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最新更新日:2025/03/07 |
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同窓会![]() 当時,育成学級の担任は初めてで,戸惑うばかりであった。わたしは元来一つのことを継続して進めることを大切にしてきたので,何か学校全体にアピールできることはないかと思い,生徒たちの広報誌づくりと,体力づくりということで,放課後の時間走を毎日毎日行った。200メートルのグランドを10周である。最初は10周を走り切ることから,時間設定を行っての走りに変えた。雨の日は階段の上り下りである。修学旅行では,朝一番にみんなと一緒に走った。おかげで,校内のマラソン大会では,21キロ程走るのだが,10位以内に入る生徒もいた。毎日毎日グランドを走ることで,そのことが当たり前になり,学年はもちろん,他学年の多くの生徒からも声がかかるようになった。とにかく,全校にアピールすることでその存在感を示すことが大切である。今もその学校では続いているように聞いている。 当時,担任していた生徒は6名であった。男女3名ずつで,生徒一人ひとりの個性が色濃く出たが,皆で助け合いながら,いろいろなことを進めていった。以後の自分の学級を考える上で,大きな力となった。とりわけ,同じ学年に育成学級がある場合,その学級との関わりを強く意識した学級づくりを行うことの大切さが持てるようになったのは,そのときのおかげである。 6名で卒業したが,卒業した秋に一人の女子生徒は亡くなった。足に障害があったが,そのことをもろともせずに走ったりもしていた。それぞれ6名でカバーしながらのクラスづくりだった。32年の教師生活の中で,キラッと光る3年間だった。 教育という営み![]() わたしも家に帰ってから,ベートーヴェンの第5シンフォニーのCDを持ち出し,聞き返してみた。フルトヴェングラー2枚にワルター,カラヤン,クライバーの5枚である。カラヤンやクライバーのスピード感溢れる演奏に対して,フルトヴェングラーやワルターのそれは,堂々としたテンポで,運命の扉を開けるにふさわしい荘厳さであった。ステレオ録音やモノラル録音に囚われることなく,音楽の魂を響かせるものが迫った。わたしの持っている運命では,フルトヴェングラーのベルリンフィルとのそれが大変心に響いたものとなった。 比べるということは,子ども達にとっても大変具体的で分かりよいものである。どちらが自分の感性に近いか,どちらがより素晴らしいか,客観的でないかも知れないが,自分なりの思いを持つことが大事なことだと思う。こうした繰り返しを進める中で,自分の中の基準が定まってくるものである。それがある意味自信につながっていくのである。教育は,いかに子ども達にどのような部分でもいい,どのようなことでもいい,自信を付けさせるかである。その営みをわたしたち教職員が行うことなのであるということを,心して考えなければならないことだと思う。 生活習慣![]() 保健衛生委員会からの呼びかけや保健室から,食事や睡眠,心と体のつながりなど,生活をする上でのポイントとなるプリントを発行し,呼びかけている。また,正しい脈拍測定の方法等も身につくように指導を行っている。昨日は,それぞれ学年の取組として,1年生は薬の害について,学校薬剤師会会長の原田敬子先生から,2年生は栄養について,体育健康教育室指導主事の小山ひとみ先生から,それぞれお話を伺った。3年生は,アルコールと健康について,アルコールパッチテスト行った。 1年生は,正しい目薬のさし方や薬の構造,また,薬の宣伝に使われている人が年配の方である意味など,わたしも関心させられるような話で,興味深く聞いていた。2年生は,中学生として食生活,とりわけ早寝早起きと朝ごはんの重要性について話された。3年生は,アルコールに対して体質を知るために,それぞれ各自がテストを行ったが,単にアルコールに強いか弱いかだけでなく,強い者でも過信せずにすることが大切であるなど,担任が指導を行った。 なかなかこうした週間を取ることは難しいが,生徒にとっては,生活を支える大事な取組である。本校保健室は,「すずらん」という広報誌を出して,保健衛生上のいろいろな事柄を生徒に伝えているが,集中的に行うことで,より一層の効果があるように思う。いろいろな取組があるが,本校では,大事にしている取組の一つである。 立春![]() やはり春という言葉を聞くと,芭蕉の『おくのほそ道』を思い出す。「月日は百代の……」である。そのちょうど中頃に,「去年の秋,江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて,やや年も暮れ,春立てる霞の空に白河の関超えんと,……」とある。人生を旅にたとえて,決死の思いで旅立つ芭蕉の姿が思い出される。それは,「住めるかたは人に譲り」とあるように,今まで住んでいた深川の芭蕉庵を人に渡して,もう帰れないかもしれないと思いで,旅に出るのである。それに比べて今の旅は,新幹線でディーズニーランドへひとっ飛びである。点から点への移動が旅である今と,始まりから終わりまで旅程そのものがすべて旅である昔との違いであろう。そうした中で,人生を考え,自分を考え,人を思う芭蕉の目がきらっと光る。 現代の慌ただしい中にあって,そうした人生を考え,自分を考え,人を思うとはどのような時だろうか。わたしは,こうした中にあって,『おくのほそ道』などの書物を読むことで,そのことが実現できるように思う。立春を待ち遠しく思っていた芭蕉の気持ちをこの時季に読むことで,その気持ちにぐっと近づくように思う。本は季節を問わず読むことができるが,その中身を考えて,敢えて時季を選んで読んでみることで,なお一層の想像力が増し,違った視点での読みができるものと考える。そんな読書の楽しみ方もあるように思う。 節分![]() 節分は,四季の分かれ目にそれぞれある。立春,立夏,立秋,立冬のそれぞれ前日は節分である。しかし,今はこの立春の前日のことをいう。 昨晩,吉田神社に行ってきたが,吉田神社の追儺(ついな)は,平安朝の宮中で行われていた「鬼やらい」を継承したものである。 節分といえば,豆まきとなるが,豆は神様へのお供えとして,縁起の良いものとされた。節分の朝,炒った豆をマスに入れて神棚に供え,夕方,数えの年より二つ多く取り,一つを後ろへ投げ,厄を払い,残りを食べる。そして,いよいよ豆まきが始まる。室町時代,豆まきは「豆打ち」といったが,通常,「福は内,鬼は外」と唱えるが,地方や寺社によっては,「福は内,鬼は内」「鬼は内,福は内」「福は内,鬼も内」「福は外,鬼は内」等々,いろいろな唱え方がある。 もう一つ,節分といえば,「イワシ」であるが,これは,焼いた煙で鬼を退散させるということである。食べ終えたイワシの頭を柊(ひいらぎ)の枝にさして,戸口に立てておくと,柊のトゲで鬼が入ってこないからである。この風習は,まだまだ残っている。 受験生などは,とりわけ厄を払って,試験に臨みたい気持ちになるだろう。今日も受験に行っている生徒もいる。今頃,必至で取り組んでいることを願っている。 昨日のこと![]() 昨年の夏,全市教務主任会で,稲冨校長の思いを話していただいた。幹事会で一度お話が聞きたいとの要望が強かったからだ。ちょうど体調の変化の激しいときで,ご自身もその日の具合がどうなるかと心配されていたことを思い出す。でも当日は,その心配もなく,先生の歩んでこられた教師生活の中での,とりわけ力を注がれた同和問題に焦点を当てられた話であった。雨が降れば,学校へ来られない生徒の話,あんたら大学出てええわ,このしんどさなんかわからへんと言われた家庭訪問での話,いろいろと蘇ってくる。1時間の話であったが,わたしは,駆け出しの皆山中学校のころと照らし合わせて聞いていた。その後のみなさんの感想をお渡ししたときも,書かれた内容を見ながら喜んでおられた顔を今も思い出す。惜しむらくは,その日の様子をビデオで撮ってくださいと頼んでおいた人が忘れてしまったことだ。大事なことは,やはり自分自身で動かねばという思いを強く持った。 奥さまが来られたころ,ぽつぽつと降り出した雨は,お帰りになるころには,本降りになっていた。わたしの愛犬の死と稲冨先生の死,わたしと稲冨先生の関係をつなぐ人の入院,そして,今日,奥様が来られた日の雨と,なにか縁を感ぜざるを得ないことが続いている。校長室には,稲冨先生の写真を飾って,今の岡中を見てもらっている。 100周年![]() 1911(明治44 )年,聖マリア教会礼拝堂の建立と同時の開園であった。米国聖公会の流れを汲む幼稚園で,本校とは,チャレンジでお世話になっており,とりわけ,今の園長の菅原さと子先生が本校卒業生でもあることから,懇意にさせていただている。 小さい頃,わたしは,堀川の鞍馬口を下がった辺りに住んでいた。今も堀川北大路に復活幼稚園があるが,その前を通るたびに,聖母マリアさまが門の真正面におられ,ちょっとうつむき加減のように見えていたが,今考えると,子どもを上から見守って下さっているのだろうか,子ども心に何か厳かな近寄りがたいものを感じ,大変気になっていた。また,12月に入ると,クリスマスの飾り付けがきらびやかであったことを思い出す。多分,聖マリア幼稚園もそんな感じだったのだろうなと想像している。 チャレンジでお世話になっている時,物の順番を覚える記憶装置にスイッチ・オンという遊びをされていたことを覚えている。みんな真剣に場所の置き換えをしていた。幼児教育のことはあまりわからなが,体のリズムや言語認識のもととなる大切なこの時期,最も大事な教育である。園長の菅原先生は,優れた幼児教育の実践者として知られている。先生方には,厳しさとともに愛情ある指導をなされていると聞いている。でもほんとうにあのニコッとされた顔をみると,今のわたしもホッとする。 わたしの中では,岡崎といえば,前にも書いたが,国花となった桜や琵琶湖疏水,南禅寺,銀閣寺,哲学の道,金戒光明寺,平安神宮等々いろいろなものが思い出されるが,今また一つ,園長菅原さとこ先生の笑顔と100周年を迎えた聖マリア幼稚園が,今までとは違った形で,心の片隅に加わった。 創立100周年記念,誠におめでとうございます。 秋の田の・・・・・・![]() 『百人一首』と呼んでいるが,通常は,『小倉百人一首』を指す。藤原定家(さだいえ)の編んだ歌集だが,定家は普通には「ていか」と音読し,『百人一首』の歌の作者として読むときも「ていか」と読む。京都,嵐山の小倉山荘の障子に張った百枚の色紙に,定家がかいていたので,「小倉」という地名が冠としてついたのである。 この『百人一首』は,百人の歌人から一首ずつ、合計百首の歌を集めたという意味で,多くの人々の韻文などを集めて編纂した詩歌集を詞華集(アンソロジー)という。ゆえに,この『百人一首』もアンソロジーである。しかも『百人一首』は「ひゃくにんいっしゅ」とは読まず,「ひゃくにんしゅ」と読むことが昔からの約束事となっている。このような読み方の約束を「読みぐせ」というのである。 定期考査![]() いつも思うことであるが,この最後の考査は,プレ入試であるように思う。入学選抜のテストは学校でのテスト以上に厳しく採点がなされる。そこで,考えてもらいたいのは,そうした採点に耐えうる答案の記述をしているかである。鉛筆の濃さはどうだろうか,読んでもらうために丁寧な字を書いているか,問いの意図を読み取った答案になっているだろうか,などといった単に何点であったで終わらず,いろいろな観点から,自分の答案を見直して欲しい。 また,この定期考査までの1週間の過ごし方はどうだったろうか。考査に合わせて,当日最良のコンデションで臨めるような生活リズムであったかどうかである。何をたいそうにと思っている人もいるかもしれないが,風邪気味で当日を迎えることは,自分の不注意であり,やはり大きな問題である。だから,外から帰ったときは,うがいや手洗いをしっかりしていただろうか。数え上げればきりがない。そうした細心の注意を払っても,払いすぎることはない。一度,考査が終われば,自分自身でどんなことが必要かを注意深く書きあげてみて欲しい。この考査が終われば,もうまっしぐらである。 チャレンジ体験![]() この体験はいろいろな見方がある。わたしは,家庭や学校を離れて,きっちりと対応ができるかという視点でまずは見ている。なんといっても,挨拶などの基本,つまり,人としてのコミュニケーションがしっかりとできるかである。初めて接する人の判断基準はそれしかないのである。人と人との接点の大切さを感じ取って帰って来て欲しい。また,働くことへの思いや親の苦労が分かってくれればとも思う。口ではなかなか説明できないものである。親もなかなか言えないものである。そして,新しい環境で,新たな自分が発見できればと願っている。 5日間もの間,岡崎の生徒だけでなく,多くの中学生を受け入れてくださっている皆様方には,本当に感謝の限りである。ニコニコとした笑顔で見る職場の生徒は最高である。今日行ったところでは,精一杯楽しんでくださいね,と声かけをしてくださっていた。一人一人の体験は違うが,職場の方々は,それぞれ中学生を大きな目で見てくださっていることは確かである。どうか受け入れてもらったことへの感謝だけは忘れないでいて欲しい。月曜からの登校を楽しみにしている。 |
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