京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2024/05/31
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『自由』『自律』『友愛』

研究授業と授業研究

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 本校の英語科の新採の先生の研究授業が昨日の5限目に行われた。多くの先生方の参観があり,大変な緊張がありありと見受けられた。英語科の授業ゆえに,中身については分からないが,英語の苦手なわたしゆえか,たいへん難しかった。後の授業研究会がどうだったかはわからない。でも堂々としている姿は,わたしの新採のころのそれとは大いに違った。そのころの自分自身を思い出すと,大変恥ずかしい限りである。
 研究授業は,自分の研究成果を踏まえての新たな提案をする場である。そして,自分の得意の場面をつくり,といっても自分の授業技術を総動員してアピールする場を見せなければならない。さらに,なぜ指導案を書くかというと,曖昧模糊とした自分の考えを書くことによって,論理的にまとめなければならない。これが,研究授業の姿である。
 一方,授業研究会は,授業者にとっては,自分の説を主張する場であり,研究成果を踏まえての提案の場であることから,意見に傾聴しつつも,自説に誇りを持って堂々と説明することが大切である。また,参観者は,授業者が提示したものを,さらに充実したものとなるような提案をし,上げ足を取るようなことは慎むことが大切である。そのためには,事前に指導案をしっかりと読み,あらかじめ,課題意識をもって参加し,授業と照らし合わせられるようにしておく必要がある。
 簡単にまとめてみたが,まだまだ観点はあるだろう。ということで,研究授業に戻るが,正答が出ても,生徒の意見をいろいろ尋ねること,それに,生徒の実態を書き,焦点化生徒を決めておきながら,どこでその焦点化生徒に活躍させるかが生かされていなかったのが残念だ。でもそこが大変難しい。焦点化生徒は,自分の授業の成否を判定する指標生徒なのである。そして,判定の基準は具体的に記述すること。これは授業を参観した人が授業の成否を判断するのに必要だからである。指導主事と新採指導員の先生との授業研究会ののち,わたしと二人での授業研究会を行った。さぞ,疲れたことだろう。頑張れ新採先生。

大村はま先生

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 以前にも書いたが,マイブームである大村はま先生の話である。時々書物をひも解いては,元気をもらう。その元気とは,もっと勉強しなければという思いである。大村はま先生の『灯し続けることば』を時々読みながら,自分の至らなさを思い知ること,自分を戒めることを続けている。その中から,
 「教師は,大いに尊敬されていい職業です」というのも,子どもの様子に惑わされず,自分の指導が本当に正しいか,子どもに力をつけているか,自分で全部責任を取っていく存在ゆえに,大いに尊敬されていいもので,このような覚悟がないと,優しければいい,子どもが好きだからいいという甘えた考え方に流れることを戒めている。
 「熱心結構,いい人あたりまえです」というのも,熱心,いい人はあたり前で,悪い人ならたまったものではない。でも「いい人」がかなり幅をきかせ,一般社会では,仕事の能力と切り離して「いい人」が幅をきかせないし,業績を上げ,仕事をちゃんとやれる人,つまり,子どもに一人で生きていける力をつけられる力と技術を持っていることが大切で,それを忘れた「いい人」では困る。
 「熱心と愛情,それだけでやれることは,教育の世界にはないんです」というのも,若い教師が,何もできないが,教育への愛情,真心でやっていくんだということへの不安。つまり,子どもがかわいいとか,よく育ってほしいなどということは,大人みんなの思いであり,それを教師の武器のように思ってはいけない。教師として,人を育てる能力,教師の教師たる技術を持っていなければ困る。
 本を常に周りに置き,時々自分を省みている。まだまだ未熟な教師であるということを知ることが,その成長を促すように思う。

19・22日のことから

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 昨日,公立高等学校の適性検査,推薦入学,特色選抜の結果が出た。いつもながらの悲喜こもごもである。でもそれは,2月15日・16日現在の力での判定である。永遠の判定ではない。合否ともどもしっかりとその力がどうであったかを振り返り,次のステップに活かして欲しい。また,1・2年生の定期考査も始り,生徒たちの真剣に取り組んでいる様子がひしひしと感じられた。
 さて,19日に国母選手の話を書いたが,帰国した国母選手は,服装はしっかりと正し,最後まで自分を応援してくれた人に感謝するとともに,これからも自分流を貫いていきたいとコメントをしていた。はからずも国母選手の内面化,つまり,価値体系の組替えがなされたものと思う。いきなり0から100はあり得ない。自分流を貫かなければならない国母選手の気持ちもよく分かる。堂々たる8位入賞である。素質もあるかもしれないが,その努力たるや,やはり認めなければならない。次のオリンピックに向けて,すごく楽しみである。
 ところで,昨日の×の利用の話であるが,もっとわかりやすく言えば,よく先生方は,子どもにちゃんと言いました,きっちりと伝えましたが……と言いながら,子どもが忘れ物をする実態がある。わたしはいつも,それは伝えたことにならないと言っている。現に忘れ物をしているからである。何度も何度も忘れ物をする子どもは限定されてくる。そういう実態の子どもが分かれば,お知らせプリントを渡すときに,何度も忘れ物をする子どもに読ませるとか,誰かが読んだり,先生が説明をされた後に,再度ポイントを尋ねてやるとかして,注意喚起をしなければならない。そのことが×の利用の話なのである。子どもたちは一人一人違う。その違いを一番よく知っているのは担任である。一つ一つ丁寧な積み重ねこそ,信頼を得た担任と認められていくのである。

答案

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 20日土曜日の「天声人語」に,氷がとけたら何になる?テストである子が「水になる」ではなく「春になる」と答えたという話が載っていた。以前,伝聞だったので「虚実はおいて」と断った話の続編である。実際,札幌市の60代の女性がセビア色した「りかのてすと」のカラーコピーが送られてきて,その解答に「つちがでてはるになります」と書かれてバツがついていて85点であったとある。
 小学生のことだから,担任の先生は一言,二言何か声をかけて返されただろうなと想像をする。でも,子ども心に複雑な思いだったろうなとも思う。×をもらう子どものことを考えると,ちょっと考えさせられることがある。テストは指導者の評価である。子どもに×を付けながら,指導者はどう考えているのだろうか。もちろん本人の理解不足であることには違いないが,その裏は,指導者の指導不足である。教え切れていない自分がいるのである。このことが大切なのである。新任校で,解答用紙に正の字で,間違った人数をカウントされていた先生がおられた。どの問いに間違い多いかを調べているのだと言われた。教え切れていないところを知るための方策であった。それ以来,わたしは誤答例を具体的に付けてまとめをつくるようになった。このことは,間違いの類型化を知るために大きな参考になり,指導をする上で,また,研究授業の指導案を書くときの生徒の実態を知る上で,大きなプラスとなった。また,国語という教科の性格上,この解答なら△ではないかとか,これは○のはずだがどうだとか返却時が大変であったので,解答の不満の部分に説明を付けさせる作業を行い,再度確認するために,一旦返却した解答用紙を再度全部集めて,見直す作業を行った結果,生徒がどのように考えているのかといったことも分かってきた。これもまた生徒の実態を知る上で,大きな成果となった。
 ×の解答の活用を我々教師はしっかりと指導に活かさなければならない。でも,まだまだ「こんなものも分かっていない」と自分の指導を棚の上にあげて言う教師もいる。本校では,明日から1・2年生は定期考査5の試験が始まる。

価値体系の組替え

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 バンクーバー冬季五輪スノーボード・ハーフパイプの国母選手の服装の乱れ問題がクローズアップされている。賛否様々な意見が飛び交っている。いろいろな視点があって,多様な意見があっていいと思う。それが健全であると思う。学校でいえば,道徳教育にあたる話かと思うので,そのことについて,考えてみようと思う。
 本校の道徳の視点として,内面化ということを重視して考えている。道徳を行うことによって,今ある自分の内面を塗り替えていくことであるという考え方である。友だちの多様な意見の交流等によって,自分の内面を変えていく作業なのである。つまり,人間は,自分の内なる価値体系をもとに,具体的な場面における判断を下しながら,自分の取るべき行為を選択しているのである。その価値体系は,新たな経験により,組み替えられえていくもので,より高い価値体系への組替えが道徳を行う意義であると考えている。すなわち,社会的規範や道徳的価値が,自分の心の内面に育ち、外から与えられたものではなく,他人がするからでもなく,損得勘定からでもなく,自分の心中で,必要性を感じる気持ちになることが,内面化をめざす道徳なのである。昨日書いたJR高円寺駅での青年は,その気持ちがまさに行動化になった話なのである。
 だから,国母選手自身も様々な意見を聞きながら,自分の内面化を進めているものと思う。また,それらの意見を聞いているわたし自身も,今までの自分とは違った価値判断を塗り替えていくのである。この内面化は,いつまでということのない,どこまでということない,人間生きている限り永遠に塗り替えられていくものなのである。ところで,司馬遼太郎が歴史小説を書くとき,客観的な事実,資料を多く集め,それらをつなぎ合わせることであると述べている。国母選手を考えるとき,語ろうとするとき,客観的な事実,資料を多く集めて考え,語ることが大切なように思う。あるいは,服装の件についてという限定も必要かもしれない。そこだけがすべてではないし,そこだけで見てしまうことは,本筋を見誤ることにもなりかねないからである。

染み付く

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 15日,月曜日の夜,JR高円寺駅で転落した女性をレールの間に寝かせて,救助した青年の話があったが,人権学習で言ったこと,そのもののようで大変気になった。
 例としては,老人にバスの席を譲る話で,人権学習を行うことで,やはりしなければならないという気持ちというか,勇気付けられることで,その気を再度起こさせられるということを書いたが,まさにそのものズバリであったように思う。助けた青年は,無我夢中であって,危険であるとか怖いとかいうことは全然思いもしなかったが,ただ列車の迫りくる音で,初めてその怖さを覚えたと言っていた。線路内で落ちた人を見て,早く助けなければという行動になったということだ。そこには考える余地などなかった。ただただ助けなければという思いだけが先行したのである。理屈でなく行動が起こるということ自体,体に染みついた人権感覚なのである。本当のものである。もしも……はないが,あの場面で女性が亡くなっていたら,この青年の前途はどうなっただろうと考えてみると,本当によかったなと心から思うばかりである。人って捨てたものじゃないと思えることに接するとき,本当に勇気が湧いてくる。
 ふと,昔,教科書に載っていた吉野弘の「夕焼け」という詩と田宮虎彦の『沖縄の手記から』を思い出した。詩は,老人に席を譲る話であるが,最後の方で,やさしい心の持ち主ゆえに,他人のつらさを自分のつらさのように感じ,席を譲れなかったしんどさとして,やさしい心に責められながら,美しい夕焼けも見ることもなく,どこまでゆけるだろう,と吉野弘は娘を思いやるのである。『沖縄の手記から』は,沖縄戦で,負傷兵を見捨てることができずに壕にとどまる看護婦当間キヨの生き方の話である。一度静かに味わって欲しい。

快挙の裏に

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 バンクーバー冬季五輪,スピードスケートの男子500メートルで,銀・銅の快挙となった。長島圭一郎選手と加藤条治選手で,トリノの雪辱であった。
 長島選手は,「勝ちたい。そのためにスケートをやっている。」と。加藤選手は,レース終了後,サングラスを外し,タイム計時を見つめて,一瞬顔をしかめて,頭を抱えたという。両選手ともに挫折から這い上がっての表彰台となったが,その前に,同じ所属でのライバル同志であったという結果もよい意味での功を奏したと言えよう。
 選手を支えた会社も素晴らしい。目立たないがスケート部を支え続けた。宣伝にもあまりならないが,廃部にすれば,日本のスケートを支えることができなくなるという思い。そして,会社の技術を用いてのコーナーワークを生かすための靴の製作。そして,ユニフォームの会社は,現地にミシンを持ち込んでの,選手のちょっとした要望にも応えての調整,さらには,郷土の人たちや会社の人たち等々,多くの人々の支援があってのメダルである。氷山の一角と言う言葉があるが,選手は水面に出た部分で,水面下の隠れた部分がなければ,一角はないのである。
 わたしたちも同じである。いろんな人の関わりの中で育てられ,いろんな人の支えの中にあって,今があるのである。人との関係なくして,人は存在し得ないのである。選手を支える,応援する会社や人があって,選手は安心して練習に励めるのである。そのためか,ある陸上選手は,練習をさせていただく,と言い切った。また,わたしたちは,こうした活躍する選手から,大きな感動や力をいただくのである。これもある種の関係で結ばれているように感じる。

授業の背景

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 先週の金曜日,12日であるが,本校で5年目国語科教員の授業研が行われた。ちょうど,わたしは出張と重なり,それに参加できなかったことが残念であった。
 本校の5年目の国語科教員は大変よくやっている。教科指導を活かして終学活の取組を行うなど,なかなかのアイデアマンであると同時にその粘り強さには感心する。今回は投げ込み教材で,韻文指導を行った。子どもをうまく動かし,活動のある授業であったと聞いている。そう言ってしまえば,身も蓋も無いようだが,本人曰く,前半,焦点化生徒は沈黙していたが,後半俄然頑張り出し,みんなを引っ張るような発言をしたと言っていた。おそらく彼の場合,教科指導とともに,担任,並びに諸々の取組における普段の指導の賜物であったろうと思う。子ども心に,そういう気持ちにさせるものなのである。そのために,普段から子どもにどう接しているかである。そのことを抜きに,指導はあり得ない。すべてがつながっているのである。怒ることも必要であろう。厳しい指導も必要であろう。しかし,普段にしっかりと子どもの人権を意識した取組を行わずして,怒っても,厳しい指導をしても空回りするだけである。そのことに気づいていない教師は多くいる。事が起きた時,口をつぐむ生徒は多いだろう。何も話してくれないと嘆く教師は,それだけの関係であるということを自覚しなければならない。口をつぐんでも,その子どもとしっかりと向き合っている教師には,ゆっくりでも,心を開けていくものである。心豊かな教師を目指さなければならない。すべては,教師次第なのである。そのことが分からない教師は,教師失格である。
 そのことも踏まえて,来年の文部科学省の発表「学級経営に根ざした道徳指導の在り方」がある。

人権学習

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 先週の10日,1、2年生は人権学習を行った。両学年とも障害者理解であった。2年生はバリアフリーや介助犬,聴導犬の話に『五体不満足』を使っての学習,1年生は,北京パラリンピック,テニスの金メダリストの国枝慎吾のDVD,そして,まとめに『五体不満足』を使っての展開となった。2時間通しの学習であったが,しっかりと取り組んでいた。
 なぜ,人権学習を行うかというと,資料にも書いてあったが,ハードのバリアフリーはいくらでも進むが,心のバリアフリーをどう進めるかということである。一つはこうした学習を行うことで,やらねばという気持ちを起こすことである。例えば,バスなどに乗っていて,席を老人に譲らなければと思う人は多くいるだろう。でもなかなかしにくいというか,そのタイミングが難しい。やってしまえばどうといったことでもないが,むずむずしているうちに,その機を逸してしまうのである。でもこうした学習を行うことで,やはりしなければならないという気持ちというか,勇気付けられることで,その気を再度起こさせられるのである。もう一つは,学習することで,自分の理性を再度確認することにもつながる。人間には,人をさげすんだり,侮蔑したりする気持ちがどこかにある。逆に言えば,自分が優位に立ちたちという気持ちかもしれない。人とは違うんだという気持ちかもしれない。しかし,学習することで,人間のそういった気持ちをたしなめるというか,自分の忘れかけた人間性を思い起こさせてくれる。ここが大切なのである。この積み重ねによって,人間の本性というか,そういった気持ちを抑えられていくような気がする。ゆえに,定期的にこうした学習を積むことは必要なのである。今までの自分の気持ちを再度確認し,新しい自分をつくっていくことになるからであると考える。
 人権学習は,学習である限り,ねらいを持って子どもたちに指導しなければならない。その指導の成果を,今度は道徳という視点で,どの程度まで子どもたちの心に達しているかを見ていかなければならないと考えている。来年の道徳の発表の一つの挑戦がそこにある。

聖窓

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 昨日,一昨日と私学の入試であった。今日,明日,明後日と発表が続く。昨日も進路主事や3年の先生方は学校で待機をされていた。先生方も気が気でない様子であった。3年生は,保護者の方はもちろん,親戚の方や近所の人,教職員等々,いろいろな方々の支えで,今があることを忘れないで欲しい。多くの吉報を待つ人々がいることを忘れずにいて欲しい。
 さて,学校の前を渡り,丸太町通を西に進むと,ローソンがあるが,その手前に「聖窓」の家がある。生徒たちの通学路である。昔の外灯であり,西鶴の話にも出てくる。この聖窓のある家は,香川景樹の父,香川景柄(かげもと)が建てた梅月堂という岡崎山荘なのである。丸太町通の岡崎道の西北に小沢蘆庵(ろあん)宅跡という石碑があるが,蘆庵は,景柄の梅月荘が建つ以前に住んでいて,この荘ができたことを歌にしている。その詞書には,「景柄が此の岡ざきに山居すと聞きていいやる」とあり,「君もこの山住みすとかいざともにのがれこし世のうさをかたらん」(『六帖詠藻』)と送っている。寛政12年(1800年)の話である。岡崎の地が山住みすといわれるような,世の中から離れた地であったことがわかる。真っ暗な中で,外灯として役割を担った「聖窓」は,さぞ明るい光を放っただろうなと思われる。そうした夜に,蘆庵や景柄がうさを語っていた場所が,岡中の向かい側であると思うだけで,ワクワクしてくる。
 その北の今戒光明寺,地域の人は黒谷さんと呼ぶが,一の谷の合戦で平敦盛の首をとった熊谷直実が法然上人を尋ね,出家するに際して,鎧を掛けた松が残っている。平家物語の世界である。これも岡中の向かいの話である。
 こうして見回すと,歴史の真っただ中にいるのだなと思う。ある老舗の和菓子屋さんのご主人と話していた時,先の戦いでという話になったが,どうも話がかみ合わない,わたしは第二次世界大戦を思い出していたが,その方は,応仁の乱であった。

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