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最新更新日:2025/07/03 |
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支部授業研修![]() 生徒もわたしも緊張していた面があったと思うが,後半,ちょっと慣れてきたように感じた。よく子どもたちも辛抱してくれたものだ。本当は議論をさせることで,自分の内面を変えていくことが大切である。でもそれは,よく子どもを知っている担任だからこそできる代物である。資料道徳の場合であるが,よく議論のかみ合うものであれば、それがよい資料なのである。それもA4一枚に収まるようなものでなければならない。そして,その進め方として,いつも言うことだが,議論をかみ合わせるために,基本的な読解によって,子どもたちを同じ土俵にあげ,議論する下地づくりをする。そして,活発な意見交換をさせる。そして,早く資料離れをするということである。これだけができればいいと考えている。この繰り返しをしながら,子どもの実態を見ながら,考えさせるべきことを常に担任は考えていなければならない。だから,担任が授業をすることが一番大切なのである。 指導案を書くことはしんどいことであるが,しかし,自分の考えをまとめるためには,大変大切なことである。なかでも重要なことは,生徒の実態と問い方である。生徒の実態は,教材,つまり,何を学ばせるかっということに対しての実態でなければならない。いじめを取り上げるなら,人間関係ということを通した実態でなければならない。しかも,日頃の子どもたちの具体的な言動を通して,担任は,見方やその解釈を示さなければならない。そして,問い方は,問い方そのままを考えるということである。丁寧な問いをつくるために,子どもに発することば,そのままを書き,推敲しなければならない。いつも言うことだが,言うは易し,行うは難しである。でも,常によい授業をしたい,子どもの笑顔を見たいという思い,そのことを心に秘めながら頑張れる先生方であってもらいたいと願っている。 ロマンチシズム![]() このときのニュースを今も覚えているが,大阪や岡山の震度は言われるが,神戸だけ何も言わなかったことだ。その時,神戸辺りが大変なんだろうなと想像したことを,今も覚えている。こういう風に想像したのは,いわゆるロマンチシズムである。リアリズムなら,大阪マグニチュード○,岡山マグニチュード△,神戸はまだ入っていません,と伝えられると,その事実だけを受け止めるが,ちょっと想像を働かせると,神戸はどうなんだということになるだろう。それがロマンチシズム教育の必要性なのである。リアリズム教育では,その事実だけなのである。司馬遼太郎は,客観的な事実資料を集め,それらを並べながら小説を書いていく。徹底的な資料集めのため,彼が資料を集め出すと,日本全国のそれに関しての古書店の資料がなくなるとまでいわれるくらい,収集したのである。しかし,その資料と資料との間を埋めるのは,ロマンチシズムということになるだろう。だから,歴史というものは存在しないというのが彼の考え方,つまり,○○の歴史というように,○○には,それを研究し,書いた人の名前が入り,歴史は自分のような小説家や詩人がつくるものだと言っていた。 リアリズム教育も必要だが,いつもいうように,想像力を養う教育,ロマンシチズム教育はもっと必要である。それが,人の痛みも分かる教育などにもつながっていくのだ。そのためにも,読書生活も必要なのだ。 ツララ![]() 昔,といっても平安朝時代であるが,氷のことを「ツララ」と言っていた。『源氏物語』の「末摘花」に次のような歌がある。 朝日さす 軒のたるひはとけながら などかつららのむすぼほるらむ 「日が射して軒のつららは溶けているのに、なぜあなた(末摘花)は黙ったままでわたし(源氏)にうち解けてくれないのですか」という意味である。 この歌から,「軒のたるひ」とあるから,今でいう「ツララ」は「タルヒ」といったことがわかる。「タルヒ」は,垂氷と書く。 末摘花の話はご存じ方も多いと思うが,鼻が垂れ下った姫君である。それを軒に垂れ下ったつららに喩えているのである。 さて,朝から自転車の乗っていると大変指先が痛くなる。手も凍えるさまを「ツメタイ」というが,これは「爪痛い」からきている。 ちょっと1年生のクラスでインフルエンザが流行っている。寒さとともにそちらの方にも気をつけて欲しい。 道徳![]() どのクラスで授業するかは,教務主任が新年に入って決めくれた。どのクラスでも同じだと思っていたが,結局は同じなのだが,顔と名前も一部しか一致しないし,クラスの現状がどのようになっているのか細かいことまでわからない。今は,まあ,しょうがないなと諦めている。 指導案を書くとき,一番大事なのは生徒の実態である。実態さえつかめていたら,どのような授業展開がいいのか,誰を指名することで,自分の授業の成否がわかるのかといったことまで予測がつく。担任の先生から,様子は伺ったが,やはりわからないが一言だ。結局結論は一つ,道徳は担任がすることが一番だということが,この研究授業を引き受けて強く確信したことだ。このことがわかったことだけでも,引き受けた意味があった。どこの学校か忘れたが,同じ人が同じ道徳をクラスをずらして,持ち回りで指導するということを研究発表で聞いた。メリット,デメリットを考えたが,今ははっきりとデメリットの方を大きく思う。わたしは,何のために道徳をするかといえば,半歩でもいいから,クラス全体が良い方向に向かうために行うというのが考えだ。そのことに関しては,誰も異論はないはずだ。でも,担任以上にクラスを愛し,クラスを良くしようと思う者はいるだろうか。そう考えると,便宜的に道徳はするものではないと思う。また,人に道徳を任せようとする担任なら,担任失格である。それほど貴重な時間なのである。この道徳をすることで,学級がよくなり,皆の笑顔が増し,その結果として学力やその他諸々のものが動くはずである。その根本なのである。学級の実情に照らし合わせて,学級づくりをすることが担任に課せられた使命なのである。使命などと言ってしまったが,もっと担任は道徳を楽しんで欲しい。それが,楽しい学級,活気ある学級,……ある学級,……,と続いていく。そんな道徳を目指すのが岡崎中学校である。そのことをよく理解して担任はやってくれている。本当にありがたい限りである。 岡崎![]() ちょうど岡崎中学校の校区内の話である。数年前,商工会議所が主催した琵琶湖疏水フォーラムで話をさせていただく機会に恵まれ,岡崎周辺を調べたことがあるが,ちょうど学校でも,「無窮(総合的な学習の時間)」に,地域への提案と言うことで,校区内のいろいろなところに話をもっていっている。昨日の動物園で行われた「サル温泉」などもその中から生まれたものであるが,こうした岡崎の再開発が提案されたことで,京都市全体の動きを注視しなければならない。私たちが行っている「無窮」の時間も,こうした動きに合わせなければならず,必ずや,それを踏まえた動きができるはずで,内心喜んでいる。それは,学校の活性化にもなるように思えるからである。 子どもたちにも話したが,岡崎の文化ゾーンは,その昔,藤原良房の別荘で,多くの種類の桜が植えられ,おおよそ1か月にわたって,都の人々を楽しませたという地域で,国花である桜は,この岡崎から起ったのである。また,南禅寺ではあるが,野村徳七に代表される碧雲荘など,日本の確固たる別荘地域群は,作庭家・小川治兵衛らによる新しい日本文化を生み,そして,日本文化の数々のコレクションを収納する美術館として,今なお輝いている。しかも,琵琶湖疏水による日本における文明開化の先取りの地域でもある。わたしたちが今住んでいる岡崎地域は京都のみならず,日本の中心地といっても過言でないように思う。 国民読書年![]() 読書の効用はいろいろと言われている。それゆえか,いろいろな取組には様々な意見が出てくるが,読書を推進することに異論を唱える人はほとんど出ない。誰もが読書をすることの意義を認めているからだ。本を読むことは,脳の活動をフル回転させる複雑な行為が効用だという人もあるが,何より,本と出合うことで,集中力や知的好奇心が育まれることと,沈黙の時間を持つことで,自己との対話ができることである。 若いうちは乱読でいい。とにかく読むことで,本に親しむことである。そのうちに自分なりの方法や傾向も出てくる。今はどんどん読むことだ。わたしのように50歳も後半になると,目がしょぼしょぼして活字が読みづらくなる。もっと読んでおけばと今更ながら後悔する。司馬遼太郎などは,学校嫌いであって,世の中には,図書館と本屋さえあれば勉強はできると豪語していた。ある意味,他の人がどうのこうのということはなく,自分さえ心がければしっかりと取り組めるもので,とても簡単である。ちょっと集中して本の虜にさえなってしまえばだけである。朝読書のアンケートに朝読書が切れることが残念に思うかどうかを尋ねればいい。その数が多く増えていくことが,読書好きな子どもが増えているかがわかるからだ。何冊読んだとか,何ページ読んだとかを尋ねることもいいが,そのことだけをシンプルに尋ねれば,本当の意味で,朝読書が浸透しているかがわかる。 七草粥![]() 今日は七草粥を食べるが,本来は,五節句の一つで,七草粥を祝う節句の日であるというのが正しい。中国では,人日(じんじつ)といい,中国から伝わった風習である。七草であるセリ,ナズナ,ゴギョウ,ハコベ,ホトケノザ,スズナ,スズシロをまな板の上に,ちょっと忘れたが,はやし言葉を唱えながら,すりこぎと火箸だったと思うが,七草をたたき,はやし言葉終わると,粥に入れるのである。正月からの食べすぎた胃を気遣って,消化のよいお粥を食べる意味もあるだろうと思っている。 十数年前,3学期の始業式で,当時の校長先生が,この五節句の一つで,七草の種類を挙げられて話をされていたのを思い出した。この話を聞いた人もわたしを含めて3人しかいないが,なぜか3人とも今も印象に残っている話である。 3か月![]() さて,3年生は進路実現に向けて,そして,2年生はチャレンジ体験,1年生はファイナンスパーク学習と大きなものが,それぞれの学年で行われる。外部の方々と接する場面だけに,挨拶,そして,感謝の言葉や謝りの言葉などがしっかりできるかである。他のことがいくらできても,挨拶もろくにできないでは,スタートで違ってくる。生徒は,よくその場に立てばと言うが,いつも自然と声に出ないものは,特別の場で出るわけもなく,普段の場こそ,最適の練習の場である。その練習の場でしっかりとできる者こそが,特別の場でもできるものなのである。 ところで,この3か月は,次のステップに向けての総仕上げの期間である。学校の1年は4月の開始であるが,年が改まって3か月がある。年の初めの改まった中での,4月のスタートへの準備ができるのである。年も改まり,それぞれが目標として頑張ることを胸に誓ったと思うが,そのことと学級や学年,さらには学校全体として頑張ることとが相まって集団生活がある。個々人が頑張ることで,それぞれが高まっていくことは確かである。しかし,集団としての高まりもなければ,勝手な高まりとなってしまう。集団として高まることが個人の高まりを支え,個人としての高まりが集団としての高まりを支える関係こそが大切なのである。今日からスタート,大きく飛躍する岡崎中学校にしてきたい。 タコとイカ![]() ところで,昔,お正月には,凧揚げ,独楽回し,羽子板が定番であった。ゲイラカイトという西洋凧もあり,素早く上がったことを思い出した。その凧揚げの凧は,新聞紙で長い尾を付けていたのだが,そのさまが蛸に似ていることからの命名であった。しかし,もともと上方では,イカ(紙鳶)と言っていた。それは,その形が烏賊(いか)に似ているからである。江戸では,タコと呼んでいた。そのタコが京都市内部に入り込んで,市内部ではタコと言うようになった。以前,もう20数年前であるが,京都府下の方言調査をしたときには,丹後では,「イカ」「イカノボリ」,丹波では,「イカノボリ」「タコ」,山城では,「イカノボリ」「イカ」という形が残っていた。丹波の「タコ」は,亀岡辺りであった。言葉の伝播としての中心部から広がる法則,京都市を中心としての新しい言葉の「タコ」が存在し,山城や丹後では,古い「イカ」という形で残っているという,同心円状の伝わりがきれいに残った言葉である。 未来ある子どもたち![]() 今日から岡崎中学校も後期後半の準備にかかる。いよいよ3年生にとっては,ゴールに向かって進む時期となり,体に気を付けて,準備を怠りなく進めて欲しい。 さて,多くの方から年賀状をいただいたが,とりわけ嬉しいのは,子どもたちの笑顔あふれるそれである。みんな未来ある子どもたちである。いろいろな可能性のある子どもたちが,自分の周りにもこんなにもたくさんいるのかと思うと,嬉しいような思いと,職業柄か,どのように育っていくのがよいのだろうかとふと考えるが,学校の使命を考えれば,やはり第一には,大きな意味での学力をつけなければならないことだと思う。いろいろな可能性の広がるそれである。あれもこれもという思いはあるかもしれないが,何か一本,ぶれてはいけない視点,ここでは学力をつけるということであるが,その力をつけるためにいろいろとそれに付随することを考えていくことだ。バラバラにあれもこれもやっていても,徒労感ばかりが先行するだろう。一点突破で,その一本の幹を中心に,しかりと関連する枝葉の部分を考えなければならないように思う。 言うは易し,行うは難しであるが,教育に100%はない,あるのは,わたしたちの子どもを見据えた教育実践のみである。未来ある子どもたちをいつも合言葉にした学校であり続けたいと願っている。 |
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