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最新更新日:2025/07/03 |
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徒然草から![]() 『徒然草』の30段に「人の亡きあとばかり悲しきはなし・・・・・・」という段がある。その中で,親戚一同が49日の間,山の寺といったようなところに移って,死後の法事をこなしていくことの気ぜわしさ,さらには,49日になると,皆が帰ることばかりに気がせいて,味気ないといった中で,家族のものは,家に帰って初めて,あらためて悲しいことも多いといっている。まさにその通りである。その前段の29段「静かに思へば・・・・・・」は,過ぎた日々への恋しさは,押さえようもないものだといい,秋の夜に,身辺を整理している中に,故人の歌,絵を見つけたときは,その当時のことが思い出され,また,道具だけがそのままに残っていることが実に悲しいといっている。時々,校長室から稲冨校長の筆跡のものが出てくる。まさにその状況そのものである。 私ごとですが,先週の18日の深夜,愛犬のサイが亡くなり,翌,19日に稲冨先生が亡くなられた。ダブルパンチを食らった感であった。サイを葬り,稲冨先生のお手伝いをし終わった金曜の午後,修学院で左京のPTA研修があったが,その辺りから,大変辛くなってきた。ほっと一息ついたあたりから,その思いは強くなった。 稲冨先生の写真は,送る会のときの写真であった。多くの方に支えられた会であったなと思い出される。稲冨先生を介して多くの人たちと知り合えたことが何より嬉しい。そして,それは何よりの宝である。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 白鳩から![]() ○今年度に入り国内外で私たちの気持ちを暗くさせる出来事が続いています。いつも言っていることですが,こうした事件の根底には,互いの違いを認め合えないことが要因になっているような気がしてなりません。自らの考えを否定することは,自信を失わせる結果になったり,物事を進める上で躊躇(ちゅうちょ)させることになることもあると思います。しかし,自らの考えを否定するのではなく,他人(ひと)がなぜそう考えるのかということを常に考えるべきではないかと思っています。こうした考えを子どもたちにも持ってくれるよう,様々な場面で皆の耳に胼胝(たこ)ができるのではないかと思うほど話をしています。ぜひご家庭でも一つの事柄を様々な角度からお子様と話をしてほしいと願っています。とりかけこうした情報化社会になれば,メールなどで済ませることが多くなるわけで,それだからこそ会話や対話が必要だと実感しています。(H16.7.16) ○前回の「白鳩」で「許すより恕(ゆる)すを」ということを書きました。「違いを認め合う」というのは,まさに「恕す」と言う気持ちを持つことと同じではないかと思います。昨年の地生連の講演で神戸保護観察所の田中研三先生が「まずはあるがままを受容することが必要である,でも許容するということではありません。」という趣旨のことを話されました。違いを認め合うというのは相手の人の背景まで理解し,自分と違う意見や考えを理解しようと努力することだと思います。私自身も,自分と価値観の違う考えに接したとき,腹立ちを持ったり,話すことの虚しさを感じたりすることがあります。でも,その気持ちは相手の人も必ず同じ気持ちで私のことを見ているのでしょう。「恕す」というのは相手を分かろうとする努力なしには生まれないものだと思います。(H18.3.14) ○私は,本校に来て三年目になります。私はこの三年間生徒たちに「違いがあってあたりまえ,違いがあって楽しい,違いを認めあおう」と言い続けてきています。まさにそう考え,人間どうしが触れ合うのが人権を認め合うことそのものだと思っています。(H15.7.18) 偲ぶ![]() 写真は,先生を描いた生徒作品である。 ときどき,学校をのぞいてくださった。職員室に入ってこられると,教職員に声をかけながら,前にあるわたしの席,というより,たぶん,自分の席という思いで来られたのだろう。何かタイムスリップしたように思え,今も,ふと入ってこられるかのような気がしてならない。 稲冨先生とは4年間,本校でご一緒させていただいた。常々,先生は,「みんな違っていい,みんな違ってあたりまえ,違うからこそ楽しいし,その違いを認め合おう」と生徒たちにも,私たち教職員にも事あるごとに言っておられた。そして,その実践として,一人の生徒を徹底的に大切にされていた。先生の後をついで,この「みんな違ってあたりまえ」という教えが理解でき,目から鱗が落ちるとは,こういうことかという思いになったことがある。それは,教職員をまとめなくてはと思ったときのことである。校長室に掛けられた先生の写真が,みんな違うのだから,大それたことを考えなくてもいい。みんな違うからこそ,学びあえるし,楽しいのだと語りかけてきた。そのとき,ふと心が落ち着くような思いになったことを覚えている。 また,校長室で話していたとき,学校を辞めた途端,悩みがなくなったことをすごく嘆いておられたことがあった。悩みがあるときは,いろいろ大変なように思うが,悩みがないって人生と違うとも言っておられた。わたしに対する思いやりだったのかもしれないが,おそらく,悩むことで,人の痛みを感じ取られてきた先生にとって,本当の意味での教育者としての原点が,そこのあるように思う。生徒の悩み,保護者の悩み,教職員の悩みから解放されたことは,その原点が崩れ去ったことであり,そのことが,逆に辛かったのではないだろうかと思われるが,今となってはもう尋ねることもできない。 いろいろと思い返せば切りがない。校長室の写真を見ながら,まだまだ語りかけなければならないことが多々あると思うが,そのときは,よろしくお願いしたい。 センター試験![]() 漢字の勉強は,直接その漢字が書けることは大事だが,その漢字を他の熟語などに置き換えて使えるかといった発展が大切であり,そのためには,辞書を引いたりすることが必要である。また,内容の問い,それに,文章構成,文学的な文章では,意味を問い,気持ちを問い,情況の説明,それに叙述の仕方など,学校で学習していることとそんなに差異はない。 ただ,試験そのものよりも,こうした長文を読み,決められた時間内に解答をつくることができるかである。そのために必要なことは,やはり,読書である。文章を読むこと自体に慣れることこそ,基本中の基本である。そして,古典,漢文と大問の4題をこなす気力である。つまり,普段,どれだけ活字に親しみ,読もうとするかである。ちょっと難解な文章でも辛抱して読み続けていけるかである。勉強は一朝一夕に力がつくものではない。ただただ,毎日の,普段にどれだけしっかりやり続けているかということだ。高校入試ももうそこだ。 みんなの思いを![]() 「あと2か月間,自分自身がこの2組のためにどうしていくことがよりよいクラスになっていくかについて,考えていることや思ったことを具体的に書きなさい。」 という内容である。これは,能率よく掃除をやるために,分担を決めたが,分担という手段に縛られて,本来の能率よくという目的が達せられていない現状をどうするかを考えさせた結果を,クラスに返したものだ。 多くの生徒は,「楽しくて,明るいクラス」「協力して明るく楽しくみんなが過ごせるように」「みんなで協力しあってやるときはやり,楽しむとき,おもいっきり遊ぶということをしていけばいいと思う」等があったが,もう少し具体的に書いている生徒は,「みんなで協力して,ちょっとしたイベントをしたり,けいじ物を面白くしたらいいと思う」「そうじをもう少し,てきぱきやればいいと思った」「いろんな人と(コミュニケーション)しゃべったりあそんだりして,友だちとの関係を深めて,わからないことがあれば,教えあえばいいと思います」等もあったし,個人的に「静かにする」「周りに迷惑をかけないようにしながら,自分のやるべきことはやる」といったことを書いてくれた生徒もいる。 それぞれの段階はあるが,みんな前向きに考えてくれることが,内面化を深められたことになる。それでいいと思う。今の自分より少しでも考えることで,変わるのである。正解などない。みな正解である。ただし,道徳は特活と両輪である。自分の思ったこと,考えたことと行動がどうなのかをしっかりと担任はみなければならない。そのことが大切である。また,こうした内容を出し合って,再度,具体化し,クラスとしてどうしていくかを考えさせることもいい。いろいろな方法は,担任が一番よく知っている。何をやってもいい,クラスを良くしていくことにさえなれば,それでいいと思う。 支部授業研修![]() 生徒もわたしも緊張していた面があったと思うが,後半,ちょっと慣れてきたように感じた。よく子どもたちも辛抱してくれたものだ。本当は議論をさせることで,自分の内面を変えていくことが大切である。でもそれは,よく子どもを知っている担任だからこそできる代物である。資料道徳の場合であるが,よく議論のかみ合うものであれば、それがよい資料なのである。それもA4一枚に収まるようなものでなければならない。そして,その進め方として,いつも言うことだが,議論をかみ合わせるために,基本的な読解によって,子どもたちを同じ土俵にあげ,議論する下地づくりをする。そして,活発な意見交換をさせる。そして,早く資料離れをするということである。これだけができればいいと考えている。この繰り返しをしながら,子どもの実態を見ながら,考えさせるべきことを常に担任は考えていなければならない。だから,担任が授業をすることが一番大切なのである。 指導案を書くことはしんどいことであるが,しかし,自分の考えをまとめるためには,大変大切なことである。なかでも重要なことは,生徒の実態と問い方である。生徒の実態は,教材,つまり,何を学ばせるかっということに対しての実態でなければならない。いじめを取り上げるなら,人間関係ということを通した実態でなければならない。しかも,日頃の子どもたちの具体的な言動を通して,担任は,見方やその解釈を示さなければならない。そして,問い方は,問い方そのままを考えるということである。丁寧な問いをつくるために,子どもに発することば,そのままを書き,推敲しなければならない。いつも言うことだが,言うは易し,行うは難しである。でも,常によい授業をしたい,子どもの笑顔を見たいという思い,そのことを心に秘めながら頑張れる先生方であってもらいたいと願っている。 ロマンチシズム![]() このときのニュースを今も覚えているが,大阪や岡山の震度は言われるが,神戸だけ何も言わなかったことだ。その時,神戸辺りが大変なんだろうなと想像したことを,今も覚えている。こういう風に想像したのは,いわゆるロマンチシズムである。リアリズムなら,大阪マグニチュード○,岡山マグニチュード△,神戸はまだ入っていません,と伝えられると,その事実だけを受け止めるが,ちょっと想像を働かせると,神戸はどうなんだということになるだろう。それがロマンチシズム教育の必要性なのである。リアリズム教育では,その事実だけなのである。司馬遼太郎は,客観的な事実資料を集め,それらを並べながら小説を書いていく。徹底的な資料集めのため,彼が資料を集め出すと,日本全国のそれに関しての古書店の資料がなくなるとまでいわれるくらい,収集したのである。しかし,その資料と資料との間を埋めるのは,ロマンチシズムということになるだろう。だから,歴史というものは存在しないというのが彼の考え方,つまり,○○の歴史というように,○○には,それを研究し,書いた人の名前が入り,歴史は自分のような小説家や詩人がつくるものだと言っていた。 リアリズム教育も必要だが,いつもいうように,想像力を養う教育,ロマンシチズム教育はもっと必要である。それが,人の痛みも分かる教育などにもつながっていくのだ。そのためにも,読書生活も必要なのだ。 ツララ![]() 昔,といっても平安朝時代であるが,氷のことを「ツララ」と言っていた。『源氏物語』の「末摘花」に次のような歌がある。 朝日さす 軒のたるひはとけながら などかつららのむすぼほるらむ 「日が射して軒のつららは溶けているのに、なぜあなた(末摘花)は黙ったままでわたし(源氏)にうち解けてくれないのですか」という意味である。 この歌から,「軒のたるひ」とあるから,今でいう「ツララ」は「タルヒ」といったことがわかる。「タルヒ」は,垂氷と書く。 末摘花の話はご存じ方も多いと思うが,鼻が垂れ下った姫君である。それを軒に垂れ下ったつららに喩えているのである。 さて,朝から自転車の乗っていると大変指先が痛くなる。手も凍えるさまを「ツメタイ」というが,これは「爪痛い」からきている。 ちょっと1年生のクラスでインフルエンザが流行っている。寒さとともにそちらの方にも気をつけて欲しい。 道徳![]() どのクラスで授業するかは,教務主任が新年に入って決めくれた。どのクラスでも同じだと思っていたが,結局は同じなのだが,顔と名前も一部しか一致しないし,クラスの現状がどのようになっているのか細かいことまでわからない。今は,まあ,しょうがないなと諦めている。 指導案を書くとき,一番大事なのは生徒の実態である。実態さえつかめていたら,どのような授業展開がいいのか,誰を指名することで,自分の授業の成否がわかるのかといったことまで予測がつく。担任の先生から,様子は伺ったが,やはりわからないが一言だ。結局結論は一つ,道徳は担任がすることが一番だということが,この研究授業を引き受けて強く確信したことだ。このことがわかったことだけでも,引き受けた意味があった。どこの学校か忘れたが,同じ人が同じ道徳をクラスをずらして,持ち回りで指導するということを研究発表で聞いた。メリット,デメリットを考えたが,今ははっきりとデメリットの方を大きく思う。わたしは,何のために道徳をするかといえば,半歩でもいいから,クラス全体が良い方向に向かうために行うというのが考えだ。そのことに関しては,誰も異論はないはずだ。でも,担任以上にクラスを愛し,クラスを良くしようと思う者はいるだろうか。そう考えると,便宜的に道徳はするものではないと思う。また,人に道徳を任せようとする担任なら,担任失格である。それほど貴重な時間なのである。この道徳をすることで,学級がよくなり,皆の笑顔が増し,その結果として学力やその他諸々のものが動くはずである。その根本なのである。学級の実情に照らし合わせて,学級づくりをすることが担任に課せられた使命なのである。使命などと言ってしまったが,もっと担任は道徳を楽しんで欲しい。それが,楽しい学級,活気ある学級,……ある学級,……,と続いていく。そんな道徳を目指すのが岡崎中学校である。そのことをよく理解して担任はやってくれている。本当にありがたい限りである。 岡崎![]() ちょうど岡崎中学校の校区内の話である。数年前,商工会議所が主催した琵琶湖疏水フォーラムで話をさせていただく機会に恵まれ,岡崎周辺を調べたことがあるが,ちょうど学校でも,「無窮(総合的な学習の時間)」に,地域への提案と言うことで,校区内のいろいろなところに話をもっていっている。昨日の動物園で行われた「サル温泉」などもその中から生まれたものであるが,こうした岡崎の再開発が提案されたことで,京都市全体の動きを注視しなければならない。私たちが行っている「無窮」の時間も,こうした動きに合わせなければならず,必ずや,それを踏まえた動きができるはずで,内心喜んでいる。それは,学校の活性化にもなるように思えるからである。 子どもたちにも話したが,岡崎の文化ゾーンは,その昔,藤原良房の別荘で,多くの種類の桜が植えられ,おおよそ1か月にわたって,都の人々を楽しませたという地域で,国花である桜は,この岡崎から起ったのである。また,南禅寺ではあるが,野村徳七に代表される碧雲荘など,日本の確固たる別荘地域群は,作庭家・小川治兵衛らによる新しい日本文化を生み,そして,日本文化の数々のコレクションを収納する美術館として,今なお輝いている。しかも,琵琶湖疏水による日本における文明開化の先取りの地域でもある。わたしたちが今住んでいる岡崎地域は京都のみならず,日本の中心地といっても過言でないように思う。 |
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