京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/31
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『自由』『自律』『友愛』

学校指導の重点から

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 今日は公立高等学校の選抜である。暖かくて何よりである。各校からの連絡も入り,生徒たちのそれぞれの会場での健闘を祈るばかりである。
 さて,昨日の職員会議・研修会で,遅くなったが,「平成22年度 学校教育の重点」の説明を行った。とりわけ,中学校で推し進める「学力向上を中核として徹底した学校改革」中身としては,4点挙げられていたが,学習規律の確立,授業改善の徹底,家庭学習の定着,更には研究主任を中心とした校内研究体制の確立,確認プログラムや全国学力・学習状況調査の結果検証と課題解決に向けた実践,能力の伸長を目指した進路指導の充実とその保障である。これは,全市の中学校の方向性であるが,本校では,その方策として,「学級経営に根ざした道徳指導のあり方」でもって,学校の基盤としての学級をしっかりとつくっていくことを全員で確認している。さらには,毎年3回行っている校内授業研修をどのように工夫改善し,充実させていくか。そして,研究主任を中心として,各種調査結果分析と課題解決に向けて,来年度にはさらなる取組強化をどう進めていくのかを考えなければならない。
 わたしは,もともと大きく変える必要はないと考えている。変更点をしっかりとさせることこそが一番大切な点だと考える。ごろっと変えることは,その不安や心配を増すものであるからだ。しかし,大きく見える点を1か所でいいから変更することで,そのことを実行することで,玉突きが起こるのである。玉突きで,いろいろと変わらなければならないのである。玉突きの起こらない変更など,変更とはいえない。
 そのことを授業という点でみてみると,1時間の授業で,今までの授業とは1か所でいいから学ぶべき何かハッとするようなものを入れることだ。新鮮な要素を入れることで,指導の停滞を防ぎ,興味あるわくわくする授業へと続いていく。そして何より,新しい要素を入れるためには,教材研究をしなければならないからだ。大村はま先生は,自分がわくわくしない教材など教える価値がないと,常に教材開発を進められた。

区切り

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 明日は公立高等学校の選抜試験である。全力を出し切れるように,今日の間に諸々の準備を怠りなくやっておいて欲しい。それは,本来出さなければならない力を,つまらない心配や不安で削ぐことになるからだ。
 わたし自身の高等学校の検査の前日は眠れなかったことを思い出す。布団の中に入ってはみたものの,寝付けなかった。試験科目の理科で,生物の分類が出たことをなぜか覚えている。そこには,ペンギンの絵が載っていた。そして,試験は9教科であった。もう40年も昔の話である。
 明日一番大切なことは,一科目ごとに切り替えることだ。国語から始まるが,集中して取り組むとともに,終わればそのことを一切忘れて次の教科にスイッチすることだ。いつまでも済んだことを引きずらないことこそが一番大切なことだ。そして,ただただ解答欄を間違えないようにすること。
 今まで,君たちもしんどくて辛くてという思いできたと思うが,それ以上に家族の方々や周りの人たちは,君たちを見守ってこられたはずである。自分一人でということはないはずだ。試験が終わった時でもいい,卒業式のあとでもいい,一つの区切りとして,感謝を表して欲しい。そのことが次の段階へ進む条件である。これは,なにも3年生だけではない。1年生も2年生も一つの区切りが終わる。その区切りごとに周りの人たちへの思いを伝えて欲しい。家族はもちろん,親戚の方々に,先生方にと,毎日顔を合わせているのにという思いもあるかもしれないし,そうした思いから,また大変恥ずかしいかもしれないが,その一つ一つの中に人と人とのつながりがあるからだ。そして,その感謝を表すことは,言葉には表れないが,これからもよろしくという思いまでもが入ってくるのである。大切にしてほしい。もう新しい4月はそこだ。

わたし自身のこと

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 新採の頃,50代の先生方を見ては,あのような年齢になるとは思いもよらなかった自分がいたことを思い出すが,もう50代も後半になってしまった。30余年,自分は何をしてきたのかなと思うことがしばしばある。
 この歳になっても国語のことと道徳のことが気になってしょうがない。自分ならという思いで,国語と道徳のことを考えている。いい授業がしたいという思いをずっと持って今まで来たが,いい授業ができたことがない。わたしの考えるいい授業とは,生徒たちが分かったという思いで,笑顔あふれる授業のことである。今日こそはと思いながら,いつも打ちのめされて帰ってきた。今でもいい授業したい気持ちでいっぱいである。でも今は,その思いを岡崎中学校の先生方に託しているというのが実際である。
 来年度,文部科学省の道徳の指定を受けている。よくいろいろな指定を受けていたので,教職員の皆さんには申し訳ないという思いと,これらを受けることで,それぞれが勉強をして,岡崎中学校で学んだことを次の学校で広めて欲しいという願いがある。とりわけ,道徳教育は,指導の要であると考える。教科指導と道徳指導ができて教師であると思う。教師としての両輪である。来年度の指定は,ごくごくオーソドックスな考え方の学級指導の方法を学んで欲しいという願いでやるものである。やるからには,しんどくてもやってよかったという思いになるものでなくてはならないと考える。
 わたし自身のことで恐縮だが,新採校では,生徒と一緒にという思いで10年間を過ごした。夜10時,11時まで家庭訪問をしていたことを思い出す。足で稼げと言われ続けていた。次の学校では,教科指導や道徳指導がなかなかできなくて,どうしたらいいかと悩んだことがいっぱいあった。必死で勉強をした。すると自分自身の学校生活が楽しくなってきた。軸が定まると,何を言われても動じなくなってきた。指導に対しての過信や独りよがりはいけないが,常にどうしたら生徒たちによく分かる授業ができるだろうかという思い持ち,そして,生徒に学力を付けるという教師本来の姿で勝負しなければならないことを忘れてはいけないという思いを強く持った。そして,今の学校が3校目である。40歳であったが,5年間,大変楽しい学校生活を送らせてもらった。でも,自分自身で満足をした授業は未だ行えていない。そのこと自体が心の中に今も巣食っている。

桃の節句

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 明日は桃の節句である。女の子の幸を祈るものである。桃の花を入れた酒を飲むと病気にならない。また,草餅も備えられる。白酒や菱餅がそれにあたるものであろう。わたしも校長室に雛人形を飾り,女子生徒の幸せを願っている。
 ところで,『おくのほそ道』の冒頭「月日は百代の……」の最後のところに,主人が替わった芭蕉庵の様子が記されている。「……住める方は人に譲り,杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに, 草の戸も住み替はる代ぞひなの家  表八句を庵の柱に掛けおく。」とある。これは,これから旅に出る芭蕉が自分の家を出て,他人に譲った庵の様子である。「草の戸」はあばら家で,「ひなの家」はお雛様をかざる家と小さな子どもがいる家となる。「みすぼらしい芭蕉庵も住む人が替わると,お雛様をかざるような子どももいる賑やかな家になったな。」といった意味くらいだろう。旧暦ゆえ,およそ一か月遅れである。
 その雛人形は,平安朝では,紙雛で,人形を撫でて災厄を払って,川や海に流す流し雛であった。これは,『源氏物語』にも書かれている。下鴨神社でも流し雛が行われる。今も神社などで,大祓いなどに用いられる形代(かたしろ)として残っている。もともとは立ち雛で,それが座り雛,近世に入ると,段飾りへと変わっていく。なお,京都を中心とする関西では,お内裏様を向かって右に飾り,関東のそれとは違っている。
 宮中では,この日,節句の行事として,清涼殿の南庭で,鶏合(とりあわせ)といって,鶏を闘わせていた。今の闘鶏である。これは,唐の玄宗帝が乙酉(きののとり)の生まれで,祖先供養の清明節におこなわれていたものである。また,宮中では,曲水の宴も執り行われていた。

準備

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 土曜,日曜と用事があって出かけていた。日曜の午後,帰宅しようとしたところ,チリ大地震の大津波警報で帰れなくなった。道路もJRも一部区間がその影響で通行止めや不通になった。もっと情報をしっかりと確かめ,準備をしておけばと悔やんだ。
 さて,その土日は,バンクーバー冬季五輪の女子フィギュアばかりが取り上げられていた。NHKスペシャルで浅田真央選手とキム・ヨナ選手の密着取材の番組をしていた。14歳からのライバルであったが,キム選手は浅田選手のようなトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を飛ぶことはできないということで,飛べるジャンプを確実にし,表現力を高めること,そして,加点に徹底的にこだわることで,自分の演技を高めていったという。そして,選曲でも,あっと驚くような選曲で勝負に出たとも言っていた。こちらは,浅田選手への徹底的なこだわりで,オリンピックに準備万端の用意で臨んでいたように思えた。奇しくも男子フィギュアの銀メダルのエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)、金メダルのエバン・ライサチェク(アメリカ)も女子フィギュアと同じような展開だったなと感じた。
 ところで,キム選手のように出来る,出来ないを,おのれ自身で考え,さっと切替え,できることをしっかりと固めることは,この金曜日に迫った公立高等学校の選抜にも活かせるように思う。じたばたしてももうそこである。不足分はともかく,今ある自分の確実にできるものを落とさないことが大切である。今日から4日間,直前の勉強方法を組み立てて,頑張って欲しい。準備を怠らず,しっかりと進めて欲しい。栄冠は自分自身でつかまなければならない。

問題作成

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 いよいよ2月も最後の日となった。3年生の公立高等学校の願書提出も始り,1・2年生は昨日までの定期考査5も無事終了し,いよいよ残すは3月だけである。まとめと次に向けての準備の月である。
 朝,校門に立っていると,向かいのホテルは大学受験の生徒たちで慌ただしかった。近くに大学があり,地方からの受験生であろうか。昨日,今日と暖かく,何よりである。来週の今日は,公立高等学校の検査日である。1週間の準備を怠りなく進めて欲しい。
 定期考査も入学試験もそうであるが,ミスが許されないものである。問題作成の腕が試される。大学入試などでは,ミスの発表が最近とみに多く感じられるようになった気がするがどうだろうか。やはり手で書かなくなったためだろうか。授業のことであるが,わたしは,国語でも道徳でも中心となる発問に関しては,生徒たちに問う言葉をそのまま書けといっている。指導案でも流れしか書かれていないものが多い。授業は,生徒にいかに問うかが大切なのである。一番悪い問いは,生徒から質問が出る問いである。いかようにも解釈できるからである。そして,その繕いの説明をしているうちに,生徒に誘導発問をしているのである。だから,その問いをつくる訓練を教師はしっかりとすべきである。中心となる発問の問い方をしっかりと吟味して欲しい。生徒に考えさせる命だからである。一点の曇りもなく,生徒たちが同じスタートラインに立てるような問いづくりをしなければならない。副詞の係り方一つで意味は違ってくる。誤解のない文意にするためには,どこに置くのがいいか,そこまで真剣に考えなければならない。そのくらいの気概が欲しい。鉛筆でその問いをつくると,消したり書いたり,加えたりといろいろな作業ができる。パソコンで打ち込めば案外,そうした作業は楽なように感じるが,しかし,逆に打ち込めばできたという感覚に陥り,なにかスーッと流れていくような気がしてならない。それが大学入試のミスの多さの一つにつながっているのかなとも思う。
 新採の先生の話を昨日書いたが,新採の先生には,是非とも自分の教科の全国の公立高等学校の入試問題集をじっくり見て欲しいと言っている。実技の先生には,それに代わる実技系の大学入試問題集でもいい,どんな問い方や問題の配列,選択肢の長さ等,そこからはいろいろと見えてくるものがある。

研究授業と授業研究

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 本校の英語科の新採の先生の研究授業が昨日の5限目に行われた。多くの先生方の参観があり,大変な緊張がありありと見受けられた。英語科の授業ゆえに,中身については分からないが,英語の苦手なわたしゆえか,たいへん難しかった。後の授業研究会がどうだったかはわからない。でも堂々としている姿は,わたしの新採のころのそれとは大いに違った。そのころの自分自身を思い出すと,大変恥ずかしい限りである。
 研究授業は,自分の研究成果を踏まえての新たな提案をする場である。そして,自分の得意の場面をつくり,といっても自分の授業技術を総動員してアピールする場を見せなければならない。さらに,なぜ指導案を書くかというと,曖昧模糊とした自分の考えを書くことによって,論理的にまとめなければならない。これが,研究授業の姿である。
 一方,授業研究会は,授業者にとっては,自分の説を主張する場であり,研究成果を踏まえての提案の場であることから,意見に傾聴しつつも,自説に誇りを持って堂々と説明することが大切である。また,参観者は,授業者が提示したものを,さらに充実したものとなるような提案をし,上げ足を取るようなことは慎むことが大切である。そのためには,事前に指導案をしっかりと読み,あらかじめ,課題意識をもって参加し,授業と照らし合わせられるようにしておく必要がある。
 簡単にまとめてみたが,まだまだ観点はあるだろう。ということで,研究授業に戻るが,正答が出ても,生徒の意見をいろいろ尋ねること,それに,生徒の実態を書き,焦点化生徒を決めておきながら,どこでその焦点化生徒に活躍させるかが生かされていなかったのが残念だ。でもそこが大変難しい。焦点化生徒は,自分の授業の成否を判定する指標生徒なのである。そして,判定の基準は具体的に記述すること。これは授業を参観した人が授業の成否を判断するのに必要だからである。指導主事と新採指導員の先生との授業研究会ののち,わたしと二人での授業研究会を行った。さぞ,疲れたことだろう。頑張れ新採先生。

大村はま先生

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 以前にも書いたが,マイブームである大村はま先生の話である。時々書物をひも解いては,元気をもらう。その元気とは,もっと勉強しなければという思いである。大村はま先生の『灯し続けることば』を時々読みながら,自分の至らなさを思い知ること,自分を戒めることを続けている。その中から,
 「教師は,大いに尊敬されていい職業です」というのも,子どもの様子に惑わされず,自分の指導が本当に正しいか,子どもに力をつけているか,自分で全部責任を取っていく存在ゆえに,大いに尊敬されていいもので,このような覚悟がないと,優しければいい,子どもが好きだからいいという甘えた考え方に流れることを戒めている。
 「熱心結構,いい人あたりまえです」というのも,熱心,いい人はあたり前で,悪い人ならたまったものではない。でも「いい人」がかなり幅をきかせ,一般社会では,仕事の能力と切り離して「いい人」が幅をきかせないし,業績を上げ,仕事をちゃんとやれる人,つまり,子どもに一人で生きていける力をつけられる力と技術を持っていることが大切で,それを忘れた「いい人」では困る。
 「熱心と愛情,それだけでやれることは,教育の世界にはないんです」というのも,若い教師が,何もできないが,教育への愛情,真心でやっていくんだということへの不安。つまり,子どもがかわいいとか,よく育ってほしいなどということは,大人みんなの思いであり,それを教師の武器のように思ってはいけない。教師として,人を育てる能力,教師の教師たる技術を持っていなければ困る。
 本を常に周りに置き,時々自分を省みている。まだまだ未熟な教師であるということを知ることが,その成長を促すように思う。

19・22日のことから

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 昨日,公立高等学校の適性検査,推薦入学,特色選抜の結果が出た。いつもながらの悲喜こもごもである。でもそれは,2月15日・16日現在の力での判定である。永遠の判定ではない。合否ともどもしっかりとその力がどうであったかを振り返り,次のステップに活かして欲しい。また,1・2年生の定期考査も始り,生徒たちの真剣に取り組んでいる様子がひしひしと感じられた。
 さて,19日に国母選手の話を書いたが,帰国した国母選手は,服装はしっかりと正し,最後まで自分を応援してくれた人に感謝するとともに,これからも自分流を貫いていきたいとコメントをしていた。はからずも国母選手の内面化,つまり,価値体系の組替えがなされたものと思う。いきなり0から100はあり得ない。自分流を貫かなければならない国母選手の気持ちもよく分かる。堂々たる8位入賞である。素質もあるかもしれないが,その努力たるや,やはり認めなければならない。次のオリンピックに向けて,すごく楽しみである。
 ところで,昨日の×の利用の話であるが,もっとわかりやすく言えば,よく先生方は,子どもにちゃんと言いました,きっちりと伝えましたが……と言いながら,子どもが忘れ物をする実態がある。わたしはいつも,それは伝えたことにならないと言っている。現に忘れ物をしているからである。何度も何度も忘れ物をする子どもは限定されてくる。そういう実態の子どもが分かれば,お知らせプリントを渡すときに,何度も忘れ物をする子どもに読ませるとか,誰かが読んだり,先生が説明をされた後に,再度ポイントを尋ねてやるとかして,注意喚起をしなければならない。そのことが×の利用の話なのである。子どもたちは一人一人違う。その違いを一番よく知っているのは担任である。一つ一つ丁寧な積み重ねこそ,信頼を得た担任と認められていくのである。

答案

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 20日土曜日の「天声人語」に,氷がとけたら何になる?テストである子が「水になる」ではなく「春になる」と答えたという話が載っていた。以前,伝聞だったので「虚実はおいて」と断った話の続編である。実際,札幌市の60代の女性がセビア色した「りかのてすと」のカラーコピーが送られてきて,その解答に「つちがでてはるになります」と書かれてバツがついていて85点であったとある。
 小学生のことだから,担任の先生は一言,二言何か声をかけて返されただろうなと想像をする。でも,子ども心に複雑な思いだったろうなとも思う。×をもらう子どものことを考えると,ちょっと考えさせられることがある。テストは指導者の評価である。子どもに×を付けながら,指導者はどう考えているのだろうか。もちろん本人の理解不足であることには違いないが,その裏は,指導者の指導不足である。教え切れていない自分がいるのである。このことが大切なのである。新任校で,解答用紙に正の字で,間違った人数をカウントされていた先生がおられた。どの問いに間違い多いかを調べているのだと言われた。教え切れていないところを知るための方策であった。それ以来,わたしは誤答例を具体的に付けてまとめをつくるようになった。このことは,間違いの類型化を知るために大きな参考になり,指導をする上で,また,研究授業の指導案を書くときの生徒の実態を知る上で,大きなプラスとなった。また,国語という教科の性格上,この解答なら△ではないかとか,これは○のはずだがどうだとか返却時が大変であったので,解答の不満の部分に説明を付けさせる作業を行い,再度確認するために,一旦返却した解答用紙を再度全部集めて,見直す作業を行った結果,生徒がどのように考えているのかといったことも分かってきた。これもまた生徒の実態を知る上で,大きな成果となった。
 ×の解答の活用を我々教師はしっかりと指導に活かさなければならない。でも,まだまだ「こんなものも分かっていない」と自分の指導を棚の上にあげて言う教師もいる。本校では,明日から1・2年生は定期考査5の試験が始まる。

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