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最新更新日:2025/03/07 |
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育てる木![]() 「明治6年2月26日 京都市外岡崎村の西本願寺支院,願成寺に生る。寺は岡崎神社の前に在り。……(中略)……父母の親友太田垣連月尼また早くより神光院の茶所に僑居せしが,寛のために名付け親となる。」 とある。岡崎村とは,現在の左京区岡崎である。そして,「寛」は連月尼が付けたことがわかる。連月尼は,小沢蘆庵や香川景樹のあとを受け継いだ幕末の歌人である。号の鉄幹は梅の意味で,和歌は,父である与謝野礼厳に習ったが,8,9歳の頃からである。しかし,和歌を習う前の7歳のとき,与謝野一家は,負債のために本校の地となった願成寺を処分している。「君死にたまふことなかれ……」で有名な与謝野晶子は,この寛の妻で,永観堂や蹴上の浄水場内などには,寛や晶子の歌碑も存在する。寛は,上京後,落合直文に師事し,明治33年新詩社を創設,「明星」を発刊,慶応大学教授などを歴任したが,昭和10年,63歳で亡くなっている。 先に挙げた小沢蘆庵や香川景樹もここ岡崎に住んだ歌人であり,『雨月物語』で有名な上田秋成の墓も南禅寺を入った西福寺にある。岡崎は,多くの文人等と関連のある地である。学校のこの敷地内で生まれた与謝野鉄幹を偲びながら学校生活を送れることは大変な幸せである。多くの学校がある中,このような学校はなかなかないだろう。しかも,校門の楠木は,野田宇太郎著の『関西文学散歩』(1957年刊)によると,願成寺の名残であると言われ,まさに当時を偲ぶことのできるものが残っていることも嬉しい。そして,この木は,京都市立学校・幼稚園の「名木百選」に選ばれ,今では,「自由・自律・友愛」を育てる木となっている。 辛抱![]() 本校の発表は,学級経営に根ざした道徳教育を進めるものだが,わたしの思いは,道徳教育を行うことで,学級がよりよくなることを狙っている。生徒の実態に合わせて,何がクラスに足らないかを,何を考えさせることでクラスがよりよくなるかを第一義に進めるものである。だから,担任の学級経営方針とクラス観,生徒観が何より大切になってくる。よく観察する力,洞察力が必要となってくるのである。そして,生徒に対しては,内面化に迫る道徳教育を進めるのである。ゆえに,道徳的な価値がどうこうより,議論に耐え得る資料が必要なのだ。意見が活発に出し合えるものが大切なのだ。お互いの議論をする中で,他者の意見から学び取り,自分の内面の価値を入れ替えていく,組み替えていくことを狙っている。ゆえに,指導者は多く語っては行けないし,生徒の意見の裁き役に徹しなければならない。指導者が言いたいことを言わず,つまり,自分の価値を押し付けず,どれだけ辛抱できるかである。指導者はしゃべりたくてしゃべりたくてムズムズすると思うが,それに耐えることができるかどうかが鍵である。 鏡![]() 生徒たちも大変楽しみにしているものである。わたしも校内での講師の先生方との挨拶を終えた後,外での講座のところを回った。多くのところで,概ね好意的に受け止めてもらっているが,わたしが最も関心を寄せているのは,しっかりと挨拶や返事ができるだろうかということだ。これは,生活の基礎・基本に対する,我々の日頃の取組の外部評価のようなものだからである。おはよう,こんにちは,ありがとう等の言葉は,付き合いの基本であり,そして,こうした言葉が自然とでることが大切なのである。それも元気よく。参観された方から,挨拶が弱いというご指摘も受けた。元気に挨拶をしていたものもいるだろう。一部の生徒かもしれない。いろいろな見方があるだろう。しかし,それは,やはり我々の普段の取組の鏡であると考えなければならない。どれだけ高邁なことを言っても,挨拶もできないのにと言われれば,それまでだ。たとえ一部の生徒がそうであったとしても。いわゆる挨拶は,生きていく上での基礎・基本である。基礎・基本は皆が習得しなければならない事柄である。その点を我々教職員が共通認識しなければならない。よく躾などは家庭教育だなどという人がいる。もちろん家庭教育であると思う。でも,現実の生徒を見たとき,ほっておくことが,その生徒にとってプラスになるだろうか。すべては未来ある子どものためである。 教育を考えるとき,その時,その時に必要なことを適切に示し,指導していくことが大切である。例えば,よく忘れ物をする生徒がいたとすると,全体に話した後,再度個別に言わせて,注意を喚起したり,あとから,個別に呼んで再度尋ねたりすることである。1回言って分かる生徒,2回言って理解できる生徒,3回言わなければならないなら,3回言うこと。これがいわゆる生徒観に則した指導というものである。 示す![]() 今年度は,午前中,「仕事」をテーマに2年生がポスターセッションを行い,3年生が岡崎検定を作成し,全員で受けた。そして,最後に地域の頂妙寺などの雅楽会から,日本音楽の学習の一環として和楽器のお話と演奏があった。 ポスターセッションをやったが,基本はいつも言うように,教師によるモデルである。とりわけ,話すことに対する指導としては,その効果は抜群だと思う。もう2時間あればという声も聞いたが,生徒にとっては,この年しかないのである。その時,その時は大切な一コマなのである。わたしたちの反省は反省として,いかに生徒に成就感を持たせられるかである。これが次につながるものなのである。モデルを示すことで,概ねやらなければならないことやその具体を示すとともに,教師自らがそれを見せることで,そのポイントとなることが分かってくるものである。そして,もう一つは,指導案を書くときに,生徒の活動予測を書くようにというが,この点を踏まえると,生徒たちが行う説明からも,質問予測とその回答を考えさせておくことである。それを踏まえることで,説明が聞き手にとってわかりやすいものになるだろう。ただ,話し手を育てるには,聞き手を育てることも大切なことである。よい聞き手が,良い話し手を育てるのである。ということで,国語科では「話すこと・聞くこと」というふうに一緒になって存在する理由がある。ところで,大村はま先生は,教材として取り上げるものの要素の第一に,教師自身がわくわくするかどうかであると挙げておられる。教師も挑戦できることが,そのわくわくだと思うし,それが教師の無窮でもあるように思う。 言うは易し,行うは難しである。1月,支部授業研修の道徳をわたしがすることになっている。来年の文部科学省の道徳の発表を睨んで,いつも言うばかりではという思いで引き受けた。 無窮の日![]() 考える![]() 日頃,意識しなかったことに,橋の損壊があった。学校でも地震や火災といった避難訓練をするが,広域の訓練ならではの発想が出てくる。橋の損壊など,普段,気にもとめないものである。よくよく考えれば,丸太町橋や荒神橋,三條大橋などが潰れれば,たちまち,市内西側からの流れがストップしてしまう。なるほどと思いながら放送を聞いていた。また,給水車なども,テレビのニュースなどでは時々見るものの,なかなか見ることはないが,その働きも目の当たりにした。 災害は,いざというときの備えであるが,訓練といえどもやっているのとやっていないのとでは,まったく様子が違うだろうなということがわかった。大がかりなものは,こんな機会がなければなかなか参加できない。学校は,避難所になるが,そのとき一体どうしなければならないかを,ちょっとシュミレーションもできた。 物事には付随するものがある。今まで考えてもみなかったことを少し自分なりに考えてもみた。こうしたことが訓練のもつ意味かも知れない。非日常のことはなかなかこういった機会でないと考えられない。だからこそ,こうした訓練が行われるのかも知れない。また,こうした訓練を踏まえながら,一つ一つ何をしなければならないかを点検していけるものなのかもしれない。そう思うと,再度,学校での訓練の在り方を考えなければならない。来月に避難訓練が行われる。 折れ反れ![]() 「京の茶漬け」とい言葉も聞いたことがあるだろう。落語にもあるのだが,客が帰る間際になって,当家の主人が「お茶漬けでもどうどす」と言うのである。当家では本当にお茶漬けを用意しているわけでもなく,客の方も,それを断らなければならない,という京ならではのルールを破り,その申し出を受け入れ,当家の者があたふたとする話で,口先ばかりの京都人をひねくった落語である。 これなども,よくよく考えてみると,自分がそのようにご飯をよばれるにふさわしい仲であるかどうかということ,つまり,その人との仲を鑑みることと,お互い貸し借りをつくらない,近代的個人主義的な考え方をもっているのが,京都人であるという見方もできよう。 今では,こうした京言葉の深い意味合いも失われてきている。でも,教室での授業前後の「折れ反れ」ができないのは,しっかりと指導してもらわなければ困る。 ところで,京言葉といっても,京都方言とは言わない。これは,今だに京都が都であるからだという意味である。中心であるという自負が刻まれた言葉だからである。 阻む![]() 入試や定期考査が近づいてくると,「ああ,なぜもっと勉強しなかったのか」などという言葉をよく耳にする。よほど才能に恵まれている人は別にして,勉強に近道はない。それにしても,才能に恵まれている人たちも,それなりの勉強はしているものである。 ところで,勉強ということであるが,これは何も知識を磨くためのものではない。勉強とは,性格を訓練するためのものでもあると思う。ここでいう勉強とは,学校で,あるいは先生について,または,独習という意味での勉強である。 勉強とは,何かを覚え,頭をよくするというものではない。これと教養を身に付けるとか,何かを習得するとかは別問題である。それは,自分自身を高めるためのものであるからだ。さすれば,勉強は,怠惰や退屈,イライラといった自分の野放しの性格をコントロールできるようになるための訓練である。そして,次の段階として,自分を高める段階に入っていくものだと思う。 勉強は確かに辛いものである。それは,何か自分がやらされているように思うからでもあろう。そして,それは,自分の性格を鍛えるということで,とてもしんどさを伴うものである。気分の乗らないときに机に向かったり,本を読んだりすることは,辛いときにも,しんどいときにもといった自分との葛藤なのである。そのような思いの中で,それを取り組む過程が大切なのである。 それを阻むものが,自尊心というものである。自分を高く評価したいと思うもの,それが勉強を阻むものである。間違うくらいなら,やらないほうがましだ,といった考え方などがそれである。勉強はやったほうがいいとわかっていても,なかなかやれない。また,やらない人の多くは,時間がないからだともいうが,それも嘘である。その人たちはただ臆病なだけであると思う。 齢![]() こんな歌がある。 捨てるかもしれぬ写真を何枚も真面目に撮っている九十九里 「捨てるかもしれぬ」に対して「真面目に」の対比が面白い。しかも,「まじめに」じゃなく「真面目に」である。漢字の硬さというか,ひらがなではない「真面目」一徹が感じられる。彼氏と九十九里浜で写真を撮っているのだろうか。しかし,このときの気持ちとして,「真面目に」,真剣に撮っているわたしと,いつか別れることになって,「捨てるかもしれぬ」という不安を抱えながらの真剣さ,心の揺れを感じる。しかも,その「何枚も」に今の愛情の大きさが感じられる。こんなことが欄外のメモとして残っていた。しかし,読みかえしてみると,何枚もということで,幸せであるが,何か不安である今に,その愛情を大きいものとしたい,不安を打ち消したいわたしがいるのかもしれない,という思いも過った。 よく,歌の指導をしていると,生徒たちはよく,そんなものつくった人に聞かなわからないと言う。本当の真意はそうかもしれない。しかし,作品としての歌は,できたあとには,歌人の手を離れるのである。つまり,あとは,つくり手以上の解釈となってもいいのである。そこが文学の楽しさなのである。リアリズムを超えてロマンチシズムが韻文にはあることが韻文たる所以である。そして,この歌集にしても30年も昔のものである。若いころの思いと今とのギャップがあるはずだ。その解釈の違いが人生の齢かもしれない。そのこともまた楽しい。 歌は記憶すべきであると思う。というのも,記憶した歌を思い出すとき,ふと以前の思いとは違った,またずっともやもやした思いでいたものが,何かを経験したり,見たりしたことで,視界がパッと広がり,ハッと思わせてくれるたり,気付かせてくれることがあるのが楽しいからである。 授業の命![]() 岡崎中学校では,今年度は保健体育の授業を行った。保健体育の先生方には,遅くまで,これに伴う指導案等を書いてもらった。上にも書いたように,生徒の確かな学力,生徒の持つよさや可能性を伸ばす目的のためには,生徒の実態を知ることが何より大事なことである。その実態分析ができてはじめて,指導案づくりができるのである。 わたしは国語であるので,国語でお話しするが,現行の学習指導要領の国語科では,「国語への関心・意欲・態度」「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」[言語事項]の五観点で国語の力を見取っている。一般には,この五観点は,国語の力としてどれも大事ではあるが,内容領域の「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の領域を一つ決め,「国語への関心・意欲・態度」・内容領域一観点・[言語事項]の三観点で見取ることになっている。 例えば「書くこと」の指導を行うときでも,読むこともあり,話すことや聞くこともあるが,あえて書くことに焦点をあてて見取るのである。だから,生徒の実態といっても,国語がよくできるとか,苦手であるとかではなく,「書くこと」の実態分析をしなければならない。単元目標及び本時の指導目標を意識して,「書くこと」における課題を挙げ,その課題克服のために,どのように生徒に迫るかが授業なのである。 本校の先生方には,年3回の校内授業研修とこの支部研修で,この生徒の実態分析を徹底してお願いし,授業に臨んでもらっている。生徒の課題を克服する授業こそ,真の授業なのである。そして,何より,本校でその実力をつけ,異動したとき,本校でつけた力を他校で波及してもらえることを常に願っている。わたしは,どこでも,だれにでも,こうした研修が行われる場所では,教科で採用された限り,教科で印象に残る教師になってくれと言っている。教科指導で勝負できる教師こそ,本当の教師だからである。 |
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