京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/06/12
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『自由』『自律』『友愛』

桃の節句

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 明日は桃の節句である。女の子の幸を祈るものである。桃の花を入れた酒を飲むと病気にならない。また,草餅も備えられる。白酒や菱餅がそれにあたるものであろう。わたしも校長室に雛人形を飾り,女子生徒の幸せを願っている。
 ところで,『おくのほそ道』の冒頭「月日は百代の……」の最後のところに,主人が替わった芭蕉庵の様子が記されている。「……住める方は人に譲り,杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに, 草の戸も住み替はる代ぞひなの家  表八句を庵の柱に掛けおく。」とある。これは,これから旅に出る芭蕉が自分の家を出て,他人に譲った庵の様子である。「草の戸」はあばら家で,「ひなの家」はお雛様をかざる家と小さな子どもがいる家となる。「みすぼらしい芭蕉庵も住む人が替わると,お雛様をかざるような子どももいる賑やかな家になったな。」といった意味くらいだろう。旧暦ゆえ,およそ一か月遅れである。
 その雛人形は,平安朝では,紙雛で,人形を撫でて災厄を払って,川や海に流す流し雛であった。これは,『源氏物語』にも書かれている。下鴨神社でも流し雛が行われる。今も神社などで,大祓いなどに用いられる形代(かたしろ)として残っている。もともとは立ち雛で,それが座り雛,近世に入ると,段飾りへと変わっていく。なお,京都を中心とする関西では,お内裏様を向かって右に飾り,関東のそれとは違っている。
 宮中では,この日,節句の行事として,清涼殿の南庭で,鶏合(とりあわせ)といって,鶏を闘わせていた。今の闘鶏である。これは,唐の玄宗帝が乙酉(きののとり)の生まれで,祖先供養の清明節におこなわれていたものである。また,宮中では,曲水の宴も執り行われていた。

準備

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 土曜,日曜と用事があって出かけていた。日曜の午後,帰宅しようとしたところ,チリ大地震の大津波警報で帰れなくなった。道路もJRも一部区間がその影響で通行止めや不通になった。もっと情報をしっかりと確かめ,準備をしておけばと悔やんだ。
 さて,その土日は,バンクーバー冬季五輪の女子フィギュアばかりが取り上げられていた。NHKスペシャルで浅田真央選手とキム・ヨナ選手の密着取材の番組をしていた。14歳からのライバルであったが,キム選手は浅田選手のようなトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を飛ぶことはできないということで,飛べるジャンプを確実にし,表現力を高めること,そして,加点に徹底的にこだわることで,自分の演技を高めていったという。そして,選曲でも,あっと驚くような選曲で勝負に出たとも言っていた。こちらは,浅田選手への徹底的なこだわりで,オリンピックに準備万端の用意で臨んでいたように思えた。奇しくも男子フィギュアの銀メダルのエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)、金メダルのエバン・ライサチェク(アメリカ)も女子フィギュアと同じような展開だったなと感じた。
 ところで,キム選手のように出来る,出来ないを,おのれ自身で考え,さっと切替え,できることをしっかりと固めることは,この金曜日に迫った公立高等学校の選抜にも活かせるように思う。じたばたしてももうそこである。不足分はともかく,今ある自分の確実にできるものを落とさないことが大切である。今日から4日間,直前の勉強方法を組み立てて,頑張って欲しい。準備を怠らず,しっかりと進めて欲しい。栄冠は自分自身でつかまなければならない。

問題作成

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 いよいよ2月も最後の日となった。3年生の公立高等学校の願書提出も始り,1・2年生は昨日までの定期考査5も無事終了し,いよいよ残すは3月だけである。まとめと次に向けての準備の月である。
 朝,校門に立っていると,向かいのホテルは大学受験の生徒たちで慌ただしかった。近くに大学があり,地方からの受験生であろうか。昨日,今日と暖かく,何よりである。来週の今日は,公立高等学校の検査日である。1週間の準備を怠りなく進めて欲しい。
 定期考査も入学試験もそうであるが,ミスが許されないものである。問題作成の腕が試される。大学入試などでは,ミスの発表が最近とみに多く感じられるようになった気がするがどうだろうか。やはり手で書かなくなったためだろうか。授業のことであるが,わたしは,国語でも道徳でも中心となる発問に関しては,生徒たちに問う言葉をそのまま書けといっている。指導案でも流れしか書かれていないものが多い。授業は,生徒にいかに問うかが大切なのである。一番悪い問いは,生徒から質問が出る問いである。いかようにも解釈できるからである。そして,その繕いの説明をしているうちに,生徒に誘導発問をしているのである。だから,その問いをつくる訓練を教師はしっかりとすべきである。中心となる発問の問い方をしっかりと吟味して欲しい。生徒に考えさせる命だからである。一点の曇りもなく,生徒たちが同じスタートラインに立てるような問いづくりをしなければならない。副詞の係り方一つで意味は違ってくる。誤解のない文意にするためには,どこに置くのがいいか,そこまで真剣に考えなければならない。そのくらいの気概が欲しい。鉛筆でその問いをつくると,消したり書いたり,加えたりといろいろな作業ができる。パソコンで打ち込めば案外,そうした作業は楽なように感じるが,しかし,逆に打ち込めばできたという感覚に陥り,なにかスーッと流れていくような気がしてならない。それが大学入試のミスの多さの一つにつながっているのかなとも思う。
 新採の先生の話を昨日書いたが,新採の先生には,是非とも自分の教科の全国の公立高等学校の入試問題集をじっくり見て欲しいと言っている。実技の先生には,それに代わる実技系の大学入試問題集でもいい,どんな問い方や問題の配列,選択肢の長さ等,そこからはいろいろと見えてくるものがある。

研究授業と授業研究

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 本校の英語科の新採の先生の研究授業が昨日の5限目に行われた。多くの先生方の参観があり,大変な緊張がありありと見受けられた。英語科の授業ゆえに,中身については分からないが,英語の苦手なわたしゆえか,たいへん難しかった。後の授業研究会がどうだったかはわからない。でも堂々としている姿は,わたしの新採のころのそれとは大いに違った。そのころの自分自身を思い出すと,大変恥ずかしい限りである。
 研究授業は,自分の研究成果を踏まえての新たな提案をする場である。そして,自分の得意の場面をつくり,といっても自分の授業技術を総動員してアピールする場を見せなければならない。さらに,なぜ指導案を書くかというと,曖昧模糊とした自分の考えを書くことによって,論理的にまとめなければならない。これが,研究授業の姿である。
 一方,授業研究会は,授業者にとっては,自分の説を主張する場であり,研究成果を踏まえての提案の場であることから,意見に傾聴しつつも,自説に誇りを持って堂々と説明することが大切である。また,参観者は,授業者が提示したものを,さらに充実したものとなるような提案をし,上げ足を取るようなことは慎むことが大切である。そのためには,事前に指導案をしっかりと読み,あらかじめ,課題意識をもって参加し,授業と照らし合わせられるようにしておく必要がある。
 簡単にまとめてみたが,まだまだ観点はあるだろう。ということで,研究授業に戻るが,正答が出ても,生徒の意見をいろいろ尋ねること,それに,生徒の実態を書き,焦点化生徒を決めておきながら,どこでその焦点化生徒に活躍させるかが生かされていなかったのが残念だ。でもそこが大変難しい。焦点化生徒は,自分の授業の成否を判定する指標生徒なのである。そして,判定の基準は具体的に記述すること。これは授業を参観した人が授業の成否を判断するのに必要だからである。指導主事と新採指導員の先生との授業研究会ののち,わたしと二人での授業研究会を行った。さぞ,疲れたことだろう。頑張れ新採先生。

大村はま先生

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 以前にも書いたが,マイブームである大村はま先生の話である。時々書物をひも解いては,元気をもらう。その元気とは,もっと勉強しなければという思いである。大村はま先生の『灯し続けることば』を時々読みながら,自分の至らなさを思い知ること,自分を戒めることを続けている。その中から,
 「教師は,大いに尊敬されていい職業です」というのも,子どもの様子に惑わされず,自分の指導が本当に正しいか,子どもに力をつけているか,自分で全部責任を取っていく存在ゆえに,大いに尊敬されていいもので,このような覚悟がないと,優しければいい,子どもが好きだからいいという甘えた考え方に流れることを戒めている。
 「熱心結構,いい人あたりまえです」というのも,熱心,いい人はあたり前で,悪い人ならたまったものではない。でも「いい人」がかなり幅をきかせ,一般社会では,仕事の能力と切り離して「いい人」が幅をきかせないし,業績を上げ,仕事をちゃんとやれる人,つまり,子どもに一人で生きていける力をつけられる力と技術を持っていることが大切で,それを忘れた「いい人」では困る。
 「熱心と愛情,それだけでやれることは,教育の世界にはないんです」というのも,若い教師が,何もできないが,教育への愛情,真心でやっていくんだということへの不安。つまり,子どもがかわいいとか,よく育ってほしいなどということは,大人みんなの思いであり,それを教師の武器のように思ってはいけない。教師として,人を育てる能力,教師の教師たる技術を持っていなければ困る。
 本を常に周りに置き,時々自分を省みている。まだまだ未熟な教師であるということを知ることが,その成長を促すように思う。

19・22日のことから

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 昨日,公立高等学校の適性検査,推薦入学,特色選抜の結果が出た。いつもながらの悲喜こもごもである。でもそれは,2月15日・16日現在の力での判定である。永遠の判定ではない。合否ともどもしっかりとその力がどうであったかを振り返り,次のステップに活かして欲しい。また,1・2年生の定期考査も始り,生徒たちの真剣に取り組んでいる様子がひしひしと感じられた。
 さて,19日に国母選手の話を書いたが,帰国した国母選手は,服装はしっかりと正し,最後まで自分を応援してくれた人に感謝するとともに,これからも自分流を貫いていきたいとコメントをしていた。はからずも国母選手の内面化,つまり,価値体系の組替えがなされたものと思う。いきなり0から100はあり得ない。自分流を貫かなければならない国母選手の気持ちもよく分かる。堂々たる8位入賞である。素質もあるかもしれないが,その努力たるや,やはり認めなければならない。次のオリンピックに向けて,すごく楽しみである。
 ところで,昨日の×の利用の話であるが,もっとわかりやすく言えば,よく先生方は,子どもにちゃんと言いました,きっちりと伝えましたが……と言いながら,子どもが忘れ物をする実態がある。わたしはいつも,それは伝えたことにならないと言っている。現に忘れ物をしているからである。何度も何度も忘れ物をする子どもは限定されてくる。そういう実態の子どもが分かれば,お知らせプリントを渡すときに,何度も忘れ物をする子どもに読ませるとか,誰かが読んだり,先生が説明をされた後に,再度ポイントを尋ねてやるとかして,注意喚起をしなければならない。そのことが×の利用の話なのである。子どもたちは一人一人違う。その違いを一番よく知っているのは担任である。一つ一つ丁寧な積み重ねこそ,信頼を得た担任と認められていくのである。

答案

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 20日土曜日の「天声人語」に,氷がとけたら何になる?テストである子が「水になる」ではなく「春になる」と答えたという話が載っていた。以前,伝聞だったので「虚実はおいて」と断った話の続編である。実際,札幌市の60代の女性がセビア色した「りかのてすと」のカラーコピーが送られてきて,その解答に「つちがでてはるになります」と書かれてバツがついていて85点であったとある。
 小学生のことだから,担任の先生は一言,二言何か声をかけて返されただろうなと想像をする。でも,子ども心に複雑な思いだったろうなとも思う。×をもらう子どものことを考えると,ちょっと考えさせられることがある。テストは指導者の評価である。子どもに×を付けながら,指導者はどう考えているのだろうか。もちろん本人の理解不足であることには違いないが,その裏は,指導者の指導不足である。教え切れていない自分がいるのである。このことが大切なのである。新任校で,解答用紙に正の字で,間違った人数をカウントされていた先生がおられた。どの問いに間違い多いかを調べているのだと言われた。教え切れていないところを知るための方策であった。それ以来,わたしは誤答例を具体的に付けてまとめをつくるようになった。このことは,間違いの類型化を知るために大きな参考になり,指導をする上で,また,研究授業の指導案を書くときの生徒の実態を知る上で,大きなプラスとなった。また,国語という教科の性格上,この解答なら△ではないかとか,これは○のはずだがどうだとか返却時が大変であったので,解答の不満の部分に説明を付けさせる作業を行い,再度確認するために,一旦返却した解答用紙を再度全部集めて,見直す作業を行った結果,生徒がどのように考えているのかといったことも分かってきた。これもまた生徒の実態を知る上で,大きな成果となった。
 ×の解答の活用を我々教師はしっかりと指導に活かさなければならない。でも,まだまだ「こんなものも分かっていない」と自分の指導を棚の上にあげて言う教師もいる。本校では,明日から1・2年生は定期考査5の試験が始まる。

価値体系の組替え

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 バンクーバー冬季五輪スノーボード・ハーフパイプの国母選手の服装の乱れ問題がクローズアップされている。賛否様々な意見が飛び交っている。いろいろな視点があって,多様な意見があっていいと思う。それが健全であると思う。学校でいえば,道徳教育にあたる話かと思うので,そのことについて,考えてみようと思う。
 本校の道徳の視点として,内面化ということを重視して考えている。道徳を行うことによって,今ある自分の内面を塗り替えていくことであるという考え方である。友だちの多様な意見の交流等によって,自分の内面を変えていく作業なのである。つまり,人間は,自分の内なる価値体系をもとに,具体的な場面における判断を下しながら,自分の取るべき行為を選択しているのである。その価値体系は,新たな経験により,組み替えられえていくもので,より高い価値体系への組替えが道徳を行う意義であると考えている。すなわち,社会的規範や道徳的価値が,自分の心の内面に育ち、外から与えられたものではなく,他人がするからでもなく,損得勘定からでもなく,自分の心中で,必要性を感じる気持ちになることが,内面化をめざす道徳なのである。昨日書いたJR高円寺駅での青年は,その気持ちがまさに行動化になった話なのである。
 だから,国母選手自身も様々な意見を聞きながら,自分の内面化を進めているものと思う。また,それらの意見を聞いているわたし自身も,今までの自分とは違った価値判断を塗り替えていくのである。この内面化は,いつまでということのない,どこまでということない,人間生きている限り永遠に塗り替えられていくものなのである。ところで,司馬遼太郎が歴史小説を書くとき,客観的な事実,資料を多く集め,それらをつなぎ合わせることであると述べている。国母選手を考えるとき,語ろうとするとき,客観的な事実,資料を多く集めて考え,語ることが大切なように思う。あるいは,服装の件についてという限定も必要かもしれない。そこだけがすべてではないし,そこだけで見てしまうことは,本筋を見誤ることにもなりかねないからである。

染み付く

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 15日,月曜日の夜,JR高円寺駅で転落した女性をレールの間に寝かせて,救助した青年の話があったが,人権学習で言ったこと,そのもののようで大変気になった。
 例としては,老人にバスの席を譲る話で,人権学習を行うことで,やはりしなければならないという気持ちというか,勇気付けられることで,その気を再度起こさせられるということを書いたが,まさにそのものズバリであったように思う。助けた青年は,無我夢中であって,危険であるとか怖いとかいうことは全然思いもしなかったが,ただ列車の迫りくる音で,初めてその怖さを覚えたと言っていた。線路内で落ちた人を見て,早く助けなければという行動になったということだ。そこには考える余地などなかった。ただただ助けなければという思いだけが先行したのである。理屈でなく行動が起こるということ自体,体に染みついた人権感覚なのである。本当のものである。もしも……はないが,あの場面で女性が亡くなっていたら,この青年の前途はどうなっただろうと考えてみると,本当によかったなと心から思うばかりである。人って捨てたものじゃないと思えることに接するとき,本当に勇気が湧いてくる。
 ふと,昔,教科書に載っていた吉野弘の「夕焼け」という詩と田宮虎彦の『沖縄の手記から』を思い出した。詩は,老人に席を譲る話であるが,最後の方で,やさしい心の持ち主ゆえに,他人のつらさを自分のつらさのように感じ,席を譲れなかったしんどさとして,やさしい心に責められながら,美しい夕焼けも見ることもなく,どこまでゆけるだろう,と吉野弘は娘を思いやるのである。『沖縄の手記から』は,沖縄戦で,負傷兵を見捨てることができずに壕にとどまる看護婦当間キヨの生き方の話である。一度静かに味わって欲しい。

快挙の裏に

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 バンクーバー冬季五輪,スピードスケートの男子500メートルで,銀・銅の快挙となった。長島圭一郎選手と加藤条治選手で,トリノの雪辱であった。
 長島選手は,「勝ちたい。そのためにスケートをやっている。」と。加藤選手は,レース終了後,サングラスを外し,タイム計時を見つめて,一瞬顔をしかめて,頭を抱えたという。両選手ともに挫折から這い上がっての表彰台となったが,その前に,同じ所属でのライバル同志であったという結果もよい意味での功を奏したと言えよう。
 選手を支えた会社も素晴らしい。目立たないがスケート部を支え続けた。宣伝にもあまりならないが,廃部にすれば,日本のスケートを支えることができなくなるという思い。そして,会社の技術を用いてのコーナーワークを生かすための靴の製作。そして,ユニフォームの会社は,現地にミシンを持ち込んでの,選手のちょっとした要望にも応えての調整,さらには,郷土の人たちや会社の人たち等々,多くの人々の支援があってのメダルである。氷山の一角と言う言葉があるが,選手は水面に出た部分で,水面下の隠れた部分がなければ,一角はないのである。
 わたしたちも同じである。いろんな人の関わりの中で育てられ,いろんな人の支えの中にあって,今があるのである。人との関係なくして,人は存在し得ないのである。選手を支える,応援する会社や人があって,選手は安心して練習に励めるのである。そのためか,ある陸上選手は,練習をさせていただく,と言い切った。また,わたしたちは,こうした活躍する選手から,大きな感動や力をいただくのである。これもある種の関係で結ばれているように感じる。

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