京都市立学校・幼稚園
最新更新日:2025/07/03
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◎学校教育理念:すべての子どもの学習機会と進路の保障 ◎学校教育目標:「自ら考え学ぶ力」と「自ら律する力」を高め、確かな学力・豊かな心・健やかな体を備えた生徒の育成

情報

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 台風18号で,3時間目からの登校になったが,何よりよかったことは,大きな被害がなかったことだ。
 ところで,台風というと,『枕草子』の186段「野分のまたの日こそ」を思い出す。「野分」は野の草を吹き分けて通る秋の強い風のことで,今でいう台風を指す。
 「野分のまたの日こそ」(『日本古典文学全集11・枕草子』小学館)では,「野分のまたの日こそ,いみじうあはれにおぼゆれ(野分の吹いた翌日こそ,大変しみじみとした感じがする)」といって,あとにその内容が書かれている。翌日の様子を災害をもたらす台風という見方ではなく,趣のあるものとしてとらえている。『源氏物語』にも「野分」(28帖)がある。ここでは,「風見舞い」として,台風通過後に親しい人への安否確認に出かけていたことがうかがえる。
 今は被害のことが中心となっているが,一面といえば単なる一面かもしれないが,自然とともにある人間の視点でとらえていることが新鮮に見えた。
 上代,暴風をアカラシマカゼといっていた。アカラシマは「あからさま」で,「物事が急に起こるさま。にわかなさま。」からにわかに吹く風の意味を表している。ところで,台風の語源は,中国語の「大風」,アラビア語の「tufan」,英語の「typhoon」等々,諸説様々である。
 学校では,昨日,生徒が帰ったあと,手分けをして18号に備えた。今は数々の情報があり,いろいろなことに備える体制がしっかりとれるが,それらの情報をもとに,各学校でやらなければならないことはそれぞれ違う。情報とともに,自校の姿をしっかりと認識しておかなければ,情報に踊らされるだけである。

緊急 台風に関わる非常措置について

台風18号が接近しています。京都市にも影響がある確率が高くなってきたようです。
以前に配布しております、非常措置についてのプリントの内容を載せておきます。
以下に従い、よろしくお願いします。

保護者様   
京都市立岡崎中学校
      校長 西村弘滋

台風に対する非常措置についてのお知らせ

 仲秋の候、保護者の皆様方にはお変わり無くお過ごしでしょうか。日頃は本校の教育の発展のため何かとご尽力賜りありがとうございます。 
さて、台風の接近により、「京都府南部」又は「京都・亀岡」に午前7時現在「暴風警報」が発令されていた場合には、本校において下記のように措置をとりますので、テレビ・ラジオ等の報道に注意してください。なお,今後の台風についても同様の措置をとることとしますのでよろしくお願いいたします。

【 記 】

 1.登校前に発令された場合
(1) 「暴風警報」が解除されるまでは、登校を見合わせ、自宅待機させてください。
(2) 「暴風警報」が解除になった場合については、次の措置をとります。
1 午前7時までに解除になった場合 平常授業
2 午前9時までに解除になった場合 3校時(10:40)から始業
3 午前11時までに解除になった場合 5校時(13:10)から始業
4 午前11時現在、警報発令中の場合 臨時休業

2.在校中に発令された場合
気象状況、帰宅に要する時間、通学路の状況、家庭状況などに十分配慮し、帰宅させるかどうかを決定します。


以上、お子さまにもその趣旨をふまえてご指導いただきますようお願いいたします。

ロマンチシズム

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 先週の土曜日,仲秋の名月であった。いわゆるお月見である。大覚寺の大沢の池では,竜頭船を浮かべて月見をしたり,下鴨神社では,平安貴族舞,舞楽,管弦,琴などが奉納されたり,上賀茂神社,平野神社等各所でいろいろな催しが行われていた。で,一番の月見の名所はと尋ねられれば,わたしは間髪入れず,広沢の池の観音島から見る月見であると返答するだろう。
 ところで,芭蕉の有名な「名月や池をめぐりて夜もすがら」(「孤松」)という句がある。其角ら数名の門人らと芭蕉庵で,月見をした折の作といわれる。「夜もすがら」は一晩中という意味から,時の経つのも忘れ,我を忘れてという意味である。「名月に誘われて,月影の宿る池の周りを,我を忘れて,いつまでも歩き続けている」という意味であろう。よくよく味わってみると,芭蕉は直接月を見ていないのである。池に映る月を眺めてさまよっていたのである。芭蕉には,こんな句もある。琵琶湖の湖上を眺めて詠んだもので,「名月や海にむかへば七小町」(「初蝉」)である。「七小町」は,絶世の美女と言われた小野小町の華やかな恋愛から始まり,老いて死に至る七度の変転の一生のことをいう。月光に照らされた湖上の波が七変化する美景を美女の代表としての小町に掛けたもので,ここでも,湖上の月の光である。
 大覚寺の辺りは,平安時代から貴族の別荘があり,山越のさざれ石山の西のふもとの道を「千代ノ古道」と呼ぶが,この道を貴族たちは通り,天皇もまた行幸したのである。大沢の池では,貴族や天皇は,おそらく芭蕉同様,水に映る月を眺めて遊んだのであろうと思われる。その大覚寺の東に,広沢の池がある。観音島に立って,そこで月の出を待つと,月と音戸山との微妙な関係で,水面に三筋に分かれて光が現れ,それが二筋になり,そして,一筋とつながって,観音島の千手観音にかがやいてくるのである。この光景を目にしたときの感動は今でも覚えている。しかし,よくよく考えてみてもわかるだろうが,丸い月を直接見ていても何の変哲もないものである。水面に映る月の光の変化を月見とするほうがよほどロマンチックではないだろうか。
 日本人は昔から直接物の見るのではなく,御簾を通して人やものを見たり,風の音を通して季節を感じたり,つまり,心の目を通して見てきたのである。『源氏物語』を読んでいても,何畳の部屋とも書いてないが,その大きさや窓の向きやいろいろな様子が思い浮かんでくる。リアリズムというよりロマンチシズムであった。伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国の郷土を愛するという教育基本法も,現代的なリアリズム的に読むより,思いを推し量るロマンチシズム的に読むことが必要である。つまり,この教育こそ,わたしがいつも言う想像力を養う教育なのである。

進路保護者会がありました。

定期考査の初日になる10月6日木曜日、お昼過ぎから、進路についての保護者会がありました。なかなかお出ましいただきにくい時間帯にもかかわらず、1・2年生や校下の小学校の保護者の方も含め、60人ほどの保護者の方々に来校していただきました。内容としては、近年、どんどん変化している公立高校の入学者選抜制度について具体的な中身を知っていただくというものでした。なかなか複雑な制度ですが、こうした機会を活用していただき、子どもたちが安心して進路選択をし、そこに向かって進んでいけるよう、学校も保護者も力を合わせたいものです。お世話いただいたPTAや地生連の方々、ありがとうございました。
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形式美

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 4日の日曜日,京都市幼児・児童・生徒作品展及び姉妹都市交歓作品展の受付に出かけた。ちょうど小学校1年生の絵画作品が眼前にあり,眺めていた。縦四段で,下から二段目くらいがちょうど目の高さで,三段,四段目だとちょっと見上げねばならない。4時間ほど受付にいると,眼前の作品の順序が気になりだした。自分なら広がりのある作品を上段に,横に広がる作品はここにと,そして,周辺の作品を含めて全体構成はなどと,素人なりの配置を考えているのも楽しかった。
 ところで,わたしの専門は国語である。この広がりということを考えた時,原稿用紙の余白を思い出した。段落を変えるとき,いくマスかの空白ができる。これは文章自体の読みやすさとともに,1枚の原稿用紙を見たとき,どれだけの空白がバランスよく配置されているかが大切だと思う。わたし自身,どんな空白をつくろうかとイメージしながら原稿用紙を眺める。段落は変えればよいというものではない。この空白を調整しながら文章を考えなければならないと思う。そこで,文章というものが練れるのである。そのことで文章自体が磨かれていくのである。わたしは自分自身,原稿用紙の空白美と呼んでいるが,1枚の稿用紙全体を美しく見せようとすることは,読ませる人にも視線から読ませたいと思わせる形式美である。もちろんその形式美には,字の丁寧さも含まれる。がさがさと書いた字ではいけない。下手な字でもかまわない,丁寧に書いた字が大切なのである。わたし自身,見てくれの悪い原稿用紙を見ると,読みたいとは思わない。1枚目も読みたいと思わない原稿を,2枚目,3枚目と読み進められるだろうか。どれだけいいことが書いてあっても,読みたいと思う美を備えてなければならない。内容さえと良ければと思う人もあるかと思うが,その空白美を追求すれば,そこに入る言葉はもっと磨かれることは確実である。
 このことは,何も原稿用紙の形式美だけではない。例えば,挨拶もろくにできないのに,その人にそれ相応の評価を与えるだろうか。形式美といえども,大切な美意識であると思う。

面授

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 「面授」という言葉がある。仏教の専門用語で,『広辞苑(第六版)』によると,「師が弟子に面と向かって口伝えに法門上の奥儀を授けること」とある。簡単に言えば,大切なというか本物の情報は,人と人とが向かい合って,表情や身振り,手振り,肉声でしか伝わらないということだ。
 面授のもっとわかりやすい例は,赤ん坊の育ちである。赤ん坊はロボットによって育てられるかということだ。育てられるかもしれないが,人としては,育てられないだろう。なぜなら,赤ん坊は,母親の肌に触れ,やすらぎを覚え,母親の表情や発する言葉,身振り,手振りからいろいろな情報を得ながら人として育っていくのである。
 義務教育も同様だと思う。先生と生徒が向かい合いながら,また,生徒同士がいろいろな状況を把握しながら,学び合っていくのだ。教科書の中身をそのまま伝えることは,機械でも伝えられるが,中身のある人間としての在り方など,生きたものは,人と人とが通じ合っていなければ難しいだろう。つまり,それが「面授」というものなのだ。しかし,そこには,前提がいる。それは,先生と生徒たちが,生徒たち同士が,先生同士が信頼し合うということだ。その結果が楽しいクラスであるという実感であり,楽しい職員室であるという実感をお互いが持てているかということだ。
 明日から定期考査3が始まる。この結果は,生徒個々の成績だけを見るものではない。「面授」という先生と生徒,生徒同士の,先生同士のお互いの人間同士が向かい合いながら,真剣に物事を伝え合ってきたか,考え合ってきたかの結果を見るという視点もあるように思う。


背景

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 昨日,新聞が祇園祭の山鉾が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に追加登録されたことを伝えた。以前に,国の重要無形民俗文化財にも指定されている。動く美術館という異名があるほどの素晴らしい山鉾32基が世界のひのき舞台に登場したのである。
 教育基本法改正により,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国の郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与することという部分にも一致する。
 わたしたちは地元京都に住んでいる。しかし,どれだけ祇園祭のことを知っているだろうか。生徒たちは,17日の山鉾巡行前後だけのように思っているが,実は,7月1日の切符入から31日の夏越祓までの1か月間行われる。鱧祭,屏風祭とも呼ばれ,くじ取らず,神輿洗い,あばれ観音,辻回し,後祭等々いろいろなことが思い浮かぶ。
 こんなこともある。鉾町では,祇園祭が始まると,「ギオンマツリドスナー」という挨拶が交わされる。それに対して,鉾町以外の人は「ソウドスナー」と応えるが,鉾町の人は「アツオスナー」と応える。「祇園祭ですね」と言われて「そうですね」というのは,当然の返答である。「暑いですね」では話がかみ合わない。しかし,祇園祭は疫病退散の神事であり,暑くなければならない。鉾町の人々の暑くなって欲しいとの願いであるのかもしれない。そして,何より大事なのは,この返答により,鉾町の仲間か,そうでないかを見分けるのである。それによって,これからの話の内容が変わるのである。仲間かどうかを知って,話題を変えるということは,ある意味,文化である。そして,巡行を見るところはズバリどこかと尋ねられれば,即座に山鉾が帰る最後の新町通か室町通であると言い切る。狭い通りぎりぎりに,一文字瓦の街並みを進む姿こそが圧巻である。京都ならではの文化である。いろいろなものには背景があり,それをひっくるめての登録でなければ意味がない。ニューヨークのウォールストリートに山鉾巡行は似合うだろうか。奇抜さも一度はいいかもしれないが。
 わたしたち一人一人は,独立した人間である。しかし,その背景には,家族や親せき,友だちや地域の人々,それに教職員やボランティアの方々,いろんな人があって自分があるということを常に忘れずにいて欲しい。

着実に

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 10月に入った。ちょうど折り返しである。いよいよ3年生は進路実現に向けて,また,1,2年生にとっても落ち着いて学習に取り組む時期がやってきた。
 新井白石の逸話に「一粒の米」がある。幼少の頃,父が白石に戒めのために示した話である。米びつ(お米を入れておく箱)から,1日一粒ずつの米を抜き取っても減ったとは分からないし,また,一粒入れたとしても増えたかどうかは分からない。しかし,1年,2年と続けていくと,その増減が分かってくる。学問も同じで,一日勉強したからといって,利口になるものでもないし,一日怠けてからといって,愚かになるものでもない。しかし,1年,2年と続いていけば,必ず変わってくるという話である。
 勤勉という言葉に対して,努力という言葉に対して,最近は,それらを尊ぶ風潮がどこかに置き忘れられたかのようになってきているが,数日前にも書いた長嶋選手や王選手の陰の努力のように,日々こつこつとすすめることの大切さを体で体得して欲しい。「千里の道も一歩から」を実感する時がきた。
 あとの半年,ちょっとの時間を大切に自分の取り組める簡単な取組を行って欲しい。例えば,家に帰る時刻を6時とする。お母さんが夕食の支度まで,まだ30分あるとしよう。手洗い,うがいをして,服を着かえて15分,あと10分間くらいで,英語の単語を5つ覚える,漢字を5つ覚えるというものでよい。ノートに昨晩のうちに明日覚える単語や漢字を5つ書いておく。それを毎日,毎日繰り返す。それもノートでないとダメである。量が分かるようにしなければならないから。きっと半年後,よくやったなと,自分で感心するだろう。そんな経験を中学校の間に持ってもらいたい。小さなことの積み重ねの大きさを実感として味わって欲しい。

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 音楽室前の3階廊下から,北東の方角に目をやると,如意ヶ岳,それに比叡山が見通せる。比叡山の麓に住んでいるせいか,どこへ行っても気になり見てしまう。しかし,どこから見てもこれほど違う顔をもった山はない。岡崎中学校からは,丸みを帯びた,お椀をひっくり返したように見え,なぜか親しみがわく。
 新幹線でよく富士山を見るが,いつも思うことだが,富士山のような整然とした山を毎日見ていたらさぞ飽きるだろうなと。やはり京都には比叡山だと思う。そして,『伊勢物語』の九段「東下り」では,「……その山は,ここにたとへば,比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして(その山は、都でたとえるならば、比叡山を二十ばかり積み重ねたような高さで)……」と書かれていることをふと思い出した。でも実際は,富士山の3776メートルに対して,比叡山は848メートルであり,おおよそ4.5倍である。最古の物語,『竹取物語』にも出てくる日本を代表する富士山に対して,都を代表する比叡山,その二十倍とは,さぞ都の人も驚いたろうと想像するし,神々しい山なら,当然なのかとも思ってしまう。
 今は何もかも数字で片付けてしまう。数字で割り切れない世界もあるのにと思って,ぼんやりと比叡山を見ていると,歌声が聞こえてきた。

横綱相撲

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 連休に『NHKスペシャル「長嶋と王50年目の告白」』を見た。元読売巨人軍の長嶋選手と王選手の秘話である。天才と呼ばれた長嶋,努力の人と呼ばれた王,両選手はつくられたイメージのために,どれほどの努力がその裏にあったかが語られていた。
 長嶋選手が試合後,家に帰って,夜の10時から1時までの3時間,毎日素振りをしていたという。初めて球場へこられるファンのことを思うと,やはりヒットを打たなければならない。すると自然と練習しなければならないという。王選手も,荒川コーチについて素振りの練習を始めるが,自分としては,やらねばという思いは実際2割くらいであったと語っていた。しかし,ホームランバッターとして君臨してからは,ファンを裏切ることができず,練習練習の日々であったという。偉大だといわれる人は,偉大というイメージを維持するためにも,より一層の精進しかないのである。だれもが努力のあとに得ることのできるものが栄冠なのである。そして,その維持のためにまた努力が重なるのである。
 ふと一昨日終わった相撲を思い出した。他のスポーツが頂点を目指し,勝ち進んでいくのに対して,相撲は,優勝を目指し,そして,横綱に昇進する。その横綱は,品格とそれにふさわしい相撲を取らなければならない。つまり,横綱相撲を維持していくことが大切なのである。すると,入試というものが頭をよぎった。入試は単にその学校に通るためだけにあるのではない。高校なら3年間続けなければならない。つまり,入ってからも続けられる学力と忍耐が必要なのである。単に入ってしまえばという見方の先にある卒業をも見越した,横綱相撲を取り続けられる力を持ち合わせなければならない。これは,単に入試だけでもない。人生の節目,節目を考えながら,頑張り続ける努力がそれに通じる。

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京都市立岡崎中学校
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