京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/31
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『自由』『自律』『友愛』

秋の田の・・・・・・

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 昨日,1年生は百人一首大会を行った。これは,冬休みを利用して,百人一首を覚え,その成果を試すものだが,古典の学習の入門もとして,楽しめるものでもある。学級対抗形式で行われた。また,個人賞も出ていたようだ。出張の合間にちらっと覗いただけであったが,寒さを吹き飛ばす熱気あふれるものであった。
 『百人一首』と呼んでいるが,通常は,『小倉百人一首』を指す。藤原定家(さだいえ)の編んだ歌集だが,定家は普通には「ていか」と音読し,『百人一首』の歌の作者として読むときも「ていか」と読む。京都,嵐山の小倉山荘の障子に張った百枚の色紙に,定家がかいていたので,「小倉」という地名が冠としてついたのである。
 この『百人一首』は,百人の歌人から一首ずつ、合計百首の歌を集めたという意味で,多くの人々の韻文などを集めて編纂した詩歌集を詞華集(アンソロジー)という。ゆえに,この『百人一首』もアンソロジーである。しかも『百人一首』は「ひゃくにんいっしゅ」とは読まず,「ひゃくにんしゅ」と読むことが昔からの約束事となっている。このような読み方の約束を「読みぐせ」というのである。

定期考査

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 チャレンジ体験もあと2日,この間,3年生は最後の定期考査となる。これが終わると,いよいよ入試が始まる。
 いつも思うことであるが,この最後の考査は,プレ入試であるように思う。入学選抜のテストは学校でのテスト以上に厳しく採点がなされる。そこで,考えてもらいたいのは,そうした採点に耐えうる答案の記述をしているかである。鉛筆の濃さはどうだろうか,読んでもらうために丁寧な字を書いているか,問いの意図を読み取った答案になっているだろうか,などといった単に何点であったで終わらず,いろいろな観点から,自分の答案を見直して欲しい。
 また,この定期考査までの1週間の過ごし方はどうだったろうか。考査に合わせて,当日最良のコンデションで臨めるような生活リズムであったかどうかである。何をたいそうにと思っている人もいるかもしれないが,風邪気味で当日を迎えることは,自分の不注意であり,やはり大きな問題である。だから,外から帰ったときは,うがいや手洗いをしっかりしていただろうか。数え上げればきりがない。そうした細心の注意を払っても,払いすぎることはない。一度,考査が終われば,自分自身でどんなことが必要かを注意深く書きあげてみて欲しい。この考査が終われば,もうまっしぐらである。

チャレンジ体験

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 ただ今,2年生はチャレンジ体験である。ちょうど5日間の中日,慣れてきた頃であろう。多くの方々に支えられながら進めている。岡崎中学校では,希望の職種につけるように,先生方も新規開拓に余念が無い。ゆえに,京都市内全域に広がっての体験となっている。生徒たちは,岡崎中学校を背負いながらのチャレンジであることをわかっているだろうか。来年も再来年も続く後輩たちのために精一杯やって欲しい。
 この体験はいろいろな見方がある。わたしは,家庭や学校を離れて,きっちりと対応ができるかという視点でまずは見ている。なんといっても,挨拶などの基本,つまり,人としてのコミュニケーションがしっかりとできるかである。初めて接する人の判断基準はそれしかないのである。人と人との接点の大切さを感じ取って帰って来て欲しい。また,働くことへの思いや親の苦労が分かってくれればとも思う。口ではなかなか説明できないものである。親もなかなか言えないものである。そして,新しい環境で,新たな自分が発見できればと願っている。
 5日間もの間,岡崎の生徒だけでなく,多くの中学生を受け入れてくださっている皆様方には,本当に感謝の限りである。ニコニコとした笑顔で見る職場の生徒は最高である。今日行ったところでは,精一杯楽しんでくださいね,と声かけをしてくださっていた。一人一人の体験は違うが,職場の方々は,それぞれ中学生を大きな目で見てくださっていることは確かである。どうか受け入れてもらったことへの感謝だけは忘れないでいて欲しい。月曜からの登校を楽しみにしている。

避難訓練

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 先週のことになるが,21日に避難訓練を行った。阪神・淡路大震災に合わせて,地震後に火災発生という設定である。
 当日はあいにくの雨上がりで,避難は体育館となった。グランドとは勝手が違い,ちょっと時間がかかったようだ。しかし,いつもとは違う勝手で行うのもいい。現実は,同じことばかりではないからだ。それよりも,前回の反省が〜だから,今回は,この点に力を入れようとか,目的をしっかりと示してやらせるとか,担任が指導していて課題となったことをしっかりと示して学級の課題克服も大切な点であるように思う。
 わたしはいつもこの時期の避難訓練には黙祷を行う。6343名もの人々が犠牲となっているからである。人数だけではない,黙祷を行うことで,聞く体制づくりにもなると考える。わたしが一番気になることは,その時間の人数確認である。常に人数把握をして,時間時間に臨むかである。基本中の基本である。そのことを先生方も子どもたちも両者で確認することが一番大切である。
 この地域は花折断層にかかった地域である。地震が起きれば大きな被害を被ることは免れない。そんな真っ只中に暮らしていることの自覚と,こうした訓練を通して,家にいるとき,それも寝っているときなら,居間にいるときなら,風呂に入っているときなら,〜なら,〜ならとそれぞれシュミレーションを行う契機になることが大切である。あいまいな記憶で申し訳ないが,確か断層によって,どのように揺れるかの判断がつくようなことが書いてあった気がする。それに従うと,戸棚の位置やベッドの位置も決まるらしい。いろいろなことが広がる訓練でないとやっている意味は無いと思う。

徒然草から

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 先週の金曜日は,前校長稲冨先生をお送りいただきありがとうございました。
 『徒然草』の30段に「人の亡きあとばかり悲しきはなし・・・・・・」という段がある。その中で,親戚一同が49日の間,山の寺といったようなところに移って,死後の法事をこなしていくことの気ぜわしさ,さらには,49日になると,皆が帰ることばかりに気がせいて,味気ないといった中で,家族のものは,家に帰って初めて,あらためて悲しいことも多いといっている。まさにその通りである。その前段の29段「静かに思へば・・・・・・」は,過ぎた日々への恋しさは,押さえようもないものだといい,秋の夜に,身辺を整理している中に,故人の歌,絵を見つけたときは,その当時のことが思い出され,また,道具だけがそのままに残っていることが実に悲しいといっている。時々,校長室から稲冨校長の筆跡のものが出てくる。まさにその状況そのものである。
 私ごとですが,先週の18日の深夜,愛犬のサイが亡くなり,翌,19日に稲冨先生が亡くなられた。ダブルパンチを食らった感であった。サイを葬り,稲冨先生のお手伝いをし終わった金曜の午後,修学院で左京のPTA研修があったが,その辺りから,大変辛くなってきた。ほっと一息ついたあたりから,その思いは強くなった。
 稲冨先生の写真は,送る会のときの写真であった。多くの方に支えられた会であったなと思い出される。稲冨先生を介して多くの人たちと知り合えたことが何より嬉しい。そして,それは何よりの宝である。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

白鳩から

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 「白鳩」は,本校のPTA新聞である。抜粋ではあるが,稲冨先生の原稿を,ここに掲載することで,先生を偲ぶこととしたい。
○今年度に入り国内外で私たちの気持ちを暗くさせる出来事が続いています。いつも言っていることですが,こうした事件の根底には,互いの違いを認め合えないことが要因になっているような気がしてなりません。自らの考えを否定することは,自信を失わせる結果になったり,物事を進める上で躊躇(ちゅうちょ)させることになることもあると思います。しかし,自らの考えを否定するのではなく,他人(ひと)がなぜそう考えるのかということを常に考えるべきではないかと思っています。こうした考えを子どもたちにも持ってくれるよう,様々な場面で皆の耳に胼胝(たこ)ができるのではないかと思うほど話をしています。ぜひご家庭でも一つの事柄を様々な角度からお子様と話をしてほしいと願っています。とりかけこうした情報化社会になれば,メールなどで済ませることが多くなるわけで,それだからこそ会話や対話が必要だと実感しています。(H16.7.16)
○前回の「白鳩」で「許すより恕(ゆる)すを」ということを書きました。「違いを認め合う」というのは,まさに「恕す」と言う気持ちを持つことと同じではないかと思います。昨年の地生連の講演で神戸保護観察所の田中研三先生が「まずはあるがままを受容することが必要である,でも許容するということではありません。」という趣旨のことを話されました。違いを認め合うというのは相手の人の背景まで理解し,自分と違う意見や考えを理解しようと努力することだと思います。私自身も,自分と価値観の違う考えに接したとき,腹立ちを持ったり,話すことの虚しさを感じたりすることがあります。でも,その気持ちは相手の人も必ず同じ気持ちで私のことを見ているのでしょう。「恕す」というのは相手を分かろうとする努力なしには生まれないものだと思います。(H18.3.14)
○私は,本校に来て三年目になります。私はこの三年間生徒たちに「違いがあってあたりまえ,違いがあって楽しい,違いを認めあおう」と言い続けてきています。まさにそう考え,人間どうしが触れ合うのが人権を認め合うことそのものだと思っています。(H15.7.18)

偲ぶ

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 19日,前校長の稲冨哲哉先生がご逝去されました。ここに謹んで哀悼の意を表します。
 写真は,先生を描いた生徒作品である。
 ときどき,学校をのぞいてくださった。職員室に入ってこられると,教職員に声をかけながら,前にあるわたしの席,というより,たぶん,自分の席という思いで来られたのだろう。何かタイムスリップしたように思え,今も,ふと入ってこられるかのような気がしてならない。
 稲冨先生とは4年間,本校でご一緒させていただいた。常々,先生は,「みんな違っていい,みんな違ってあたりまえ,違うからこそ楽しいし,その違いを認め合おう」と生徒たちにも,私たち教職員にも事あるごとに言っておられた。そして,その実践として,一人の生徒を徹底的に大切にされていた。先生の後をついで,この「みんな違ってあたりまえ」という教えが理解でき,目から鱗が落ちるとは,こういうことかという思いになったことがある。それは,教職員をまとめなくてはと思ったときのことである。校長室に掛けられた先生の写真が,みんな違うのだから,大それたことを考えなくてもいい。みんな違うからこそ,学びあえるし,楽しいのだと語りかけてきた。そのとき,ふと心が落ち着くような思いになったことを覚えている。
 また,校長室で話していたとき,学校を辞めた途端,悩みがなくなったことをすごく嘆いておられたことがあった。悩みがあるときは,いろいろ大変なように思うが,悩みがないって人生と違うとも言っておられた。わたしに対する思いやりだったのかもしれないが,おそらく,悩むことで,人の痛みを感じ取られてきた先生にとって,本当の意味での教育者としての原点が,そこのあるように思う。生徒の悩み,保護者の悩み,教職員の悩みから解放されたことは,その原点が崩れ去ったことであり,そのことが,逆に辛かったのではないだろうかと思われるが,今となってはもう尋ねることもできない。
 いろいろと思い返せば切りがない。校長室の写真を見ながら,まだまだ語りかけなければならないことが多々あると思うが,そのときは,よろしくお願いしたい。

センター試験

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 大学入試センター試験が16日,17日の両日行われた。国語の問題を見たが,問題文こそ,高校生を対象とするゆえに難というより,長文に慣れるかである。また,問い方も,妥当なものであるように思う。公立高等学校の入試も同じスタイルである。
 漢字の勉強は,直接その漢字が書けることは大事だが,その漢字を他の熟語などに置き換えて使えるかといった発展が大切であり,そのためには,辞書を引いたりすることが必要である。また,内容の問い,それに,文章構成,文学的な文章では,意味を問い,気持ちを問い,情況の説明,それに叙述の仕方など,学校で学習していることとそんなに差異はない。
 ただ,試験そのものよりも,こうした長文を読み,決められた時間内に解答をつくることができるかである。そのために必要なことは,やはり,読書である。文章を読むこと自体に慣れることこそ,基本中の基本である。そして,古典,漢文と大問の4題をこなす気力である。つまり,普段,どれだけ活字に親しみ,読もうとするかである。ちょっと難解な文章でも辛抱して読み続けていけるかである。勉強は一朝一夕に力がつくものではない。ただただ,毎日の,普段にどれだけしっかりやり続けているかということだ。高校入試ももうそこだ。

みんなの思いを

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 この間の授業のまとめとして,最後に2組の生徒たちに次のような内容を尋ねた。
 「あと2か月間,自分自身がこの2組のためにどうしていくことがよりよいクラスになっていくかについて,考えていることや思ったことを具体的に書きなさい。」
という内容である。これは,能率よく掃除をやるために,分担を決めたが,分担という手段に縛られて,本来の能率よくという目的が達せられていない現状をどうするかを考えさせた結果を,クラスに返したものだ。
 多くの生徒は,「楽しくて,明るいクラス」「協力して明るく楽しくみんなが過ごせるように」「みんなで協力しあってやるときはやり,楽しむとき,おもいっきり遊ぶということをしていけばいいと思う」等があったが,もう少し具体的に書いている生徒は,「みんなで協力して,ちょっとしたイベントをしたり,けいじ物を面白くしたらいいと思う」「そうじをもう少し,てきぱきやればいいと思った」「いろんな人と(コミュニケーション)しゃべったりあそんだりして,友だちとの関係を深めて,わからないことがあれば,教えあえばいいと思います」等もあったし,個人的に「静かにする」「周りに迷惑をかけないようにしながら,自分のやるべきことはやる」といったことを書いてくれた生徒もいる。
 それぞれの段階はあるが,みんな前向きに考えてくれることが,内面化を深められたことになる。それでいいと思う。今の自分より少しでも考えることで,変わるのである。正解などない。みな正解である。ただし,道徳は特活と両輪である。自分の思ったこと,考えたことと行動がどうなのかをしっかりと担任はみなければならない。そのことが大切である。また,こうした内容を出し合って,再度,具体化し,クラスとしてどうしていくかを考えさせることもいい。いろいろな方法は,担任が一番よく知っている。何をやってもいい,クラスを良くしていくことにさえなれば,それでいいと思う。

支部授業研修

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 15日,道徳の支部授業研修を行った。多くの皆さんに参加していただき,ありがとうございました。来年度の文部科学省指定の発表を控え,どのように道徳の授業を考えるのかの道筋を示すために行ったものだ。細かく指導案を書いたつもりである。生徒の実態はやはり指導していない分,無理があったように思う。
 生徒もわたしも緊張していた面があったと思うが,後半,ちょっと慣れてきたように感じた。よく子どもたちも辛抱してくれたものだ。本当は議論をさせることで,自分の内面を変えていくことが大切である。でもそれは,よく子どもを知っている担任だからこそできる代物である。資料道徳の場合であるが,よく議論のかみ合うものであれば、それがよい資料なのである。それもA4一枚に収まるようなものでなければならない。そして,その進め方として,いつも言うことだが,議論をかみ合わせるために,基本的な読解によって,子どもたちを同じ土俵にあげ,議論する下地づくりをする。そして,活発な意見交換をさせる。そして,早く資料離れをするということである。これだけができればいいと考えている。この繰り返しをしながら,子どもの実態を見ながら,考えさせるべきことを常に担任は考えていなければならない。だから,担任が授業をすることが一番大切なのである。
 指導案を書くことはしんどいことであるが,しかし,自分の考えをまとめるためには,大変大切なことである。なかでも重要なことは,生徒の実態と問い方である。生徒の実態は,教材,つまり,何を学ばせるかっということに対しての実態でなければならない。いじめを取り上げるなら,人間関係ということを通した実態でなければならない。しかも,日頃の子どもたちの具体的な言動を通して,担任は,見方やその解釈を示さなければならない。そして,問い方は,問い方そのままを考えるということである。丁寧な問いをつくるために,子どもに発することば,そのままを書き,推敲しなければならない。いつも言うことだが,言うは易し,行うは難しである。でも,常によい授業をしたい,子どもの笑顔を見たいという思い,そのことを心に秘めながら頑張れる先生方であってもらいたいと願っている。

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