが素晴らしいことだと思っている。文化・報道委員会では,今までと違って,昼休みに,試合にかけるキャプテンの抱負を流したり,お昼の放送でも,インフルエンザの注意を入れたりと,今までとはちょっと違った取組をしてくれたことで,ずっと幅のある活動になってきたように思う。
 できることを確実に,そして,いつも言っていることだが,今までの取組と一つ何かを変えればいいと思う。あれもこれもいらない。というのも,一つ変えるということは,玉突きが始まるからである。結果として,いろいろなことが動くのである。今日,昼から,立会演説会と投票が行われる。

和の大会

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 昨日,第35回日本PTA近畿ブロック研究大会和歌山大会へ出かけた。久しぶりの和歌山であった。『「和(なごみ)」〜つれもていこら!子どもの幸せのために〜』が大会スローガンであった。
 参加した分科会は特別分科会で,いわゆる地域コミュニティづくりの話であった。PTAからPCAであるという話を興味深く聞いた。Cはコミュニティということである。先生方に代わってCであるコミュニティが入ることの意義などを,和歌山県教委が行っている「きのくに共有コミュニティ」の取組を例に出しながらの話であった。そして,現況のPTAのTが管理職など一部のTだけであることが課題であるという話でもあった。また,この課題の発展系でもないが,発表者の中から,学級PTAづくりが大切であるという話が出された。もともとわたしは,学級づくりを基盤においた学校づくりが根底だと考えている。子どもの居場所として,身近な学級は最も大切な場所で,この居場所が心許せる所であることで,子どもたちは落ち着き,次の段階としての学習に身が入るのである。それを学級PTAづくりという話が出て,なるほどという思いになった。担任が計画的にしっかり学級づくりをすることは最も大事なことであるが,そのことを保護者も理解し,手を取り合っての学級を支える土台づくりをしようというのである。一人ぼっちの子どもつくらない,一人ぼっちの先生をつくらない,一人ぼっちの保護者をつくらないということであろう。さまざまな課題をかかえるPTAであるが,その基盤づくりを学級に求め,身近な場面での保護者の活動を広げていこうと考えることは,ボトムアップのPTAづくりの発想のように思えた。
 それぞれ学校の抱える課題は違うが,こういう会に出ると,思いもよらない,新しい発想なども飛び出し,はっと気づかされることがある。ただ,フロアーから,いろいろな取組があってもなかなか伝わってこないもどかしさというか知らされないことへの不満も出ていた。自分の学校なら,と置き換えながら,点検をすることが必要である。明日からどうこうということはないが,ちょっと元気をもらえた会であった。

また形式美

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 昨日,元春日小学校(上京区丸太町通河原町北西角)で,京都市産業観光局計量検査所主催の第42回計量の図画・作文展の表彰式が行われた。この作文の部の講評に出かけた。11月1日は,計量の日なのである。ちなみに,平成5年のこの日に計量法が改正されたことにちなんだものである。
 先々週の土曜日,地元小学校の運動会のときにも感じたことだが,表彰される側が,すなわち小学生のことであるが,賞状を受け取る形式が見事だった。形として,しっかり身についている。運動会のときは,優勝旗の返還だったが,その形式美も見事であった。
 さて,その作文の講評であったが,これまた形式美が問題である。ポイント挙げると,
・作文では題名を書いて,一応その内容を書くが,題名は仮である。作文を書き上げた のちに,内容を考えながら,題名を考え直すこと。
・段落の話は以前したが,空白美が必要である。山形が美しいと思うが,段落を空ける ためには,何字までに収めなければならない。すると,言葉遣いを考えたり,内容を 考えたりと,結果として書きたい内容の表現を練ることになる。原稿用紙の空白美を 忘れないこと。
・書いた作文は清書することが必要である。自分の作品である。作品はきっちりと下手 な字でもいいが,マス目一マス一マスに丁寧に書かなければならない。清書もせずに 提出すること自体,おかしいことであるが,そんな作文が多くある。きっちりと清書 すること。
 小学生の作文を見たが,本当にしっかりと形式を揃えているものが多い。それと比べると,中学生のそれ,とりわけ清書の欠落したものが多い。小中連携とよく言われるが,中学校は小学校がしっかりと指導している部分を認めることから始めなければならないように思う。小中の風土の違い,文化の違いとよく耳にする。当然である。違いをどうこう言ってもしかたがない。その前にちょっと待て,相手を尊重するというか,認めることからすべが始まることを,まずは考えなければならないように思えた。

知の源

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 10月も終わりである。あと1か月もすると,まねきが上がる。すると師走である。京都では南座であるが,地方にもいろいろな歌舞伎が行われてきた。
 ところで,「千両役者」という言葉がある。歌舞伎から出た言葉であるが,こんな説を読んだことがある。広島の宮島で行われる宮島歌舞伎と四国,香川の琴平,金丸座で行われる金毘羅歌舞伎が関連する言葉である。
 「千両役者」を『詳解国語辞典』(旺文社)で引いてみた。「格式・技量・人気が高い一座の中心的な役割」とあった。何故両者が関係あるのかといえば,役者が宮島で人気を得て五百両を手に入れる。そして,その向かいの琴平で,また,五百両を手に入れる。そして,上方へ上がって,やっと千両を手にした役者として認められるということである。ただ,「千両役者」については,いろいろな説があるので,また,調べてもらえればありがたい。
 いろは歌留多の「い」は,上方では,「石の上にも三年」であるが,江戸では,「犬も歩けば棒にあたる」となる。これは,五大将軍綱吉が犬公方と呼ばれていたことは,習ったことであろう。犬を保護したことから,綱吉の死後,江戸の町には犬が増えすぎた。そこで,捕り物をする役人たちは,捕り物に使う棒を,犬の足のあいだに投げ入れたのである。棒は必ず右か左かに向き,その棒に足をとられて転ぶというわけである。追っ手を捕まえるのに,人間では練習ができないので,犬を使ったのである。
 言葉には,それぞれ語源がある。本来の意味から遠くはなれてしまって,その面影もないようなものもある。しかし,ものの本質は,案外単純な真理かもしれない。
 本当の勉強(学問と呼んだほうがいいかもしれないが)は,真理を追究することである。そのためには,本からの情報は多く,貴重である。そして,自分の知らない世界の出会いを教えてくれる。読書のいろいろな価値は,それぞれの人によって違う。しかし,確実に言えることは,今の自分がより大きくなることだけは確かである。
 リアルタイムのTVやインターネットも私たちにとっては有益かもしれないが,活字の素晴らしさは,自分の活動,すなわち,自分が主体的に臨まなければどうにもならないということだ。それだけに,今の読書生活は,自分のこれからのライフスタイルというか,自分の在り方を決定するといっても過言ではないだろう。

読書

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 読書週刊が始まった。10月27日から11月9日までである。その間に古典の日もある。とにかく,毎日少しでもいいから本を読む習慣をつけて欲しい。いつもいうことだが,本は自分の知らない世界を教えてくれる。自分の知っている範囲なんて,本当に知れたものである。知らない世界を垣間見ることは,自分の可能性を大きく広げてくれるのである。
 読書は「〜しながら」ができない。音楽を聞きながら,テレビを見ながら,と「ながら族」が通じない。自分で読みながら,内容を整理し,そして,理解となっていく。そういった過程の作業がまた大切なのである。書いてある内容をまとめたり,整理したりしなければ頭に入らない。そのことによって,論理的な思考力がつくのである。そして,何よりも読書は,「〜ながら」ができないだけに,集中力や忍耐力が必要となってくる。とともに,読書するという行為を突き詰めると,いわゆる自己との対話となる。読んでいる内容に対して,「……という部分はなるほどとうなずける」,「……とは思わない」などと,自分の今までの考えや経験に対して,いろいろな考えや思いが生まれる。つまり,自己を見つめるという作業につながっていくのである。
 わたしも歳をとって,細かい字が見えづらくなってきた。メガネが必要になってきた。以前に比べ,本を読むのが億劫になってきた。もっと若い間に読んでおけばという思いがしてならない。それに,読むスピードも落ちてきた。しかし,このスピードは,君たちの年代なら,毎日,毎日読み続けていると速くなるものである。そのためにも毎日読み続けて欲しい。そのためには,本を自分の身近なところに置かなければならない。手に届く範囲にあれば,ページをめくるはずである。えざわざ取りに行ってまで読む人なら,それは読書に精通している人である。何の心配もいらない。
 朝読書を進めているが,今一度,この取組に対して,自分がどうであるかを省みて欲しい。淡々と10分間読み続けるものであるが,1週間で50分になる。読む,読まないの差が積み重なっていけば,その差は歴然である。自分の可能性を広げる読書を今一度見つめて欲しい。

無知の知

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 昨日,ハンセン病問題の話であったが,そのとき,こうした問題を考えていく上で,最も大切なことは,事実を知るということであると述べた。このことを考えたとき,「無知の知」ということが頭を過った。
 「『真の知』(真の理解)というのは,自分の『無知』を自覚することから始まる」といったのは,古代ギリシャの哲学者,ソクラテスである。つまり,「無知の知」である。
 「知らない」ということに対する無自覚が,「知ること」「理解すること」をいかに妨げているかということである。もっと簡単にいうと,「知っているつもり」「分かっているつもり」ということである。
 「知っているつもり」「分かっているつもり」からは,知ろうとする,分かろうとする意識は生まれず,知るための,分かるための行動には至らない。
 「知らない自分」「足りない自分」を自覚することは,大変つらい。なぜなら,自分の否定につながるからである。時によっては,今までの自分の心の拠りどころとして,安住してきた自らの虚像を打ち壊すことも必要になってくる。だが,自らの向上のためには,そのことも我慢しなければならい。
 「知らない自分」「足りない自分」を見つめることが最初である。それは,「知っているつもり」「分かっているつもり」の排除から始めることである。そして,自分が「できること」「できないこと」を整理することである。「知らないこと」を「知り」,「分からないこと」を「分かる」ことが学習である。「できないこと」を「できるようにする」ことが勉強である。すると,自分に何が必要かが見えてくる。
 このことは学習だけではない。友だち関係にも当てはまる。「知らない」中から「理解すること」は,生まれない。つまり,「知らないという自覚」から,「知ること」「理解すること」が始まるのである。だから,友だちのいろいろなことを「知ること」から始めよう。ものごとはすべて,「無知の知」から始まるように思える。

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