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最新更新日:2025/07/03 |
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王道![]() 生徒たち,とりわけ3年生にとっては,「私はこうして○○高校に合格した」「これぞ究極の成績アップの方法」「×○式,寝ながら学べる英語」等々が気になるところだろう。 「HOW TO」ものの共通点は,その道の権威,第一人者が書いていないということ。また,読み手,購入者は,手っ取り早く,手間をかけずに,といったように苦労をせずに,結果を求めていることである。そして,売手のセールスポイントは,「今まで,〜というような無駄をしていませんでしたか?」である。ここには,「効率」を超えた,他人の成果をあてにした「努力しないで」ということにつながっていく。 アメリカ映画に,「億万長者と結婚する方法」や「努力しないで出世する方法」などといった映画があったが,これらはすべて喜劇である。 そろそろテストが返ってくるが,「楽をして,結果を出したい」と誰しも思うだろう。しかし,昔,O社の「赤尾の豆単」という,わたしの年代の人ならよくご存じの本があったが,その本に,「学問に王道なし」と書かれたしおりが入っていたのを,妙に,今も思い出す。 勉強は,地道にやり続けるしかない。高き頂きも,足元を見つめ,一歩一歩と積み重ねていくしかない。時間がかかろうと,歩み続けている限り,必ず頂上にたどり着く。早くなくとも,休まず歩み続けること。これが次のステップに必ずつながるものである。 顔![]() 今年は,9日,金曜日の午後からの取り付けとなった。業者の方と2年生の先生方を中心に,他の教職員も手伝っての作業であった。休み時間など,生徒たちも興味をもって眺めていた。良かったと思うことは,明るい間,つまり,生徒が見られる時間帯に作業が行われたことだ。4時間ほどかかったが,自分たちの作品ではあるものの,地域の方や教職員の手を経て取り付けられるところを見せられたことである。百聞は一見にしかずというように,その苦労を知らしめることも大切である。 昨今は,できる限り裏のことは見せまいとする傾向がある。親の苦労は見せればいい,教職員の苦労も見せればいい。それを見てマイナスにはならない。社会はいろいろな人の下支えで成り立っているのである。校門を飾る顔ではあるが,ここに至る経過を,とりわけ制作した2年生は知っている。毎日見ることによって,岡崎中学校への思いも高まっていくだろう。 この壁画が変わることは,3年生の時代から下級生への時代へと移り変わっていく一つの象徴のように思える。3年生の「dream drive(夢を自分たちで運んで行こう)」は降ろされ,いよいよ一人ひとりが卒業に向かっての現実のスタートが切られたといってよい。3階の窓から,この作業を見ていた3年生になんとなく寂しげな様子が漂っているかのように見えた。 役割![]() ところで,さて,義務教育といっても,わたしたち学校に携わる者と学校外にいる人とでは大きな違いがある。よく勘違いされるところに,義務教育の「義務」は,「子どもには学校に行く義務」があると解釈されることだ。子どもにあるのは,「教育を受ける権利」である。行政的な言い方になるが,子どもは,学校に行っている,行っていないに関わらず,教育を受ける機会を与える義務があるということである。この考えかたを間違えると,学校外にいる人は「子どもは学校に行くのが当然」となり,学校に携わる者は「子どもは学校に来るのが当然」となる。「行く」と「来る」とでは雲泥の差がある。わたしたちからすれば,「来てもらえる学校」にしなければならない。それが地域とともにある学校の姿として,声高く言われている所以である。 そのために大切なことは,子どもも教職員も来て楽しい学校である。もっと簡単にいえば,教職員は子どもたちの笑顔を求めて,授業を始めとして諸々の諸活動にしっかりと取り組み,子どもたちはそれに応えて,響き合う学級,学年,学校であることに尽きる。 こうした姿を求めて,この当たり前となっている義務教育という言葉を,地域や保護者の方,子ども,教職員とそれぞれの立場で,再度見つめ直す中で,それぞれの役割が見えてくるように思う。 今日の「役割」は,10月1日発行の本校のPTA広報誌「白鳩」の巻頭言として載せた「それぞれの役割」の題名を変えたものである。 情報![]() ところで,台風というと,『枕草子』の186段「野分のまたの日こそ」を思い出す。「野分」は野の草を吹き分けて通る秋の強い風のことで,今でいう台風を指す。 「野分のまたの日こそ」(『日本古典文学全集11・枕草子』小学館)では,「野分のまたの日こそ,いみじうあはれにおぼゆれ(野分の吹いた翌日こそ,大変しみじみとした感じがする)」といって,あとにその内容が書かれている。翌日の様子を災害をもたらす台風という見方ではなく,趣のあるものとしてとらえている。『源氏物語』にも「野分」(28帖)がある。ここでは,「風見舞い」として,台風通過後に親しい人への安否確認に出かけていたことがうかがえる。 今は被害のことが中心となっているが,一面といえば単なる一面かもしれないが,自然とともにある人間の視点でとらえていることが新鮮に見えた。 上代,暴風をアカラシマカゼといっていた。アカラシマは「あからさま」で,「物事が急に起こるさま。にわかなさま。」からにわかに吹く風の意味を表している。ところで,台風の語源は,中国語の「大風」,アラビア語の「tufan」,英語の「typhoon」等々,諸説様々である。 学校では,昨日,生徒が帰ったあと,手分けをして18号に備えた。今は数々の情報があり,いろいろなことに備える体制がしっかりとれるが,それらの情報をもとに,各学校でやらなければならないことはそれぞれ違う。情報とともに,自校の姿をしっかりと認識しておかなければ,情報に踊らされるだけである。
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