京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2025/07/03
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◎学校教育理念:すべての子どもの学習機会と進路の保障 ◎学校教育目標:「自ら考え学ぶ力」と「自ら律する力」を高め、確かな学力・豊かな心・健やかな体を備えた生徒の育成

七草粥

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 7日正月である。松の内も半分で,まだおめでとうございますが生きている。今朝も校門で生徒たちを迎えていると,もう7年くらい前の卒業生が,自転車に乗りながら,おめでとうございますと言ってくれた。登校してくる生徒もちょっとびっくりするくらいの声であった。でも,久し振りで,しかもお正月,きっちりと挨拶をしてくれ,清々しい気持ちになった。また,幼稚園へ行く子どもにおめでとうと言うと,おめでとうございますと返してくれた。こうした積み重ねが,無縁社会とよばれる今の日本の現状を変えていく一つだろうなと,ふと思えた。
 今日は七草粥を食べるが,本来は,五節句の一つで,七草粥を祝う節句の日であるというのが正しい。中国では,人日(じんじつ)といい,中国から伝わった風習である。七草であるセリ,ナズナ,ゴギョウ,ハコベ,ホトケノザ,スズナ,スズシロをまな板の上に,ちょっと忘れたが,はやし言葉を唱えながら,すりこぎと火箸だったと思うが,七草をたたき,はやし言葉終わると,粥に入れるのである。正月からの食べすぎた胃を気遣って,消化のよいお粥を食べる意味もあるだろうと思っている。
 十数年前,3学期の始業式で,当時の校長先生が,この五節句の一つで,七草の種類を挙げられて話をされていたのを思い出した。この話を聞いた人もわたしを含めて3人しかいないが,なぜか3人とも今も印象に残っている話である。

3か月

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 今日から後期後半が始まる。大過なく今日を迎えられましたことが何よりのことだ。
 さて,3年生は進路実現に向けて,そして,2年生はチャレンジ体験,1年生はファイナンスパーク学習と大きなものが,それぞれの学年で行われる。外部の方々と接する場面だけに,挨拶,そして,感謝の言葉や謝りの言葉などがしっかりできるかである。他のことがいくらできても,挨拶もろくにできないでは,スタートで違ってくる。生徒は,よくその場に立てばと言うが,いつも自然と声に出ないものは,特別の場で出るわけもなく,普段の場こそ,最適の練習の場である。その練習の場でしっかりとできる者こそが,特別の場でもできるものなのである。
 ところで,この3か月は,次のステップに向けての総仕上げの期間である。学校の1年は4月の開始であるが,年が改まって3か月がある。年の初めの改まった中での,4月のスタートへの準備ができるのである。年も改まり,それぞれが目標として頑張ることを胸に誓ったと思うが,そのことと学級や学年,さらには学校全体として頑張ることとが相まって集団生活がある。個々人が頑張ることで,それぞれが高まっていくことは確かである。しかし,集団としての高まりもなければ,勝手な高まりとなってしまう。集団として高まることが個人の高まりを支え,個人としての高まりが集団としての高まりを支える関係こそが大切なのである。今日からスタート,大きく飛躍する岡崎中学校にしてきたい。
 

タコとイカ

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 明日から,後期後半が始まるが,それに先立ち,今日は,全学年で補習が行われる。3年生は進路実現に向けてまっしぐらであるが,1・2年生も明日からの準備として,子どもたちを今日から登校させることは,いろいろな意味で大切なことである。本当に本校の先生方は,しっかりと取組の意義を捉えて取り組まれていることがなにより嬉しい限りである。一回りしたが,生徒たちもそれぞれの課題に取り組んでいた。
 ところで,昔,お正月には,凧揚げ,独楽回し,羽子板が定番であった。ゲイラカイトという西洋凧もあり,素早く上がったことを思い出した。その凧揚げの凧は,新聞紙で長い尾を付けていたのだが,そのさまが蛸に似ていることからの命名であった。しかし,もともと上方では,イカ(紙鳶)と言っていた。それは,その形が烏賊(いか)に似ているからである。江戸では,タコと呼んでいた。そのタコが京都市内部に入り込んで,市内部ではタコと言うようになった。以前,もう20数年前であるが,京都府下の方言調査をしたときには,丹後では,「イカ」「イカノボリ」,丹波では,「イカノボリ」「タコ」,山城では,「イカノボリ」「イカ」という形が残っていた。丹波の「タコ」は,亀岡辺りであった。言葉の伝播としての中心部から広がる法則,京都市を中心としての新しい言葉の「タコ」が存在し,山城や丹後では,古い「イカ」という形で残っているという,同心円状の伝わりがきれいに残った言葉である。

未来ある子どもたち

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 おめでとうごいます。今年も岡崎中学校をよろしくお願いします。
 今日から岡崎中学校も後期後半の準備にかかる。いよいよ3年生にとっては,ゴールに向かって進む時期となり,体に気を付けて,準備を怠りなく進めて欲しい。
 さて,多くの方から年賀状をいただいたが,とりわけ嬉しいのは,子どもたちの笑顔あふれるそれである。みんな未来ある子どもたちである。いろいろな可能性のある子どもたちが,自分の周りにもこんなにもたくさんいるのかと思うと,嬉しいような思いと,職業柄か,どのように育っていくのがよいのだろうかとふと考えるが,学校の使命を考えれば,やはり第一には,大きな意味での学力をつけなければならないことだと思う。いろいろな可能性の広がるそれである。あれもこれもという思いはあるかもしれないが,何か一本,ぶれてはいけない視点,ここでは学力をつけるということであるが,その力をつけるためにいろいろとそれに付随することを考えていくことだ。バラバラにあれもこれもやっていても,徒労感ばかりが先行するだろう。一点突破で,その一本の幹を中心に,しかりと関連する枝葉の部分を考えなければならないように思う。
 言うは易し,行うは難しであるが,教育に100%はない,あるのは,わたしたちの子どもを見据えた教育実践のみである。未来ある子どもたちをいつも合言葉にした学校であり続けたいと願っている。

最後の日まで

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 今日で学校も終わり,1月3日まで閉鎖となる。最後の一日である。にもかかわらず,吹奏楽部の掃除が行われている。毎週月曜日の朝,吹奏楽部は,職員室前の廊下や階段など,清掃活動をしてくれている。ずっと続いている活動である。
 25日の「志」でも書き,全校集会でも言ったが,「相手のためを思う気持ち」を持って,自分の目標を重ねていくことが大切である。吹奏楽部は,音楽を通して,いろいろなところで活動を行っている。まさに「相手のためを思う気持ち」であるが,これは,直接,音楽を通してという手段であるが,清掃活動は,また別である。違う面での活動であるが,共通することは,「相手のためを思う気持ち」である。
 直接でなく,間接的にではあるが,相手のことを考えることは,音楽でのその部分を補完する役割があると思う。自分があるということは,相手があるということである。常に,自分の本来的な部分でなくても相手意識を持つことは,その相手意識の幅を広げるものである。ギリギリの相手意識は,ぎりぎりのゆとりのない意識でしかない。音楽を通しての部分は,よくよく考えれば,それ以前の相手があって,そして,音楽という部分に収斂されていくように思う。最後の日まで,この気持ちを忘れない吹奏楽部だからこそ,今の素晴らしく,魅了する音を奏でてくれているようにも感じる。

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 いよいよ後期前半の終業である。大きなこともなく,この日を迎えられたことが何より嬉しい。
 生徒たちも細かなことをいえば切りがないが,概ねしっかりと学校生活を送れている。ただ,半歩でも進めるために全体で高めなければならいことは,いわゆる道徳でいう公徳心だと思う。とりわけ,挨拶から始まり,ありがとう,すみません,といった言葉が素直に出せるかである。このことは,人間関係の基本である。人は生きている限り,自分だけ生きることはできない。また,人は人との関係によって,自分を知るのである。そのことを思えば,やはり,人間関係を重視した教育を再度構築しなければならない。それが本校が狙う,学級づくりなのである。集団と個の関係をどのように築いていくかである。昨日紹介した「沈黙」とい本も,ある意味そのことが語られている。
 最近,「坂の上の雲」で,司馬遼太郎がブームになっている。わたしは,小説を2作品しか読んでいないが,彼を語るキーワードに「志」がある。「目標」ではなく,「志」なのである。「志」には,「1.・ある方向を目ざす気持ち。心に思い決めた目的や目標。・心の持ち方。信念。志操。2.相手のためを思う気持ち。厚意。」の意味がある。これを見ればわかるだろうが,単なる目標ではなく,その上に「相手のためを思う気持ち」がなければならないのである。自分の人生ではあるが,その中には人のための人生でもあることを知らしめなければならない。親に対してもそうである。兄弟に対しても。友だちに対しても。相手意識を考えながら,こうした集団を広げていくのもわれわれの努めでもあると強く思う。

沈黙

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 図書委員会から,お薦めの一冊を書いて欲しいと言われたので,いろいろ考えた末,ファラディーの「ロウソクの科学」を薦めた。しかし,いくつか候補も出していたので,また,休み前でもあるので,本について書くことにする。それにしても,図書委員会もいろいろと新しい企画を出してくれて,楽しみである。
 お薦めの本は,村上春樹の『レキシントンの幽霊』(文春文庫)の中の「沈黙」である。これは,35ページほどであるから,30分もあれば読める。村上春樹は,日本ではノーベル文学賞に一番近い作家である。そして,生まれは京都の伏見である。
 さて,この「沈黙」は,全国学校図書館協議会から集団テキストとして出版された,書き下ろしである。本の中身を書いてしまえば,面白くなくなるので,書かないが,大沢さんが僕に過去の出来事を語るという形式は,あの2年生の「少年の日の思い出」を彷彿させる。テキストという性格上,教訓めいた内容にならざるを得なかったのかもしれないが,一人ひとりが考えなければならないことのように思える。ちょっと1年生には難しいかもしれませんが,難しいものも読み通すということも,大切だ。
 まだまだいろいろなお薦めの本はあるが,本の楽しみは,自らが選んで,買うことで,読み通そうという思いも生まれてくるものでもあるように思う。人に与えられても,なかなかすんなりとは読もうと思えないものでもあるから,自分で選んで,楽しい読書生活を送ってもらえればと思う。わたしも休み中に読んで,また,話ができるようにしたいと思っている。

万年青

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 万年青と書いて,「おもと」と読む。大辞林を引くと,「ユリ科の多年草。山地に自生し、肥厚した地下茎から多数の濃緑色の葉を出す。葉は長さ30〜50センチで、厚くつやがある。春、短い茎を出して淡黄色の小花を穂状に密集してつけ、実は丸く赤色、まれに黄色。園芸品」とある。学校にも一株,鉢植えがある。
 京都では,正月にこの万年青を愛でるのである。万年青の葉は厚く,年中、緑鮮やかであることから,転居したときに,まずは,万年青を植えたり,鉢植えを部屋に置いたりしてから入るという習わしがある。変わることのない青い葉からは,変わることのない幸せを,また,初夏に咲く淡黄色の花のあとは青い実となり,それが秋には珠玉の実となる。そのことから家運隆盛の象徴として,人々は見つめるのである。そして,元旦に万年青を愛でることで,無事に正月を迎えられた喜びに感謝するのである。京都では,江戸時代に爆発的なブームになったという。万葉集にも歌われ,芥川龍之介の作品名は忘れたが,出てくる。
 学校のそれは,育て方がまずかったのか,ちょっと弱り気味である。ほっておいてもという思いがあったが,やはり心して育てなければ,育たないようである。子どもと一緒である。

おおきに

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 19日の夕刊に,漱石の未発表の書簡が見つかり,「漱石全集(岩波書店)」に掲載された書簡集の内容の前後がわかり,流れが通じるものであったという内容が載った。
 記事の中に,磯田多佳とい祇園の女将が出てくる。漱石のお気に入りであった。新橋で「大友(だいとも)」という店を構え,谷崎や吉井勇とも親交があった。その多佳の養子で,日本画家の磯田又一郎という方が南禅寺に住んでおられた。都をどりのポスターなどでも有名な画家で,その孫を岡崎で担任していた関係で,興味を持って読んでいた。
 ところで,「おおきに」という京ことばがある。これは,「おおきにありがとう」の「ありがとう」を略したもので,明治以降に広まった。ありがとうの気持ちを強く押し出すことばで,さしずめ,現在なら「たいへん」くらいであろうか。
 漱石は,ある日,北野天満宮に多佳を誘うが,それに対して多佳は「おおきに」と返した。漱石は,OKととらえ,喜んだが,待てども待てども,多佳は来なかったという。「おおきに」には,サンキューとノーサンキューとの意味が同居しており,漱石は遠まわしに断られたのである。サンキューの意味に使うときには,そのあとに,「ホンマニ,ヨロシオスカ」というようなことばで,後押しがある。京ことばの難しさである。

必要

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 3年の学級通信を見ていたら,「have toなこと!?」と題してあった。わたしは国語だが,浅い英語の知識を振り絞って,書いてみようと思う。英語は苦手なので,和製英語で申し訳ないが,必要という言葉の「need」と「want」についてである。
 「ニーズ(日本語でニードとは言わないので)」は,空間的に見ると,外部の状況を判断して割り出した必要性。時間的に見ると,過去から現在にかけて人間が経験したことや得たことを基準にして割り出した必要性。
 「ウォント」は,自分の内部から出てくる必要性。現在と未来に時間軸をとった上での必要性。つまり,欲望,自分のなかの欠乏を内包した必要性ということになる。
 だから,「ニーズ」は,人間の理性の上に立った判断から生まれた必要に対して,「ウォント」は,今の自分の中から生まれてくる,何かいたたまれないような,何とかしたく思うような必要ということができよう。
 「ニーズ」という点かいえば,今の自分の成績がこんなのだから,あそこの高校にしようかというふうに,いろいろな情報から「ニーズ」を割り出して進路を決めるときに使うが,さて,そうしたら,「ウォント」は,今必要ないかといえば,そうではない。高校を決めるとき,ある種の「ニーズ」によるところの判断は大切かもしれないが,ある面では,「ウォント」にきりかわらないかぎり,どこかで挫折するのではないだろうかと危惧する。というのは,やはり,ぼくは将来,こんな職業に就きたいんだ,わたしは将来,こんな勉強をしたいんだ,といった「ウォント」をもった意志力がなければ,自分の人生を生き抜いていくことはできないからだである。
 自分の内なる欲望こそ,飛躍の原動力であり,そこには「ニーズ」ではなく,「ウォント」がとても必要になってくると思うからである。わたしの気持からいえば,「ニーズ」に必要性を感じながらも,いつまでも「ウォント」の必要性を持ち続けて欲しいというのが,偽らざる願いである。それは,目の前の進路だけではないからである。

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