京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/06/12
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『自由』『自律』『友愛』

知の源

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 10月も終わりである。あと1か月もすると,まねきが上がる。すると師走である。京都では南座であるが,地方にもいろいろな歌舞伎が行われてきた。
 ところで,「千両役者」という言葉がある。歌舞伎から出た言葉であるが,こんな説を読んだことがある。広島の宮島で行われる宮島歌舞伎と四国,香川の琴平,金丸座で行われる金毘羅歌舞伎が関連する言葉である。
 「千両役者」を『詳解国語辞典』(旺文社)で引いてみた。「格式・技量・人気が高い一座の中心的な役割」とあった。何故両者が関係あるのかといえば,役者が宮島で人気を得て五百両を手に入れる。そして,その向かいの琴平で,また,五百両を手に入れる。そして,上方へ上がって,やっと千両を手にした役者として認められるということである。ただ,「千両役者」については,いろいろな説があるので,また,調べてもらえればありがたい。
 いろは歌留多の「い」は,上方では,「石の上にも三年」であるが,江戸では,「犬も歩けば棒にあたる」となる。これは,五大将軍綱吉が犬公方と呼ばれていたことは,習ったことであろう。犬を保護したことから,綱吉の死後,江戸の町には犬が増えすぎた。そこで,捕り物をする役人たちは,捕り物に使う棒を,犬の足のあいだに投げ入れたのである。棒は必ず右か左かに向き,その棒に足をとられて転ぶというわけである。追っ手を捕まえるのに,人間では練習ができないので,犬を使ったのである。
 言葉には,それぞれ語源がある。本来の意味から遠くはなれてしまって,その面影もないようなものもある。しかし,ものの本質は,案外単純な真理かもしれない。
 本当の勉強(学問と呼んだほうがいいかもしれないが)は,真理を追究することである。そのためには,本からの情報は多く,貴重である。そして,自分の知らない世界の出会いを教えてくれる。読書のいろいろな価値は,それぞれの人によって違う。しかし,確実に言えることは,今の自分がより大きくなることだけは確かである。
 リアルタイムのTVやインターネットも私たちにとっては有益かもしれないが,活字の素晴らしさは,自分の活動,すなわち,自分が主体的に臨まなければどうにもならないということだ。それだけに,今の読書生活は,自分のこれからのライフスタイルというか,自分の在り方を決定するといっても過言ではないだろう。

読書

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 読書週刊が始まった。10月27日から11月9日までである。その間に古典の日もある。とにかく,毎日少しでもいいから本を読む習慣をつけて欲しい。いつもいうことだが,本は自分の知らない世界を教えてくれる。自分の知っている範囲なんて,本当に知れたものである。知らない世界を垣間見ることは,自分の可能性を大きく広げてくれるのである。
 読書は「〜しながら」ができない。音楽を聞きながら,テレビを見ながら,と「ながら族」が通じない。自分で読みながら,内容を整理し,そして,理解となっていく。そういった過程の作業がまた大切なのである。書いてある内容をまとめたり,整理したりしなければ頭に入らない。そのことによって,論理的な思考力がつくのである。そして,何よりも読書は,「〜ながら」ができないだけに,集中力や忍耐力が必要となってくる。とともに,読書するという行為を突き詰めると,いわゆる自己との対話となる。読んでいる内容に対して,「……という部分はなるほどとうなずける」,「……とは思わない」などと,自分の今までの考えや経験に対して,いろいろな考えや思いが生まれる。つまり,自己を見つめるという作業につながっていくのである。
 わたしも歳をとって,細かい字が見えづらくなってきた。メガネが必要になってきた。以前に比べ,本を読むのが億劫になってきた。もっと若い間に読んでおけばという思いがしてならない。それに,読むスピードも落ちてきた。しかし,このスピードは,君たちの年代なら,毎日,毎日読み続けていると速くなるものである。そのためにも毎日読み続けて欲しい。そのためには,本を自分の身近なところに置かなければならない。手に届く範囲にあれば,ページをめくるはずである。えざわざ取りに行ってまで読む人なら,それは読書に精通している人である。何の心配もいらない。
 朝読書を進めているが,今一度,この取組に対して,自分がどうであるかを省みて欲しい。淡々と10分間読み続けるものであるが,1週間で50分になる。読む,読まないの差が積み重なっていけば,その差は歴然である。自分の可能性を広げる読書を今一度見つめて欲しい。

無知の知

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 昨日,ハンセン病問題の話であったが,そのとき,こうした問題を考えていく上で,最も大切なことは,事実を知るということであると述べた。このことを考えたとき,「無知の知」ということが頭を過った。
 「『真の知』(真の理解)というのは,自分の『無知』を自覚することから始まる」といったのは,古代ギリシャの哲学者,ソクラテスである。つまり,「無知の知」である。
 「知らない」ということに対する無自覚が,「知ること」「理解すること」をいかに妨げているかということである。もっと簡単にいうと,「知っているつもり」「分かっているつもり」ということである。
 「知っているつもり」「分かっているつもり」からは,知ろうとする,分かろうとする意識は生まれず,知るための,分かるための行動には至らない。
 「知らない自分」「足りない自分」を自覚することは,大変つらい。なぜなら,自分の否定につながるからである。時によっては,今までの自分の心の拠りどころとして,安住してきた自らの虚像を打ち壊すことも必要になってくる。だが,自らの向上のためには,そのことも我慢しなければならい。
 「知らない自分」「足りない自分」を見つめることが最初である。それは,「知っているつもり」「分かっているつもり」の排除から始めることである。そして,自分が「できること」「できないこと」を整理することである。「知らないこと」を「知り」,「分からないこと」を「分かる」ことが学習である。「できないこと」を「できるようにする」ことが勉強である。すると,自分に何が必要かが見えてくる。
 このことは学習だけではない。友だち関係にも当てはまる。「知らない」中から「理解すること」は,生まれない。つまり,「知らないという自覚」から,「知ること」「理解すること」が始まるのである。だから,友だちのいろいろなことを「知ること」から始めよう。ものごとはすべて,「無知の知」から始まるように思える。

冊子から

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 厚生労働省から「ハンセン病問題を正しく伝えるために」という啓発冊子が送られてきた。生徒たちに配布する冊子であるが,テキスト解説編と資料編に分かれ,生徒たちと共に考え,行動するきっかけになればと願っている。わたしの知らなかったこともあり,たいへん勉強になった。こうした問題を考えていく上で,最も大切なことは,無関心でいてはいけないということ,つまり,まずは,事実を知るということである。
 いろいろな冊子が送られてくるが,さっと目を通すことが多く,なかなか隅々までしっかりと見ることがない。わたしたちは,送られてきた情報をチョイスする側に立つゆえに,自分の関心事とか,いろいろな要素によって取捨選択するが,指導するという立場に立ったとき,自分の関心を寄せていないものなどに,とりわけ心を注ぐ必要があるように感じる。しかも,それらをつくっている人々のことを思えば,なおのことである。校長室にある画家中川一政先生の「学ぶことは常にあり」という色紙がわたしを見つめた。
 このハンセン病といえば,わたしは松本清張の『砂の器』を思い出す。野村芳太郎監督で映画にもなったが,わたしは日本映画でも屈指の映画の一つだと思う。脚本は橋本忍・山田洋二である。前にも書いた方言周圏論で,東北訛りが出雲にもあったということが,わたしの興味をそそったのであるが,映画では,その映像美の素晴らしさで,今でも思い出すシーンがある。ハンセン病で能登を追われた本浦千代吉が巡礼者となって,主人公の本浦秀夫(後の和賀英良)とともに日本海の荒波をバックにさまよう姿である。あたかもその荒波が親子の状況を象徴するかのようなシーンである。それに,最後の場面,和賀英良がピアノ協奏曲「宿命」を弾きながら,いままでの苦悩の回想場面が交差するところの迫力は並みのものではない。
 そして何より,全国ハンセン氏病患者協議会(現在「ハンセン病療養所入所者協議会」)から,その差別を助長するものとして映画の計画段階から強く中止要請を受けたものであるが,最後に,現在では特効薬とともに完全に回復する病気であること,社会復帰が続いていること,しかし,それを拒むものとして,根強く残る非科学的な偏見と差別があること,そして,本浦千代吉のような患者はどこにもいないということ,こうした内容のテロップを流すことを条件に,上映された作品である。映画は1974年の作品で,もう30数年前のものである。 

ほんのちょっと

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 先週から引き続き,インフルエンザの蔓延が懸念されます。どうぞお子たちの様子を見ていただき,適切な処置をとっていただきますよう,よろしくお願いします。
 さて,今日から後期が始まった。土日2日間を挟んだだけでは,後期が始まるという思いにもなかなかなれないかもしれない。
 3年生などは,いよいよという思いで,新しい出発点として,前向きに考えている生徒も多いだろう。しかし,数日,数週間と過ぎていくと,その気持ちも覚めてしまい,もうわたしは駄目,などという気持ちに陥ってしまう人も出てくるかもしれない。
 何をするにも最初から面白かったことはないはずだ。ある程度ピアノを弾けるようになるまで,あのハノンピアノを繰り返した人もいるだろうし,テニスにしても,ちょっとした練習があって,その結果として,ラケットの振り方で,こんな球が出るのかとわかってき,楽しくなるのである。
 勉強だって同じことである。最初から面白い人なんかいないし,賢い人を見て,「いくらやっても,あんなになれないだろう」といった思いを持ち,諦めたくもなるだろう。しかし,本当は,ほんのちょっとばかり,自分より頑張っているだけかもしれない。ほんの2〜3か月頑張り続けたことで,相当進んでいるようにみえるだけかもしれない。最初はつまらないが,何かをやっているうちに,自分自身が積極的なものに変わっていくことは多々ある。ほんのちょっと我慢することが,そんな自分になるかもしれない。
 我慢など,古い時代のものであるという考え方の人もいるだろう。我慢などしなくても……。今の時代,楽しいことがありすぎて……。しかし,よく考えてみると,一見心地よさそうな楽しさの中に,自分をぶつけるものはあるだろうか。勉強だけでない,どんなことにでも自分の生きがいをみつけるためには,それ相当の我慢がなければ,我慢することを学ばなければ,そんなものは見つからないだろう。
 今,苦しいかもしれない。しかし,我慢することで,数か月後の頑張りに期待できるものとなるだろう。イソップの「蟻とキリギリス」の話を思い出してみることだ。なんだ,あんな話は寓話だと思えば,それが落とし穴になるだろう。


自主・自律

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 学校における日直や掃除を「当番」と思っている人はいないだろうか。わたしは,こうした学校の活動を「奉仕」と考えている。さて,その違いはなんだろう。
 『詳解国語辞典』(旺文社)で「当番」と「奉仕」を引いてみた。
 「当番」は,交替であたるように割りあてられた仕事の,番にあたること。また,その人のこと。
 「奉仕」は,国家,社会,他人などのために,損得を考えないで働くこと。
 よく聞く言葉に,「○○君もやってないから,ぼくもやらない。」,「他の人がいいかげんなのに,わたしだけやっても……。」と。何かの活動を損得だけの基準で考えていたら,何もせずにその恩恵だけを受けることだろう。しかし,よく考えてみると,損得勘定だけで,ものを見る人たちは,だれもがいいかげんな活動をしていく中で,自分を取り巻く状況が恩恵どころか,ますます悲惨な状況になっていくことに気がつかないのである。
 自主的な活動,自律的な活動といった自分で自分を管理し活動すること,それができない限り,どこか別の力によって,制限された,束縛された結果を生むのである。そして,罰則などといった,何か恐ろしいものに転化していくのである。
 何事も楽しいもの,気持ちの良いものにするかしないかは,自分たちの自主,自律の活動かどうかである。自らが,前に出て積極的に出ていくとき,制限されている,束縛されているという思いは払拭されるのである。自らが前に積極的に出ないとき,何かをやらされているような,つまらない思いが心を過るのである。これは学習にもいえることである。何かやいやい言われてやっているような学習はおもしろくないし,身にもつかないのと同じである。

これも王道

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 こんにゃく,ゼリーといった液体を含み,ブヨブヨになって,なおかつ形を保っているものをゲルと呼ぶ。子どもたちがよく遊ぶスライムなんかもそうである。
 このゲルの不思議を発見し,解明した,今はもう亡くなられた田中豊一博士の話を読んだことがある。ゲルの液体の濃度を変えると,温度を変えると,電気的な刺激を与えると,ちょっとしたことではあるが,いろいろと試みる面白さが,多くの発見や思わぬ発見につながるという。
 こうした研究に取り組む田中博士の姿勢は,いいデータが出なくて,研究が行き詰ったとき,わくわくするという。なぜなら,常識では割り切れない興味ある現象にぶつかっている可能性が大きいのだから,と。行き詰って,なおわくわくする,そんな気持ちになれることが,研究者の研究者たる所以であろう。
 行き詰るとき,落ち込むか,それとも,田中博士のようにわくわくして,新しい道を切り開くかのどちらかであろう。田中博士は,関連がないいくつかの事実を前に,ボーと考える時間を大切にするという。論理の跳躍はモヤモヤから生まれるという。
 わたしたちの勉強は田中博士のようではない。しかし,大切なことを教えてくれている。何かにぶちあたったとき,どのような方法をとるだろうか。いろいろ推理したり,調べるという人もいるだろう,誰かに尋ねるという人もいるだろう,ほっておくという人もいるだろう。しかし,時には何日もかけて一つ問題を解くという気持ちになることも大切なことのように思える。解けた喜びを味わうことが勉強への,学問への一歩であると,数学者の広中平祐さんは言っている。苦労を重ねてつくりだしたものの喜びは,その苦労の分だけ大きな喜びとなる。そのためには,苦労をして自分で生み出す仕事をしなければならない。ねばりである。これも王道である。

てんやわんや

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 教頭が不在である。朝から「てんやわんや」である。学校教育法第37条には,「教頭は,校長を助け,公務を整理し,及び必要に応じ児童の教育をつかさどる」とある。実際,教頭は,職員室で教職員の頭としての役割を担い,本当になくてはならない存在である。
 今朝も,朝から保護者の連絡を取り次ぎ,インフルエンザの対応をするだけでも,精一杯なのに,文書処理や教職員への指示や諸々の対応をしなければならず,教頭のありがたさが身に染みてわかった。教務主任や学年主任,その他多くの教職員支えられて,無事,軌道にのった。本当にありがたい限りである。と同時に,自分の教頭時代を省みて,はずかしさを覚えた。
 ところで,「てんやわんや」は,大勢の人が各々勝手にふるまい,混乱すること,である。「てんでん」+「わや」の合成語であるという説が有力視されている。「てんでん」は,「てんで(ん)ばらばら」という語があるように,「各自」「各々」であり,「わや」は,「そらわややな」というように,「無茶苦茶」である。やはり,そのような状態を統率する教頭というは偉大な存在である。
 さて,獅子文六の小説に『てんやわんや』がある。戦後の自由で,活気ある雰囲気を醸し出した作品で,当時の流行語にもなった。

お願い

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 新型インフルエンザが蔓延してきました。誰もがいつかかるかわかりません。一人ひとりがその予防に努めることが大切です。その第一は,手洗いとうがいです。手洗いは石鹸で,手の甲から指の間,親指,手の平,指先,手首としっかり20〜30秒ほど洗い,清潔なタオル等で水を十分に拭き取ってください。学校にも消毒用のアルコールが設置されていますが,アルコールの場合も,手洗いと同じ要領で十分に擦り込んでください。うがいもできるだけ喉をあけて,しっかりとしてください。また,十分に栄養をとり,規則正しい生活を心がけることです。そして,何より,よく睡眠をとることです。もちろん,人ごみをさけ,感染者には近づかないことは当然です。
 感染者に近づかないと書きましたが,感染は飛沫感染と接触感染ですので,十分その点に注意してください。新聞などでは,感染した人を別室で治るまで隔離したことで,家族には感染しなかったという事例も報告されていました。いろいろなことがあちこちで見ることができます。注意して見ていただくことも大切かと思います。
 ところで,新型インフルザと季節性のインフルエンザとの違いはなかなか難しいようです。一般に,38度以上の発熱と咳や急性呼吸器症状を伴う場合,感染の可能性があるといわれていますので,医師に相談してください。
 いろいろ書き出せば切りがありません。本日プリントも配布しておりますので,どうぞ,お子たちの様子を見ていただき,適切な処置をとっていただきますよう,よろしくお願いします。

蝸牛

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 昨日 花背小学校・花背中学校の竣工式に行った。茅葺き屋根を有した民家をイメージした外観は,親しみとともに,なにか懐かしさを感じるものであった。内部も吹き抜けで,2階廊下は回廊で,見通しのよいすっきりとした圧迫感のない居心地のよさを感じた。そして,1階には,1・2・3年生に保育施設が,2階は4・5・6年生に中学生の7・8・9年生の取り合わせがよい。前期の小学生が入学前の幼児を,中学生が後期の小学生を見守るというか,それぞれが上級生らしさも見せなければならないし,一緒にいる中での育ちを意識しているように思えた。外の者でもわくわくするくらいだから,学校に通う子どもたちはもちろん,教職員も地域の方々もその喜びをかみ締めておられるのだろうなと思えた。
 式典では,門川市長から,世界を担う人が育つことを期待される旨の話があったが,まさに大村はま先生同様,「未来の子どものために」に対して,行政としての仕事をやり遂げ,あとの中身については,現場の教職員へというバトンタッチを行ったように思えた。
 式典の前に,茂山一門の祝いの狂言が行われた。茂山茂君が狂言並びに演目の「附子」「蝸牛」についての説明をしていた。茂山茂君といったのも,前の学校の生徒だからだ。当時,上から読んでも,下から読んでもと思っていたことがある。あれほど堂々とした様子で狂言について話せるとは想像もしていなかった。やはり名門はそのように育つものだなと感心した。何度か道端で会ったこともあるが,狂言についての彼は別人のように,生き生きとしていた。
 ところで,「附子」は,皆さんもご存じであろう。小学校の国語にもあったが,今は「柿山伏」が載っている。また,「蝸牛」は,長寿の祝いとして,主人から命を受け,太郎冠者がカタツムリを取りに行く話だが,カタツムリを知らないために山伏をカタツムリと勘違いをする話である。
 その「蝸牛」といえば,日本の民俗学の草分け,柳田國男を思い出す。方言は文化的中心地から同心円状に分布する場合、内側から外側へ順次変化したと推定するという考え方で,それを方言周圏論といい,『蝸牛考』で,その節を提唱した。
 京都では,カタツムリの呼称を新しいものから並べると,デデムシ(でんでんむし),マイマイ,カタツムリ,ツブリ,ナメクジと古くなる。中部や四国ではマイマイ,関東や四国ではカタツムリ,東北や九州ではツブリ,東北も北部や九州の西部ではナメクジと呼んでいる。新しい呼称が京都に残り,順番に遠くに存在するという,放射線状に時系列とともに波のように伝わる様子が見てとれる。以前の教科書にも,何故,京都の古い呼称が九州や正反対の東北で見つかるのかという話が載っていた。
 民俗学者である柳田國男にしても宮本常一にしても,フィールドワークが学問の基本であった。総合的な学習の時間なども,地域を見つめたり,体験を含めたりと,フィールドワークを取り入れた活動の有用性のために入ってきたものでもある。

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