京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2025/07/15
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◎学校教育理念:すべての子どもの学習機会と進路の保障 ◎学校教育目標:「自ら考え学ぶ力」と「自ら律する力」を高め、確かな学力・豊かな心・健やかな体を備えた生徒の育成

共に

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 昨日,生徒議会の議長,並びに副議長の認証を行い,これで,生徒会の本格的なスタートとなった。
 生徒会長より,今後1年間のスローガンが報告された。『「岡中バトン」〜あいさつでつなぐ心の絆(わ)〜』がそれである。みんなの輪,つまり,絆を深めるために,まずあいさつを積極的にしていこうとい意味の説明,そして,具体的には,朝の校門でのあいさつ運動の展開をはじめ,家族や友だち,教職員,学校に来られる方々に心の絆を広げようと,呼びかけた。
 このスローガンに至るまでに,生徒会では,岡崎中学校のよい点,改善すべき事柄などが話し合われた。わたしのところまで,話し合われた結果のプリントが配布されていた。何をスローガンにするかは,具体的な行動にかかわる話であるが,それよりも,生徒会のみんなが,岡崎中学校の現状を考えことができたことが大事なことである。いろいろな思いがあるが,それらを共有することで,どの方向でいこうかということの足並みがそろい,そして,みんなが納得し,共に行動できるのである。
 こうしたことをさせる上で,わたしたちがしなければならないことは,教職員総体として,岡崎中学校の現状をどうとらえ,どうしたらいいかという現状の共通認識である。そのことがいつもわたしが言うモデリングであり,それが,指導案でいう生徒観,つまり,岡崎観につながっていくのである。本校の教育目標は,「共に生き 共に学び 共に考え そして 未来を拓く」である。そして,学級づくりをテーマとして,頑張っている。

紅葉

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 師走である。今年もあと1月,でも学校の暦なら,まだ4月である。毎年,その差を複雑な思いで見ている。ただ,新しい年を迎え,最後のまとめの3か月を,新たな気持ちと考えると,第1の区切り,そして,第2の区切りと意味があるようにも思える。
 この間も,琵琶湖疏水記念館のあと,南禅寺を通って帰ったが,多くの人出であった。もっと早い話題であるが,温暖化なのか,紅葉の季節が今も続いている。上代ではモミチといい,動詞モミツからきた。もともとは色を揉み出す意味,つまり,秋の時雨や霜などの冷たさによって,揉み出されるようにして色づく「揉み出づ」の転訛「もみづ」の名詞形であるとも言われている。
 何ももみじだけが紅葉ではない。イチョウもそうである。中国が原産であるが,鴨脚(ヤーチャオ)を,イチョウと訛ったものである。鴨脚は,葉の形が鴨の脚に似ていることからついたとも言われている。公孫樹とも書くが,実が成るまでには孫の代までかかるという意味である。
 こうしたものを見ることを紅葉狩りというが,「狩り」は,もともとはけものなどを捕る意味で使われていたが,うさぎやきつねなど小動物にも使うようになり,果物を採ること,イチゴ狩り,ぶどう狩り,そして,山野に花を求めて遊び歩くことなどにも使われるようになった。桜狩りという言葉もある。
 人も,自らの中で,風雪に耐え,揉み出されるようにして色づくことで成長の過程を示さなければならないと思うし,そして,狩りのように,皆に見てもらえる,つまり,認められるようにならないといけないと思う。すべて自分にかかっているように思えた。

臨地

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先週の25日,左京区のPTAの見学研修にリニューアルされた琵琶湖疏水記念館に出かけた。琵琶湖疏水は,京都の近代化を進めた画期的な事業で,今日の京都の基盤をつくったと言っても過言でない。
 わたしたちは,疏水といえば,南禅寺の辺りだけがクローズアップされているように思うが,実は,伏見までもの物資輸送の大きな役割を果たしたこと,また,水力発電により,新しい産業が興り,電気鉄道が走り,飲料水が確保されたことも挙げられる。それに加えて,わたしが興味をもったことは,洞門変額・碑である。これは,トンネルの入口などに,一言を添えたものだ。例えば,伊藤博文「気象萬千」といったようなものである。山縣有朋,井上馨などのものもある。それらからして,大事業であったことがうかがえる。
 岡崎中学校の校区内ゆえに,「総合的な学習の時間」などの学習にも使える。最近は,ネットの発達で,調べ学習が幅をきかせているが,地元には地元のゆえの臨地学習ができる利点を考えなければならない。工費がいくらかかり,延べ人数や工事の方法など,どこからでも調べられることなど,二の次である。それより,この事業を進めた北垣知事が東京からの帰りには大津で下車し,この疏水を通って九条山に出て,京都市内を眺めたという。同じ九条山に立って,京都市内を眺めた思いを共有することや田邉朔郎博士が私財を投げ出して建立した疏水工事殉難者弔魂碑には,「一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんずるはばんこおんにうるおい)〈疏水工事で亡くなられた人々によって、多くの家庭が恩恵を得られた〉」と刻まれているが,こうした先人の思いを探る,現地ならではの学習が必要である。そして,その結果としてのいろいろな数字などが見えてくればいいと思う。
 岡崎は,本当に素晴らしい地域である。本校生徒には,そのよさをまだまだ伝え切れていないように思う。地元というフィルターを通して,岡崎中学校を見る視点を忘れてはいけないと思う。

夕食前

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 この間,朝飯前という話をしたが,先週の新聞に,『「夕食前勉強」は成績優秀』とあった。ベネッセの生活調査からである。全国の小学校5年生から高等学校2年生を対象に放課後の生活調査をした結果,成績上位者は,夕食前に勉強時間の確保をしている割合が高かったということだ。
 記事によると,中学生の勉強時間は平均126分,午後6時に勉強していた子どもは,下位層14.8%に対し,上位層27.1%であったという。結論は,夕食前がどうのこうのというより,時間を有効に使い,時間を管理する力を育てることが大切だということであった。
 以前,わたしもその旨の話をしたことがある。帰宅してから夕食までの間に,昨日に用意をしておいた漢字を覚えたり,英単語を覚えたりすることが大切であると。主旨は同じで,意外と帰ってからだらだらするものだ。そこで,昨日の間に用意しておくというところがミソである。この用意を一からすると疲れた中での作業となるゆえ,この分は,あらかじめ用意して,さっと取りかかれるように準備しておくことが大切なのである。しかも,作業的なものがよい。反復練習的なものがよい。そして,自分に課すこと,というより,生活の一部にしてしまうことだ。この時間にこれをしなければ気持ちが悪い,なんか変だという思いになれば,しめたものだ。自分の好きなことや楽しいことは,そんなことをしなくても楽々やれるものだが。それと朝飯前にも書いたように,満腹前に勉強することも,また効率的にいいものでもある。いろいろと自分の時間管理を考えてほしい。ちょっとした時間を見つけては,継続してやり続けていくことが大切である。

主張

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 23日の勤労感謝の日,教え子のデュオコンサートに出かけた。ヴァイオリンとピアノのコンサートで,府民ホールALTIで,「プロコフィエフとの待ちあわせ」と名付けられていた。「待ちあわせ」という表現に,とても懐かしさというか,親しみがわく。なにか自分が主体者になっている感じが,なんとなく嬉しい。
 彼女は,ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団との共演やソロなどで活躍している。現在は,出身の京都市立音楽高等学校のピアノ科,ソルフェージュ科の講師を務めている。よく演奏会のチケットを送ってくれる。今回もそうであった。
 大変お茶目な生徒であった。主張すべきはしっかりと主張する生徒であった。わたしにとっては,いつまでも中学生のままであるが,こうした舞台に立つと,きりっと引き締まる。彼女によって近現代のロシアの作曲家など,今までの自分の範疇とは違った作曲家や作品に巡りあうことができて楽しい。今回のプロコフィエフもそうであった。最後の「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第1番ヘ短調 作品80」などは,二つの楽器のぶつかり合いのような激しさを感じる作品で,大変気に入った。
 お母さんが楽屋に誘ってくださったが,また今度にしますといって会場を離れた。ヴァイオリンの方もおられ,何か気恥ずかしい思いがしたからだ。二人で作品を作りだしていくデュオは,独奏とは違ってお互いの思いを出しながらも,一つにまとめていく大変な作業であると思う。多分彼女は,曲の解釈において,主張すべきことは主張しているだろうと思うが,そこをどんなふうにしてまとめているのかを聞きたく思う。妥協の産物では,芸術は進まないから,ちょっと興味をもっている。
 街角でばったり出会ったり,尋ねてきてくれたりして,いろいろなところで教え子に出会う。思い出話もいいが,何か言った一言を覚えていてくれて,それに対して,今の,今まで考えた主張を言ってくれることが嬉しい。自分の思いが伝えられる教え子であって欲しいと願っている。

朝飯前

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 今日から,考査4が始まる。中学校では,部活動なども1週間前には中止となり,考査に向かう。考査に向かうとは,考査がしっかりと受けられるように健康管理も十分しなければならない。そのこともしっかりと考えなければならいことだ。風邪をひかぬよう,考査日に最大限の力は発揮できるよう,何をしなければならないかを具体的に試み,いろいろな試みの積み上げ大切にしていかなければならないのである。
 「朝飯前」という言葉がある。『詳解国語辞典』(旺文社)で引いてみると,
  1朝起きて朝食をとる前。
  2朝飯の前でもできるほど簡単なこと。やさしいこと。
とある。ここで取り上げるのは2である。
 これは,簡単なことゆえに,朝飯の前にできるのではなく,朝飯の前ゆえに,簡単にものごとができるのである。そこで,何が問題になるかというと,朝飯という食事が問題となるのである。
 人間は,食事をとるとどうなるだろう。昼食を考えてみればよくわかるだろう。腹がすいている4限と昼食をとった5限を比較してみれば,5限のほうが眠たくなるだろう。これは,頭の血の巡りと関係がある。胃の中にものが入ると,血は胃の方へ流れて行き,頭のほうの血の巡りは,悪くなるのである。だから,朝飯の前ゆえに,どんなことでも簡単にできてしまうのである。
 この結論からいうと,飯を食べた後は,学習効率が悪いということである。だから,ある程度まで辛抱して頑張ることも効率の点からいえばよいのである。ましてや,夜飯というものは,その後の学習を放棄するようなものである。
 3年生は,受験勉強と意気込んでいる人もいるだろう。時間は限られたものである。夜遅く,夜食とやらを食べつつ行うより,朝早く起きて,朝飯前の状態で臨んだほうが有効的であろう。

結束

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 先週の19日・20日と「第49回政令指定都市中学校国語教育研究協議会 京都大会」が行われ,出かけていた。国語部会の会長をしているため,名ばかりの実行委員長であったが,この大会に向けて,国語部会の皆さんが力を合わせくださったことがなにより嬉しいし,感謝するところである。
 国語部会も長くからの幹事の先生方が毎年頑張ってくださっているが,なかなか若い人の参加が課題であったが,徐々に若手も加わり,大会ができたことで,組織的にも大きな結束ができたように思う。年代のバランスが大変重要である。そして,何より研究部では,それぞれの学年での実践研究をしていただいたこと,また,運営部では,年代を超えて,多くの人に実際の運営に携わっていただき,横の繋がりができたことがよかった。
 とりわけ,公開授業できたこと,また,その公開授業に向けて,多くの人が指導案に関わり,仕上げたこと。そして,課題の出し方が,根拠をもとに考える課題設定であり,下京中学校の生徒たちが,しっかりと教師の意図を理解し,授業を考えていたことが素晴らしかった。
 大きな大会を進めることは,大変な労力がいるが,組織の結束には大変有用である。そして,若い先生方には,大きな自信となって返ってくる。本当に皆さんに感謝である。
 岡崎中学校も道徳の発表を控え,国語部会に負けないような結束をして,教職員の皆さんに力を付けていただきたい。そろそろ本腰を入れる時になってきた。

育てる木

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 本校は,与謝野鉄幹(本名は与謝野寛)の生まれた地である。『与謝野寛短歌全集』(昭和8年2月)に次のような記述がある。
 「明治6年2月26日 京都市外岡崎村の西本願寺支院,願成寺に生る。寺は岡崎神社の前に在り。……(中略)……父母の親友太田垣連月尼また早くより神光院の茶所に僑居せしが,寛のために名付け親となる。」
とある。岡崎村とは,現在の左京区岡崎である。そして,「寛」は連月尼が付けたことがわかる。連月尼は,小沢蘆庵や香川景樹のあとを受け継いだ幕末の歌人である。号の鉄幹は梅の意味で,和歌は,父である与謝野礼厳に習ったが,8,9歳の頃からである。しかし,和歌を習う前の7歳のとき,与謝野一家は,負債のために本校の地となった願成寺を処分している。「君死にたまふことなかれ……」で有名な与謝野晶子は,この寛の妻で,永観堂や蹴上の浄水場内などには,寛や晶子の歌碑も存在する。寛は,上京後,落合直文に師事し,明治33年新詩社を創設,「明星」を発刊,慶応大学教授などを歴任したが,昭和10年,63歳で亡くなっている。
 先に挙げた小沢蘆庵や香川景樹もここ岡崎に住んだ歌人であり,『雨月物語』で有名な上田秋成の墓も南禅寺を入った西福寺にある。岡崎は,多くの文人等と関連のある地である。学校のこの敷地内で生まれた与謝野鉄幹を偲びながら学校生活を送れることは大変な幸せである。多くの学校がある中,このような学校はなかなかないだろう。しかも,校門の楠木は,野田宇太郎著の『関西文学散歩』(1957年刊)によると,願成寺の名残であると言われ,まさに当時を偲ぶことのできるものが残っていることも嬉しい。そして,この木は,京都市立学校・幼稚園の「名木百選」に選ばれ,今では,「自由・自律・友愛」を育てる木となっている。

辛抱

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 昨日,道徳の校内授業研修会を行った。来年度を睨んでの研修会であったが,本校の先生方は,道徳に対しても真摯に取り組んでくださっている。
 本校の発表は,学級経営に根ざした道徳教育を進めるものだが,わたしの思いは,道徳教育を行うことで,学級がよりよくなることを狙っている。生徒の実態に合わせて,何がクラスに足らないかを,何を考えさせることでクラスがよりよくなるかを第一義に進めるものである。だから,担任の学級経営方針とクラス観,生徒観が何より大切になってくる。よく観察する力,洞察力が必要となってくるのである。そして,生徒に対しては,内面化に迫る道徳教育を進めるのである。ゆえに,道徳的な価値がどうこうより,議論に耐え得る資料が必要なのだ。意見が活発に出し合えるものが大切なのだ。お互いの議論をする中で,他者の意見から学び取り,自分の内面の価値を入れ替えていく,組み替えていくことを狙っている。ゆえに,指導者は多く語っては行けないし,生徒の意見の裁き役に徹しなければならない。指導者が言いたいことを言わず,つまり,自分の価値を押し付けず,どれだけ辛抱できるかである。指導者はしゃべりたくてしゃべりたくてムズムズすると思うが,それに耐えることができるかどうかが鍵である。

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 昨日,無窮の日のことを書いたが,午後から無窮講座というものを開いている。これは,地元の人に来ていただいたり,また,伺わせてもらったりして,いろいろなことを教えていただくという内容である。例えば,お菓子作り,魚のさばき方,着物の着付けやゴルフなど19講座を開催した。生徒たちのために,本当にありがとうございました。また,係りの先生方には,講座の交渉から生徒の希望調査,振り分けまで,大変苦労をかけている。
 生徒たちも大変楽しみにしているものである。わたしも校内での講師の先生方との挨拶を終えた後,外での講座のところを回った。多くのところで,概ね好意的に受け止めてもらっているが,わたしが最も関心を寄せているのは,しっかりと挨拶や返事ができるだろうかということだ。これは,生活の基礎・基本に対する,我々の日頃の取組の外部評価のようなものだからである。おはよう,こんにちは,ありがとう等の言葉は,付き合いの基本であり,そして,こうした言葉が自然とでることが大切なのである。それも元気よく。参観された方から,挨拶が弱いというご指摘も受けた。元気に挨拶をしていたものもいるだろう。一部の生徒かもしれない。いろいろな見方があるだろう。しかし,それは,やはり我々の普段の取組の鏡であると考えなければならない。どれだけ高邁なことを言っても,挨拶もできないのにと言われれば,それまでだ。たとえ一部の生徒がそうであったとしても。いわゆる挨拶は,生きていく上での基礎・基本である。基礎・基本は皆が習得しなければならない事柄である。その点を我々教職員が共通認識しなければならない。よく躾などは家庭教育だなどという人がいる。もちろん家庭教育であると思う。でも,現実の生徒を見たとき,ほっておくことが,その生徒にとってプラスになるだろうか。すべては未来ある子どものためである。
 教育を考えるとき,その時,その時に必要なことを適切に示し,指導していくことが大切である。例えば,よく忘れ物をする生徒がいたとすると,全体に話した後,再度個別に言わせて,注意を喚起したり,あとから,個別に呼んで再度尋ねたりすることである。1回言って分かる生徒,2回言って理解できる生徒,3回言わなければならないなら,3回言うこと。これがいわゆる生徒観に則した指導というものである。

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