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最新更新日:2025/07/03 |
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国民読書年![]() 読書の効用はいろいろと言われている。それゆえか,いろいろな取組には様々な意見が出てくるが,読書を推進することに異論を唱える人はほとんど出ない。誰もが読書をすることの意義を認めているからだ。本を読むことは,脳の活動をフル回転させる複雑な行為が効用だという人もあるが,何より,本と出合うことで,集中力や知的好奇心が育まれることと,沈黙の時間を持つことで,自己との対話ができることである。 若いうちは乱読でいい。とにかく読むことで,本に親しむことである。そのうちに自分なりの方法や傾向も出てくる。今はどんどん読むことだ。わたしのように50歳も後半になると,目がしょぼしょぼして活字が読みづらくなる。もっと読んでおけばと今更ながら後悔する。司馬遼太郎などは,学校嫌いであって,世の中には,図書館と本屋さえあれば勉強はできると豪語していた。ある意味,他の人がどうのこうのということはなく,自分さえ心がければしっかりと取り組めるもので,とても簡単である。ちょっと集中して本の虜にさえなってしまえばだけである。朝読書のアンケートに朝読書が切れることが残念に思うかどうかを尋ねればいい。その数が多く増えていくことが,読書好きな子どもが増えているかがわかるからだ。何冊読んだとか,何ページ読んだとかを尋ねることもいいが,そのことだけをシンプルに尋ねれば,本当の意味で,朝読書が浸透しているかがわかる。 七草粥![]() 今日は七草粥を食べるが,本来は,五節句の一つで,七草粥を祝う節句の日であるというのが正しい。中国では,人日(じんじつ)といい,中国から伝わった風習である。七草であるセリ,ナズナ,ゴギョウ,ハコベ,ホトケノザ,スズナ,スズシロをまな板の上に,ちょっと忘れたが,はやし言葉を唱えながら,すりこぎと火箸だったと思うが,七草をたたき,はやし言葉終わると,粥に入れるのである。正月からの食べすぎた胃を気遣って,消化のよいお粥を食べる意味もあるだろうと思っている。 十数年前,3学期の始業式で,当時の校長先生が,この五節句の一つで,七草の種類を挙げられて話をされていたのを思い出した。この話を聞いた人もわたしを含めて3人しかいないが,なぜか3人とも今も印象に残っている話である。 3か月![]() さて,3年生は進路実現に向けて,そして,2年生はチャレンジ体験,1年生はファイナンスパーク学習と大きなものが,それぞれの学年で行われる。外部の方々と接する場面だけに,挨拶,そして,感謝の言葉や謝りの言葉などがしっかりできるかである。他のことがいくらできても,挨拶もろくにできないでは,スタートで違ってくる。生徒は,よくその場に立てばと言うが,いつも自然と声に出ないものは,特別の場で出るわけもなく,普段の場こそ,最適の練習の場である。その練習の場でしっかりとできる者こそが,特別の場でもできるものなのである。 ところで,この3か月は,次のステップに向けての総仕上げの期間である。学校の1年は4月の開始であるが,年が改まって3か月がある。年の初めの改まった中での,4月のスタートへの準備ができるのである。年も改まり,それぞれが目標として頑張ることを胸に誓ったと思うが,そのことと学級や学年,さらには学校全体として頑張ることとが相まって集団生活がある。個々人が頑張ることで,それぞれが高まっていくことは確かである。しかし,集団としての高まりもなければ,勝手な高まりとなってしまう。集団として高まることが個人の高まりを支え,個人としての高まりが集団としての高まりを支える関係こそが大切なのである。今日からスタート,大きく飛躍する岡崎中学校にしてきたい。 タコとイカ![]() ところで,昔,お正月には,凧揚げ,独楽回し,羽子板が定番であった。ゲイラカイトという西洋凧もあり,素早く上がったことを思い出した。その凧揚げの凧は,新聞紙で長い尾を付けていたのだが,そのさまが蛸に似ていることからの命名であった。しかし,もともと上方では,イカ(紙鳶)と言っていた。それは,その形が烏賊(いか)に似ているからである。江戸では,タコと呼んでいた。そのタコが京都市内部に入り込んで,市内部ではタコと言うようになった。以前,もう20数年前であるが,京都府下の方言調査をしたときには,丹後では,「イカ」「イカノボリ」,丹波では,「イカノボリ」「タコ」,山城では,「イカノボリ」「イカ」という形が残っていた。丹波の「タコ」は,亀岡辺りであった。言葉の伝播としての中心部から広がる法則,京都市を中心としての新しい言葉の「タコ」が存在し,山城や丹後では,古い「イカ」という形で残っているという,同心円状の伝わりがきれいに残った言葉である。 未来ある子どもたち![]() 今日から岡崎中学校も後期後半の準備にかかる。いよいよ3年生にとっては,ゴールに向かって進む時期となり,体に気を付けて,準備を怠りなく進めて欲しい。 さて,多くの方から年賀状をいただいたが,とりわけ嬉しいのは,子どもたちの笑顔あふれるそれである。みんな未来ある子どもたちである。いろいろな可能性のある子どもたちが,自分の周りにもこんなにもたくさんいるのかと思うと,嬉しいような思いと,職業柄か,どのように育っていくのがよいのだろうかとふと考えるが,学校の使命を考えれば,やはり第一には,大きな意味での学力をつけなければならないことだと思う。いろいろな可能性の広がるそれである。あれもこれもという思いはあるかもしれないが,何か一本,ぶれてはいけない視点,ここでは学力をつけるということであるが,その力をつけるためにいろいろとそれに付随することを考えていくことだ。バラバラにあれもこれもやっていても,徒労感ばかりが先行するだろう。一点突破で,その一本の幹を中心に,しかりと関連する枝葉の部分を考えなければならないように思う。 言うは易し,行うは難しであるが,教育に100%はない,あるのは,わたしたちの子どもを見据えた教育実践のみである。未来ある子どもたちをいつも合言葉にした学校であり続けたいと願っている。 最後の日まで![]() 25日の「志」でも書き,全校集会でも言ったが,「相手のためを思う気持ち」を持って,自分の目標を重ねていくことが大切である。吹奏楽部は,音楽を通して,いろいろなところで活動を行っている。まさに「相手のためを思う気持ち」であるが,これは,直接,音楽を通してという手段であるが,清掃活動は,また別である。違う面での活動であるが,共通することは,「相手のためを思う気持ち」である。 直接でなく,間接的にではあるが,相手のことを考えることは,音楽でのその部分を補完する役割があると思う。自分があるということは,相手があるということである。常に,自分の本来的な部分でなくても相手意識を持つことは,その相手意識の幅を広げるものである。ギリギリの相手意識は,ぎりぎりのゆとりのない意識でしかない。音楽を通しての部分は,よくよく考えれば,それ以前の相手があって,そして,音楽という部分に収斂されていくように思う。最後の日まで,この気持ちを忘れない吹奏楽部だからこそ,今の素晴らしく,魅了する音を奏でてくれているようにも感じる。 志![]() 生徒たちも細かなことをいえば切りがないが,概ねしっかりと学校生活を送れている。ただ,半歩でも進めるために全体で高めなければならいことは,いわゆる道徳でいう公徳心だと思う。とりわけ,挨拶から始まり,ありがとう,すみません,といった言葉が素直に出せるかである。このことは,人間関係の基本である。人は生きている限り,自分だけ生きることはできない。また,人は人との関係によって,自分を知るのである。そのことを思えば,やはり,人間関係を重視した教育を再度構築しなければならない。それが本校が狙う,学級づくりなのである。集団と個の関係をどのように築いていくかである。昨日紹介した「沈黙」とい本も,ある意味そのことが語られている。 最近,「坂の上の雲」で,司馬遼太郎がブームになっている。わたしは,小説を2作品しか読んでいないが,彼を語るキーワードに「志」がある。「目標」ではなく,「志」なのである。「志」には,「1.・ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。・心の持ち方。信念。志操。2.相手のためを思う気持ち。厚意。」の意味がある。これを見ればわかるだろうが,単なる目標ではなく,その上に「相手のためを思う気持ち」がなければならないのである。自分の人生ではあるが,その中には人のための人生でもあることを知らしめなければならない。親に対してもそうである。兄弟に対しても。友だちに対しても。相手意識を考えながら,こうした集団を広げていくのもわれわれの努めでもあると強く思う。 沈黙![]() お薦めの本は,村上春樹の『レキシントンの幽霊』(文春文庫)の中の「沈黙」である。これは,35ページほどであるから,30分もあれば読める。村上春樹は,日本ではノーベル文学賞に一番近い作家である。そして,生まれは京都の伏見である。 さて,この「沈黙」は,全国学校図書館協議会から集団テキストとして出版された,書き下ろしである。本の中身を書いてしまえば,面白くなくなるので,書かないが,大沢さんが僕に過去の出来事を語るという形式は,あの2年生の「少年の日の思い出」を彷彿させる。テキストという性格上,教訓めいた内容にならざるを得なかったのかもしれないが,一人ひとりが考えなければならないことのように思える。ちょっと1年生には難しいかもしれませんが,難しいものも読み通すということも,大切だ。 まだまだいろいろなお薦めの本はあるが,本の楽しみは,自らが選んで,買うことで,読み通そうという思いも生まれてくるものでもあるように思う。人に与えられても,なかなかすんなりとは読もうと思えないものでもあるから,自分で選んで,楽しい読書生活を送ってもらえればと思う。わたしも休み中に読んで,また,話ができるようにしたいと思っている。 万年青![]() 京都では,正月にこの万年青を愛でるのである。万年青の葉は厚く,年中、緑鮮やかであることから,転居したときに,まずは,万年青を植えたり,鉢植えを部屋に置いたりしてから入るという習わしがある。変わることのない青い葉からは,変わることのない幸せを,また,初夏に咲く淡黄色の花のあとは青い実となり,それが秋には珠玉の実となる。そのことから家運隆盛の象徴として,人々は見つめるのである。そして,元旦に万年青を愛でることで,無事に正月を迎えられた喜びに感謝するのである。京都では,江戸時代に爆発的なブームになったという。万葉集にも歌われ,芥川龍之介の作品名は忘れたが,出てくる。 学校のそれは,育て方がまずかったのか,ちょっと弱り気味である。ほっておいてもという思いがあったが,やはり心して育てなければ,育たないようである。子どもと一緒である。 おおきに![]() 記事の中に,磯田多佳とい祇園の女将が出てくる。漱石のお気に入りであった。新橋で「大友(だいとも)」という店を構え,谷崎や吉井勇とも親交があった。その多佳の養子で,日本画家の磯田又一郎という方が南禅寺に住んでおられた。都をどりのポスターなどでも有名な画家で,その孫を岡崎で担任していた関係で,興味を持って読んでいた。 ところで,「おおきに」という京ことばがある。これは,「おおきにありがとう」の「ありがとう」を略したもので,明治以降に広まった。ありがとうの気持ちを強く押し出すことばで,さしずめ,現在なら「たいへん」くらいであろうか。 漱石は,ある日,北野天満宮に多佳を誘うが,それに対して多佳は「おおきに」と返した。漱石は,OKととらえ,喜んだが,待てども待てども,多佳は来なかったという。「おおきに」には,サンキューとノーサンキューとの意味が同居しており,漱石は遠まわしに断られたのである。サンキューの意味に使うときには,そのあとに,「ホンマニ,ヨロシオスカ」というようなことばで,後押しがある。京ことばの難しさである。 |
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