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最新更新日:2025/07/11 |
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進路保護者会がありました。
定期考査の初日になる10月6日木曜日、お昼過ぎから、進路についての保護者会がありました。なかなかお出ましいただきにくい時間帯にもかかわらず、1・2年生や校下の小学校の保護者の方も含め、60人ほどの保護者の方々に来校していただきました。内容としては、近年、どんどん変化している公立高校の入学者選抜制度について具体的な中身を知っていただくというものでした。なかなか複雑な制度ですが、こうした機会を活用していただき、子どもたちが安心して進路選択をし、そこに向かって進んでいけるよう、学校も保護者も力を合わせたいものです。お世話いただいたPTAや地生連の方々、ありがとうございました。
![]() ![]() ![]() 形式美![]() ところで,わたしの専門は国語である。この広がりということを考えた時,原稿用紙の余白を思い出した。段落を変えるとき,いくマスかの空白ができる。これは文章自体の読みやすさとともに,1枚の原稿用紙を見たとき,どれだけの空白がバランスよく配置されているかが大切だと思う。わたし自身,どんな空白をつくろうかとイメージしながら原稿用紙を眺める。段落は変えればよいというものではない。この空白を調整しながら文章を考えなければならないと思う。そこで,文章というものが練れるのである。そのことで文章自体が磨かれていくのである。わたしは自分自身,原稿用紙の空白美と呼んでいるが,1枚の稿用紙全体を美しく見せようとすることは,読ませる人にも視線から読ませたいと思わせる形式美である。もちろんその形式美には,字の丁寧さも含まれる。がさがさと書いた字ではいけない。下手な字でもかまわない,丁寧に書いた字が大切なのである。わたし自身,見てくれの悪い原稿用紙を見ると,読みたいとは思わない。1枚目も読みたいと思わない原稿を,2枚目,3枚目と読み進められるだろうか。どれだけいいことが書いてあっても,読みたいと思う美を備えてなければならない。内容さえと良ければと思う人もあるかと思うが,その空白美を追求すれば,そこに入る言葉はもっと磨かれることは確実である。 このことは,何も原稿用紙の形式美だけではない。例えば,挨拶もろくにできないのに,その人にそれ相応の評価を与えるだろうか。形式美といえども,大切な美意識であると思う。 面授![]() 面授のもっとわかりやすい例は,赤ん坊の育ちである。赤ん坊はロボットによって育てられるかということだ。育てられるかもしれないが,人としては,育てられないだろう。なぜなら,赤ん坊は,母親の肌に触れ,やすらぎを覚え,母親の表情や発する言葉,身振り,手振りからいろいろな情報を得ながら人として育っていくのである。 義務教育も同様だと思う。先生と生徒が向かい合いながら,また,生徒同士がいろいろな状況を把握しながら,学び合っていくのだ。教科書の中身をそのまま伝えることは,機械でも伝えられるが,中身のある人間としての在り方など,生きたものは,人と人とが通じ合っていなければ難しいだろう。つまり,それが「面授」というものなのだ。しかし,そこには,前提がいる。それは,先生と生徒たちが,生徒たち同士が,先生同士が信頼し合うということだ。その結果が楽しいクラスであるという実感であり,楽しい職員室であるという実感をお互いが持てているかということだ。 明日から定期考査3が始まる。この結果は,生徒個々の成績だけを見るものではない。「面授」という先生と生徒,生徒同士の,先生同士のお互いの人間同士が向かい合いながら,真剣に物事を伝え合ってきたか,考え合ってきたかの結果を見るという視点もあるように思う。 背景![]() 教育基本法改正により,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国の郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与することという部分にも一致する。 わたしたちは地元京都に住んでいる。しかし,どれだけ祇園祭のことを知っているだろうか。生徒たちは,17日の山鉾巡行前後だけのように思っているが,実は,7月1日の切符入から31日の夏越祓までの1か月間行われる。鱧祭,屏風祭とも呼ばれ,くじ取らず,神輿洗い,あばれ観音,辻回し,後祭等々いろいろなことが思い浮かぶ。 こんなこともある。鉾町では,祇園祭が始まると,「ギオンマツリドスナー」という挨拶が交わされる。それに対して,鉾町以外の人は「ソウドスナー」と応えるが,鉾町の人は「アツオスナー」と応える。「祇園祭ですね」と言われて「そうですね」というのは,当然の返答である。「暑いですね」では話がかみ合わない。しかし,祇園祭は疫病退散の神事であり,暑くなければならない。鉾町の人々の暑くなって欲しいとの願いであるのかもしれない。そして,何より大事なのは,この返答により,鉾町の仲間か,そうでないかを見分けるのである。それによって,これからの話の内容が変わるのである。仲間かどうかを知って,話題を変えるということは,ある意味,文化である。そして,巡行を見るところはズバリどこかと尋ねられれば,即座に山鉾が帰る最後の新町通か室町通であると言い切る。狭い通りぎりぎりに,一文字瓦の街並みを進む姿こそが圧巻である。京都ならではの文化である。いろいろなものには背景があり,それをひっくるめての登録でなければ意味がない。ニューヨークのウォールストリートに山鉾巡行は似合うだろうか。奇抜さも一度はいいかもしれないが。 わたしたち一人一人は,独立した人間である。しかし,その背景には,家族や親せき,友だちや地域の人々,それに教職員やボランティアの方々,いろんな人があって自分があるということを常に忘れずにいて欲しい。 着実に![]() 新井白石の逸話に「一粒の米」がある。幼少の頃,父が白石に戒めのために示した話である。米びつ(お米を入れておく箱)から,1日一粒ずつの米を抜き取っても減ったとは分からないし,また,一粒入れたとしても増えたかどうかは分からない。しかし,1年,2年と続けていくと,その増減が分かってくる。学問も同じで,一日勉強したからといって,利口になるものでもないし,一日怠けてからといって,愚かになるものでもない。しかし,1年,2年と続いていけば,必ず変わってくるという話である。 勤勉という言葉に対して,努力という言葉に対して,最近は,それらを尊ぶ風潮がどこかに置き忘れられたかのようになってきているが,数日前にも書いた長嶋選手や王選手の陰の努力のように,日々こつこつとすすめることの大切さを体で体得して欲しい。「千里の道も一歩から」を実感する時がきた。 あとの半年,ちょっとの時間を大切に自分の取り組める簡単な取組を行って欲しい。例えば,家に帰る時刻を6時とする。お母さんが夕食の支度まで,まだ30分あるとしよう。手洗い,うがいをして,服を着かえて15分,あと10分間くらいで,英語の単語を5つ覚える,漢字を5つ覚えるというものでよい。ノートに昨晩のうちに明日覚える単語や漢字を5つ書いておく。それを毎日,毎日繰り返す。それもノートでないとダメである。量が分かるようにしなければならないから。きっと半年後,よくやったなと,自分で感心するだろう。そんな経験を中学校の間に持ってもらいたい。小さなことの積み重ねの大きさを実感として味わって欲しい。 山![]() 新幹線でよく富士山を見るが,いつも思うことだが,富士山のような整然とした山を毎日見ていたらさぞ飽きるだろうなと。やはり京都には比叡山だと思う。そして,『伊勢物語』の九段「東下り」では,「……その山は,ここにたとへば,比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして(その山は、都でたとえるならば、比叡山を二十ばかり積み重ねたような高さで)……」と書かれていることをふと思い出した。でも実際は,富士山の3776メートルに対して,比叡山は848メートルであり,おおよそ4.5倍である。最古の物語,『竹取物語』にも出てくる日本を代表する富士山に対して,都を代表する比叡山,その二十倍とは,さぞ都の人も驚いたろうと想像するし,神々しい山なら,当然なのかとも思ってしまう。 今は何もかも数字で片付けてしまう。数字で割り切れない世界もあるのにと思って,ぼんやりと比叡山を見ていると,歌声が聞こえてきた。 横綱相撲![]() 長嶋選手が試合後,家に帰って,夜の10時から1時までの3時間,毎日素振りをしていたという。初めて球場へこられるファンのことを思うと,やはりヒットを打たなければならない。すると自然と練習しなければならないという。王選手も,荒川コーチについて素振りの練習を始めるが,自分としては,やらねばという思いは実際2割くらいであったと語っていた。しかし,ホームランバッターとして君臨してからは,ファンを裏切ることができず,練習練習の日々であったという。偉大だといわれる人は,偉大というイメージを維持するためにも,より一層の精進しかないのである。だれもが努力のあとに得ることのできるものが栄冠なのである。そして,その維持のためにまた努力が重なるのである。 ふと一昨日終わった相撲を思い出した。他のスポーツが頂点を目指し,勝ち進んでいくのに対して,相撲は,優勝を目指し,そして,横綱に昇進する。その横綱は,品格とそれにふさわしい相撲を取らなければならない。つまり,横綱相撲を維持していくことが大切なのである。すると,入試というものが頭をよぎった。入試は単にその学校に通るためだけにあるのではない。高校なら3年間続けなければならない。つまり,入ってからも続けられる学力と忍耐が必要なのである。単に入ってしまえばという見方の先にある卒業をも見越した,横綱相撲を取り続けられる力を持ち合わせなければならない。これは,単に入試だけでもない。人生の節目,節目を考えながら,頑張り続ける努力がそれに通じる。 聞き方![]() ここで,簡単に河野義行さんのことを紹介すると,1994年6月「松本サリン事件」に遭遇され,第一通報者でありながら,自宅付近からサリンが発生していたため,長野県警の家宅捜査や事情聴取を受けられ,マスコミから容疑者扱いで大きく取り上げられたという苦い経験の末,その後,1995年に「地下鉄サリン事件」が発生により,オウム真理教による事件関与が明らかになり,無実が証明されたという経験の持ち主の方である。 わたしの話の聞き方は,あまりメモを取らず,大事だと思われる単語や表現を書き,講演ののち,覚えていることを中心にまとめるというふうにしている。わたしの頭に残ったものは,「現実から逃げない」「事実を見つめる」「自分の仕事に専念する」「普段どおり」というものであった。 「現実から逃げない」「事実を見つめる」は,河野さん自身の事件に対する対処法であった。淡々と起こった事実だけが本当のことで,それ以上でも以下でもないという視点だ。「知らないことは知らない」「やってないことはやってない」「わからないことはわからない」,勝手に憶測しないということを淡々と訴えられた。「自分の仕事に専念する」は,河野さんの主治医の姿勢だ。犯人であろうがなかろうが,医者の仕事は,目の前に横たわる患者のために,ただただひたすら治療に専念することであるという考えかたである。そして,「普段どおり」は,3人の子どもたちが通っていた学校の在り方である。何があろうと子どもたちには関係がなく,子どもたちの通っている学校の生徒たちも教職員も普段どおりに接し通した結果,子どもたちの心の居場所であったということである。そして,最後に河野さん自身が昨年亡くなられた妻が生きて頑張っていてくれたこと,そして,自分を100%信じてくれた一人の友人のいたことが心の支えとなったことでまとめとされた。 このことはどれをとっても,わたしたちが子どもたちを育てる視点である。話を聞くということは,読書とともに,自分の中でもやもやとした思いでいることを払しょくさせてくれたり,自分の思いをまとめてくれたり,自分とは違った人の経験ではあるものの,自分の思いと共感する部分で納得させてくれたりするものであると思う。他の先生方も行っておられたが,たぶん共通する部分と違った部分を強調される部分があると思う。人というものは違ってあたりまえであるし,だからこそおもしろいのである。そこには,人それぞれの生きてきた人生や生活があるからである。 よぎる![]() わたしは,パラシュートをつくった覚えがある。がくをつけたまま花をとり,そのがくをゆっくり引き,雌しべが花の下の部分に引っ掛かるまで引き下げ,がくを取り去ると子房が下についたパラシュートとなる。 こうした草花遊びを保護者の方々はされただろうか。オシロイバナを見ながら,幼かったころがいろいろとよみがえってきた。近所に妙覚寺というお寺があって,土塀の崩れかけたところに,この花が咲いていた。すると,今度はそのお寺の西に公園があって,野球をしていて,近所の家のガラスを割ったことを思い出した。そして,体調を壊して寝ていた母親が謝りに行ってくれた。次から次へとそのころのことが思い出された。オシロイバナに幼いころの思い出が隠されていた。今の生徒たちに,ささやかでいいから,岡崎中学校での思い出につながる,そんな何かを持っていてくれているだろうかと,ふと心をよぎった。 ジワジワ度![]() ところで,わたしはよく指標ということばを使う。行ったことへの評価をみるリトマス紙の意味であるが,わたしたちは,この指標を何にするかということを以て,いろいろな活動を行わなければならないと考える。その第一は,楽しいクラスづくりである。しかし,それは評価規準であって,基準ではない。その基準づくりが具体性を伴う,担任の考えである。この岡崎フェスタでどの程度,クラス,学年づくりがすすんだかを確認しながら,各先生方も自分のクラスを見定めている。どれだけのジワジワ度かはクラスによって違うが,それを見ながら,舵取りをするクラス担任が,本当にうらやましい限りである。 |
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